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第1章 白醒めた息止まり
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調査に区切りをつけ、寄木が事務所まで戻ると、二階の窓から煌々と灯りが漏れていた。
寄木はおそらく紅葉だろうと踏み、隣接する自宅に帰るつもりだった足を止め、そのまま階段を上がり、事務所のドアを開ける。蒸し蒸しとした熱帯夜を抜け、急な坂道を歩いてきた身には、ほどほどに空調の利いた室内は染み渡るようだ。
「おかえりなさい、照須さん」
普段は寄木が腰掛けている事務机の椅子には案の定、紅葉が背を凭れていた。スマホをいじっていたようだが、寄木の姿を認めた途端、パタリと興味を失くしたように机の上に置いた。
「うん、ただいま」
寄木はポケットからスマホやら財布やらを取り出し、応接用のテーブルに放り出すと、ソファに腰を落ち着けた。壁掛け時計の針は、すでに午後の十時を過ぎていた。知らず、せっつかれるように息が漏れる。どうも疲労が溜まっていたらしい。
「お疲れのよう」紅葉の呟きがしんとした室内に細く通る。
「ああ。……まったく、こういう瞬間にこそ、つくづく老いを実感させられる」
と、寄木は苦笑混じりに本音をこぼした。寄木の年齢は今年で三十六。そんな三十代後半ともなると、二十代の頃のような潰しが効かないことを自覚してしまうときが今のように度々訪れるのだった。
「でも、すごく素敵」
紅葉は頬杖をついて、寄木の様子をまじまじと眺めている。
「しかし、夏休みだからって夜更かしは感心しないな」
「……私、もう高校二年よ。来年には成人」
紅葉のどこか背伸びを感じる主張に──ああ、もうそんな歳なのかと思わず感慨に浸りかける。が、ここで微睡む訳にもいかない。
「俺にとって、君たちはまだまだ子供だ」
直前までいい雰囲気だと思ったのに、と紅葉がぼやく向こうで、だからこそだよ、と寄木は内心口角を引き攣らせた。
「碧菜はもう眠ったのかい?」
「それが、まだ帰ってきてもいないの。たぶん、弥月くんのとこだと思うのだけど」
「……それは、俺が聞いてもいい話なのだろうか?」
寄木が神妙な顔つきで確認を求めると、紅葉はきょとんとした目になり、次いで口許を指で軽く隠し、肩を小刻みに揺らし出した。
釈然とはしないが、そちらの方面の心配は無用らしい。
「べ、別に…ふふっ。照須さんの心配もわかるけど。なにも問題なんてないわ。だって、あの子にそんな勇気なんてないだろうし」
「……紅葉。その様子だと二人揃って、俺に隠し事があるだろう」
紅葉はそれに一も二もなく首肯してみせた。突かれる時を待っていたかのように。そして、事実そのようだった。
「はい、ちゃんとお話しします。まず本当のことを言うと、今夜はその話があって、照須さんの帰りをこうして待ってたの」
話せる未来が現在しかなかったから──。
そんな前振りを聞かされ、寄木はますます“不吉”な予感を募らせていく。
紅葉はさも平然とした声で、喜劇のような台詞を言い放った。
「弥月くんが、黒い犬になっちゃったみたい」
思考が停止する。
「───なんだって?」
ようやく絞り出せたのはたったのその一言。
それはおよそ寄木の考えうる限り、最悪に近接したシナリオだった。
◇
弥月の家には、たぶん彼の他に誰もいなかった。
少なくとも透視越しに確認できる姿は、二階のベッドにこんな暑い中、布団を被った影がうずくまっている様子だけ。
「……会うことはできるって言うけど」
インターホンをとりあえず押してみる。
ほとんど空っぽ同然の家と知っていながらだと、やっぱり虚しい行為としか思えないけれど。
二階の部屋をその場から覗き上げる。対象、動く気配はなし。
「案の定というか」と、思わずぼやいてしまう。
しかし、姉の未来視がそんな些細なことで覆るはずがない。
事前に私が侵入できそうな限りにおいて、窓の鍵が空いている箇所は見当たらなかった。
プッシュ・プル錠の取手を引く。
すると、扉は拍子抜けするほどにすんなりと開いた。
同時に、私は夏場の日差しを背に幽かな寒気を覚えた。
屋内の空気は、雑然とした外と比べて、息が浅くなるほどに澄み渡っていた。
それでいて、二階の気配が不釣り合いにも膨れ上がって感じ取れた。
扉といった仕切りもなく、開放されたリビングの日向が廊下へ柔らかに漏れ出している。靴を脱いで、框をそっと踏む。試しに左手のリビングを覗いてみる。一言に生活感は希薄だった。巨大なスクリーンの黒に、私の立ち姿が朧げに映り込む。リビングテーブルは広々とした純白。リモコンやティッシュ箱などの小物がその上に並び、生活の痕跡は確かに残されている。けれど、逆に言えばそれだけだった。
二階に強烈とも言える気配を残しておきながら、他の部分が整然とし過ぎている。まるで、モデルルームの展示みたい。
私は後ろ髪を引かれるようにリビングの景色を後にして、階段を上がっていく。
私の小さな息遣いのひとつひとつがひどく耳に障る。
きっと、道中で聞き飽きるくらいに浴びた蝉の鳴き声が、ここでは一つも響いてこないせいだろう。無音だった。
“みづき”と平仮名で刻印された看板が紐で掛かけられた扉の前。
隣の扉にも、似たようなものが掛かっていた。彼の妹らしき名前が彫ってある。あちらは女の子らしく鮮やかに彩色され、弥月の淡白な性格を前面に押し出したものとは異なり、雲のように輪郭がウェーブを描き、デコレーションまでされていた。
私は知らず、そこで一息つく。
決心なんて要らないと悟った。
ハンドルを下げ、扉を押し開ける。
何もない部屋であることに、まず驚きはなかった。
胸がざわつくくらい、何より彼らしいと思えた。
弥月は簡素なベッドの上で夏場にも関わらず真っ黒な布団を被り、相変わらず、じっとうずくまっている様子だった。具合が悪いのかもしれない。私はそう思い、下手に起こしてしまわないよう、慎重に彼のそばへ近寄った。
でも、彼は微かに身動ぎをし、私の存在にはもう気がついてしまっているみたい。
“布団”の頭のほうを覗き込んでみる。
「大丈夫」と、私は囁いた。
そこで目が合った。紅の色。丸い瞳をしていた。
まるで狼のように、その目付きは鋭かった。
「───!」
私はつい後ずさってしまった。
どくん、どくん、どくん、と。
動悸が治らなかった。
どうして今の今まで、その存在感、その変貌ぶりにまるで気がつきもしなかったのか。認識できていなかったのか。
自分の愚鈍さがとても信じられなかった。
狼のように、ではない。まさしく狼そのもの。
人間用のベッドが重荷で壊れていないのが不思議なくらいの巨体。
艶やかな漆黒の毛並みをした獣が、たた、そこに佇んでいた。
そうか、と私は後に回想する。
弥月にとってはここさえも、あの白い牢獄と変わりないのだと。
◆
八月四日。
夜空に泛ぶ月は、影に呑まれ。
大きく膨らんだ巨体は、ひたすら力強く、夜闇の大地を蹴り上げた。
寄木はおそらく紅葉だろうと踏み、隣接する自宅に帰るつもりだった足を止め、そのまま階段を上がり、事務所のドアを開ける。蒸し蒸しとした熱帯夜を抜け、急な坂道を歩いてきた身には、ほどほどに空調の利いた室内は染み渡るようだ。
「おかえりなさい、照須さん」
普段は寄木が腰掛けている事務机の椅子には案の定、紅葉が背を凭れていた。スマホをいじっていたようだが、寄木の姿を認めた途端、パタリと興味を失くしたように机の上に置いた。
「うん、ただいま」
寄木はポケットからスマホやら財布やらを取り出し、応接用のテーブルに放り出すと、ソファに腰を落ち着けた。壁掛け時計の針は、すでに午後の十時を過ぎていた。知らず、せっつかれるように息が漏れる。どうも疲労が溜まっていたらしい。
「お疲れのよう」紅葉の呟きがしんとした室内に細く通る。
「ああ。……まったく、こういう瞬間にこそ、つくづく老いを実感させられる」
と、寄木は苦笑混じりに本音をこぼした。寄木の年齢は今年で三十六。そんな三十代後半ともなると、二十代の頃のような潰しが効かないことを自覚してしまうときが今のように度々訪れるのだった。
「でも、すごく素敵」
紅葉は頬杖をついて、寄木の様子をまじまじと眺めている。
「しかし、夏休みだからって夜更かしは感心しないな」
「……私、もう高校二年よ。来年には成人」
紅葉のどこか背伸びを感じる主張に──ああ、もうそんな歳なのかと思わず感慨に浸りかける。が、ここで微睡む訳にもいかない。
「俺にとって、君たちはまだまだ子供だ」
直前までいい雰囲気だと思ったのに、と紅葉がぼやく向こうで、だからこそだよ、と寄木は内心口角を引き攣らせた。
「碧菜はもう眠ったのかい?」
「それが、まだ帰ってきてもいないの。たぶん、弥月くんのとこだと思うのだけど」
「……それは、俺が聞いてもいい話なのだろうか?」
寄木が神妙な顔つきで確認を求めると、紅葉はきょとんとした目になり、次いで口許を指で軽く隠し、肩を小刻みに揺らし出した。
釈然とはしないが、そちらの方面の心配は無用らしい。
「べ、別に…ふふっ。照須さんの心配もわかるけど。なにも問題なんてないわ。だって、あの子にそんな勇気なんてないだろうし」
「……紅葉。その様子だと二人揃って、俺に隠し事があるだろう」
紅葉はそれに一も二もなく首肯してみせた。突かれる時を待っていたかのように。そして、事実そのようだった。
「はい、ちゃんとお話しします。まず本当のことを言うと、今夜はその話があって、照須さんの帰りをこうして待ってたの」
話せる未来が現在しかなかったから──。
そんな前振りを聞かされ、寄木はますます“不吉”な予感を募らせていく。
紅葉はさも平然とした声で、喜劇のような台詞を言い放った。
「弥月くんが、黒い犬になっちゃったみたい」
思考が停止する。
「───なんだって?」
ようやく絞り出せたのはたったのその一言。
それはおよそ寄木の考えうる限り、最悪に近接したシナリオだった。
◇
弥月の家には、たぶん彼の他に誰もいなかった。
少なくとも透視越しに確認できる姿は、二階のベッドにこんな暑い中、布団を被った影がうずくまっている様子だけ。
「……会うことはできるって言うけど」
インターホンをとりあえず押してみる。
ほとんど空っぽ同然の家と知っていながらだと、やっぱり虚しい行為としか思えないけれど。
二階の部屋をその場から覗き上げる。対象、動く気配はなし。
「案の定というか」と、思わずぼやいてしまう。
しかし、姉の未来視がそんな些細なことで覆るはずがない。
事前に私が侵入できそうな限りにおいて、窓の鍵が空いている箇所は見当たらなかった。
プッシュ・プル錠の取手を引く。
すると、扉は拍子抜けするほどにすんなりと開いた。
同時に、私は夏場の日差しを背に幽かな寒気を覚えた。
屋内の空気は、雑然とした外と比べて、息が浅くなるほどに澄み渡っていた。
それでいて、二階の気配が不釣り合いにも膨れ上がって感じ取れた。
扉といった仕切りもなく、開放されたリビングの日向が廊下へ柔らかに漏れ出している。靴を脱いで、框をそっと踏む。試しに左手のリビングを覗いてみる。一言に生活感は希薄だった。巨大なスクリーンの黒に、私の立ち姿が朧げに映り込む。リビングテーブルは広々とした純白。リモコンやティッシュ箱などの小物がその上に並び、生活の痕跡は確かに残されている。けれど、逆に言えばそれだけだった。
二階に強烈とも言える気配を残しておきながら、他の部分が整然とし過ぎている。まるで、モデルルームの展示みたい。
私は後ろ髪を引かれるようにリビングの景色を後にして、階段を上がっていく。
私の小さな息遣いのひとつひとつがひどく耳に障る。
きっと、道中で聞き飽きるくらいに浴びた蝉の鳴き声が、ここでは一つも響いてこないせいだろう。無音だった。
“みづき”と平仮名で刻印された看板が紐で掛かけられた扉の前。
隣の扉にも、似たようなものが掛かっていた。彼の妹らしき名前が彫ってある。あちらは女の子らしく鮮やかに彩色され、弥月の淡白な性格を前面に押し出したものとは異なり、雲のように輪郭がウェーブを描き、デコレーションまでされていた。
私は知らず、そこで一息つく。
決心なんて要らないと悟った。
ハンドルを下げ、扉を押し開ける。
何もない部屋であることに、まず驚きはなかった。
胸がざわつくくらい、何より彼らしいと思えた。
弥月は簡素なベッドの上で夏場にも関わらず真っ黒な布団を被り、相変わらず、じっとうずくまっている様子だった。具合が悪いのかもしれない。私はそう思い、下手に起こしてしまわないよう、慎重に彼のそばへ近寄った。
でも、彼は微かに身動ぎをし、私の存在にはもう気がついてしまっているみたい。
“布団”の頭のほうを覗き込んでみる。
「大丈夫」と、私は囁いた。
そこで目が合った。紅の色。丸い瞳をしていた。
まるで狼のように、その目付きは鋭かった。
「───!」
私はつい後ずさってしまった。
どくん、どくん、どくん、と。
動悸が治らなかった。
どうして今の今まで、その存在感、その変貌ぶりにまるで気がつきもしなかったのか。認識できていなかったのか。
自分の愚鈍さがとても信じられなかった。
狼のように、ではない。まさしく狼そのもの。
人間用のベッドが重荷で壊れていないのが不思議なくらいの巨体。
艶やかな漆黒の毛並みをした獣が、たた、そこに佇んでいた。
そうか、と私は後に回想する。
弥月にとってはここさえも、あの白い牢獄と変わりないのだと。
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