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第1章 ― 虚無の劇場(きょむのげきじょう)
しおりを挟む彼は父の顔を思い出せなかった。
だが、母の顔は──覚えていた。
彼女の柔らかな肌。
疲れていながらも優しく光る瞳。
彼女は、彼のすべてだった。
そして、彼に残された唯一の存在でもあった。
家は静かだった。
二人には広すぎるほどに。
ときどき、彼は壁が「聞いている」と感じることがあった。
母が眠りにつく夜、
廊下の奥で誰かの足音がする気がした。
---
ある日、学校の帰り道。
彼は道端の溝の中に一冊の本を見つけた。
ひび割れた革の表紙。
黄ばんだカバー。
かすれて読めない文字。
> 「黄衣の王の劇場」
その題名を見た瞬間、
彼の背筋を冷たいものが走った。
本が、まるで呼吸しているように見えた。
それでも、彼は拾い上げた。
その夜、彼は自分の部屋で読み始めた──。
---
文は意味をなさなかった。
同じ言葉が繰り返され、ねじれ、逆に戻る。
知らない単語、そして知っているはずの言葉までも歪んでいた。
ページをめくるごとに、部屋の空気が冷たくなっていった。
外の雨音が消える。
そして──あの音がした。
心臓の鼓動のような音。
けれど、それは自分のものではなかった。
彼が最後の一文を読んだとき──
> 「観客は、やがて“演目”となる。」
──すべてが消えた。
---
息。
虚無。
すべてを呑み込む白い光。
彼は目を開けた。
周囲は果てしなく続く白い部屋。
影ひとつない空間。
立ち尽くす子どもたち。
泣く者。笑う者。理由もなく。
声を出そうとしたが、何も出なかった。
喉が焼けるように痛む。
彼は喉に手を当てた。震えていた。
---
> 「……母さん?」
かすれた声が漏れた。
返事はなかった。
沈黙が、壁のように重くのしかかった。
頭がくらりと揺れた。
そして彼は走り出した。
足音。叫び。
自分ではない声の反響。
壁が呼吸していた。
床が、皮膚のように鼓動していた。
どの方向へ走っても、同じ場所に戻ってくる。
白。
子どもたち。
変わらぬ光景。
---
そして──彼は見た。
ひとりの人影。
自分と同じくらいの子ども。
だがその顔は、瞬きするたびに変わっていった。
少年。少女。老いた顔。若い顔。
口元には、広すぎる笑み。
その手には、一片のパンが握られていた。
> 「食べなよ。」
「飢えは狂気を呼ぶ。狂気は王を満たす。」
少年は震えながら見つめた。
だが、腹の音が静寂を破った。
手が伸びる。
パンは温かかった。
そして──生きていた。
口に運ぶと、中で何かが動いた。
聞いたことのない言葉が、囁きのように響いた。
> 「ほら、わかるだろう?」
「もう怖がることはない。」
「ここでは、皆兄弟なんだ。」
その声は二重に響いた。
まるで二人の存在が同時に話しているように。
---
> 「ここは……どこ?」
彼が問うと、
もう一人の“子ども”は笑った。
歯が、多すぎた。
> 「黄衣の王の王国だよ。」
「読んだ者は“劇”の一部になる。」
「ここでは、それを──“擬似劇場(ぎじげきじょう)”と呼ぶんだ。」
乾いた笑いが響く。
> 「ここでは、“存在しないこと”を学ぶんだ。」
---
> 「帰りたい。」
「母さんに会いたい……。」
笑みが、ゆっくりと消えていった。
> 「母さん?」
「いや──君には、そんな人いないよ。」
「君のいた世界では、もう君は存在しない。」
その声は穏やかで、優しかった。
だからこそ──恐ろしかった。
---
彼の中で、何かが壊れた。
胸の奥に、鋭い痛みが走る。
彼は膝をついた。
喉に手を当てる。
叫びたいのに、声が出ない。
> 「なぜ拒むんだ!」
「食べ物を与えた!」
「友を与えた!」
「それでも、僕の手を取らないのか!」
光が震えた。
世界が悲鳴を上げた。
その姿が溶けていく。
蝋のように。
残ったのは、黄金の瞳──
燃えるように、そして人のものではない目。
> 「出たいのか?」
「いいだろう。」
「だが外には、狂気しかない。」
「そしてそれは──君を待っている。」
---
闇。
冷たさ。
断片的な映像。
母の笑顔。
優しい声。遠くで響く。
> 「あなたは……誰?」
彼は答えようとした。
だが、喉はもう動かなかった。
母の顔が溶けていく。
白い世界に、黄色の染みだけが残った。
---
目を開けると、灰色の野原に横たわっていた。
空は動かない。
頬を伝うもの。
それは──涙だったのか。
> 「……僕は、誰なんだ?」
彼は、そう呟いた。
---
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