上 下
33 / 69
4.婚約者の憂鬱

5

しおりを挟む
「……疲れた……」

 もう真っ暗な夜の山道を下る車の中で、私は溜め息とともに呟いた。思っていたより声が大きかったみたいで、それが主任の耳に届いたのか「あれだけで?」と抑揚のない低い声が返ってきた。

 確かに、『あれだけ』なのは否定しない。長時間かけて実家に帰ったのに、滞在時間は1時間足らず。したことと言えば、婚姻届を書いてお茶をしただけだ。

「お夕飯くらい食べていけばいいのに」

 お母さんはそう言って引き留めたが、主任は素っ気なく「すみません。帰りが遅くなりますので。また改めてご訪問します」なんて返していた。

「ちょっ! 与織が帰るなら俺も帰る!」

 もちろんふう君はそう言って帰ろうとしたが、今度はそれにお父さんが答える。

「颯太には話がある。今日はここに泊まりなさい」

 滅多に見ない、ものすごく真剣な顔のお父さんにふう君は仕方ないとばかりに息を吐くと、主任に向いた。

「今日は与織を創一さんに任すけど、ちゃんと家に送り届けてくれよ? 実樹に帰ったこと報告してもらうから。無断外泊なんて許さないからな!」

 いくらなんでも、そんなことあるわけないじゃない……

 そう言いたかったけど、ふう君が本気でそう言っているのを察して言い出せなかった。

「わかっている。ちゃんと家まで送り届ける。心配するな」

 主任は変わらない素っ気なさでそう答え、お父さん達に挨拶をして私達は家をあとにした。


「寝ててもいいぞ。着いたら起こす」

 すでにボーッと前を見ていた私に、そんな言葉が降ってくる。

「その前に、色々聞きたいことがあるんですが」
「なんだ。言ってみろ」

 まるで仕事中に質問したときのような返事に、これが婚約者との会話だろうかと侘しくなる。私はそんなことを思いながら、隣でハンドルを握る主任の横顔を見上げた。

「いったい、誰が本当のことを知ってるんですか? いっちゃんもふう君も知らないですよね」

 謎だらけのこの騒動。お父さんが最初に私に言った、『山を狙う御曹司』は、本物は山など狙ってないのだ。でも、お父さんには別の思惑がありそうだ。そして、その全容を知っているのはほんのひと握りの人だけ。私はそう感じていた。

「今の時点で知っているのは、怜さん、俺の父、そして俺だ。まぁ、あの様子なら怜さんは颯太に話をするようだな。そこから一矢にも話は行くだろう」

 そう聞いて、私は軽く深呼吸をしてから意を決して口を開いた。

「じゃあ、何で私はそこに入れてもらえないんですか?」

 私がそう言うと、しばらく沈黙が続いた。まだまだ山道で、後ろからの車も、すれ違う車もない。ウインカーがカチカチ言う音が聞こえたかと思うと、路肩の、車がちょうど1台停められるスペースに車は滑り込んだ。
 主任は車が停まると、はぁ、と一度息を吐き私を見た。

「知らなくていい」

 車の中に、主任の冷たい声が響く。

「な、……んで? 私も当事者でしょう? 何でそんなこと言うんですか?」

 私は勢いよく主任に返す。

 誰も私に本当のことを教えてくれようとしない。私はいつだって蚊帳の外で、いつまでも子ども扱いされている気がする。そう思うと、勝手に涙が溢れてきてしまう。

「もういいです。家に帰ります」

 そう言うと、私は手早くシートベルトを外してドアを開けると外に飛び出した。

 わかってる。こんな行動をしてしまうのは、まだ自分が大人になりきれてないからだって。

 外気は春といってもヒンヤリとしていて、外に出た途端に薄着の私の肌を刺す。私は車が下りて来たほうへ向かって歩き出した。

「待てっ!」

 後ろでガチャリとドアが開いた音と、主任の慌てた声がする。

「大丈夫です。一人で帰れます」

 振り返ることなく、私は緩やかな坂を登るように進む。自分が情け無いし、頭の中はぐちゃぐちゃで、涙がとめどなく溢れた。

「待てって!」

 主任が後ろまで追いつき、私にそう言う。でも、そう言われても今更止まれない。私は無視して早足で歩いた。

「与織子!」

 私を案じているのか、焦ったような、心配しているような声で主任は私の名前を呼ぶと腕を掴む。

「……離してください。家まで帰れば頭も冷えます。次からはちゃんと婚約者になりきります」

 歩みだけ止めて前を向いたまま、冷えていない頭で、精一杯冷静を装いながら私は言う。

「バカか。こんな夜道を一人で帰せるわけないだろう」

 きっと主任は呆れてるんだろうな、と私は思う。ふう君に任すと言われて、責任を感じているのだろうし。

「じゃあ……ふう君呼びます。心配しないでください」

 私は腕を掴まれたまま、俯いて答えた。

「…………。駄目だ」

 少し間が空き、主任からそう聞こえたかと思うと、急に背中に温かい空気が流れ込んだ。

「行かないでくれ。お願いだ……」

 懇願するように、弱々しい声が頭の上から降ってくる。そして、フワリと背中に熱が伝わった。

「あ…………の……」

 何が起きているのか、そのときすぐに理解できなかった。私が呆然としたままそれだけ言うと、私を抱きしめている主任の腕に力が入った。
しおりを挟む

処理中です...