幸せとは、何も知らないということ。

杉本けんいちろう

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ー第四章ー

星野流果

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『今日も、暑いわねぇ。もう八月も終わりだっていうのに…。夏は、まだ続きそうね。』

結婚生活も十二年の月日が流れた。一人息子の丈も反抗期真っ盛りの中学生になった。毎朝、毎朝、旦那と息子のお弁当作りから始まり、せっせと家事をこなす。最近は、明らさまに家族の会話も減った。新婚当初は、必ず、その日のお弁当の感想から始まり、その日の出来事とか会話も弾んでいた。でも、それが当たり前かの様に、十二年の月日は、その関係に歪みを生んでいた。

『ねぇ、あなた。』

『あん?』

『今度、涼子さん達と温泉旅行に行こうかって話してるんだけど、行ってきても良いかしら?』

『ああ、好きにしなよ。いつだ?何泊?』

『今度の連休あるでしょう?そこで、二泊の予定なんだけど。』

『そうか。分かった。こっちの事は気にしないで楽しんで来ると良い。夕飯は、丈と出前でも取るから大丈夫だよ。』

『そう。ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて行かせて貰うわね。』

私が、何処かへ遠出でもする事になると、旦那は何の躊躇いも無く、私を送り出す。帰って来てから、丈に大丈夫だったかどうか尋ねると凡にしてこう答える。

『ああ、なんか父さんも急用が出来たとかで二日間ずっと家に居なかったよ。ま、お陰で俺も渡された二万円で一人、有意義に過ごしたから全然、大丈夫だったし。』

旦那は、不倫をしている。恐らく、いつも行ってるクラブのホステスと。私は、もう、あまり気にしてはいない。何故なら、三十五歳になった私を旦那は、すっかり求めて来なくなったからだ。私達夫婦は、もう五年もセックスレスだ。三十歳を越えたその日から、旦那は、私を女として見なくなった。
旦那は調度、一回り上の四十七歳。とにかく若い子が好きな、今となっては、ただのスケベオヤジ。そんな旦那でも、私は別れる事はしない。理由は簡単。別れて困るのは、私だから。私は、大学を卒業して就職して、会社勤めを一年しかしていない。二十三歳で結婚してから、ずっとパートもせずに専業主婦だったから。今更、もう社会になんか出られない。稼ぎのある旦那だったから、経済的には正直、困っていなかった。でも、私は、毎日お弁当を作り続けた。最近は、まるで喜ぶ事は無くなったけど、それでも私は、作り続けた…。

『…流果ぁ!今日のお弁当、めっちゃ美味かったよ!料理は苦手とか言って全然そんな事ないじゃんか!』

『ホント?良かった!料理は苦手だよ。でも、だから頑張って作ってるんだよ。愛する旦那様の為ですから!』

『流果…。』

『私ね、何にも出来ないから、主婦になってもあなたを支える所か足を引っ張るだけな気がして…。だから、せめてちゃんと奥さんらしい事をしたいの。だから、お弁当を毎日作って、あなたの奥さんなんだって事をアピールさせてね。』

『バカだなぁ…。そんな事しなくても流果は、ちゃんと俺の愛する妻だよ。ありがとうな。流果の愛妻弁当、毎日、残さず食べるからな。』

『あなた…。』

私は、必死で理想的な奥様になろうとした。誰が見ても納得する相応しい奥様に。丈が生まれても育児に追われても、必死に頑張った。立派な奥様を崩さない為に。正直、私は、母親より妻である自分を貫いた。それだけ、あの人の事を愛していた。どれだけ飽きられようとも、どれだけ不倫されようとも、あの人が選んだ愛妻は私。その事実を守る為に私は、この十二年を費やした。

その日も、お弁当や夕飯の献立を考えるのに夢中だった。

『あら!これは安いわね!たまには行ってみようかしら!』

私は、特売チラシを見て、いつもより大分離れたスーパーまで足を運んで買い物をしていた。ハッキリ言ってそんな必要は無かった。経済的には。でも私が求める物は、そこじゃない。あの人の為に精一杯、妻として生きている。それだけだ。

『よーし!いっぱい買い込んだわ!もう、こんな時間!早く帰って夕飯の支度しなきゃ!』

私は、車の免許も無ければ、自転車にも乗れない。でもタクシーは使わない。だって、そんなの頑張ってる感じがしないもの。私の移動は徒歩のみ!離れたスーパーなら、汗もかけて良い運動よ!

『あら?この道、通った事ないわ。たまには、こっちから行ってみようか。思いがけない近道発見かも!なんて!』

しかし、この行動がまさかの事態を招いてしまった。

『お姉さん、荷物いっぱいで大変そうですね。』

『え?』

『良かったら持ちましょうか?…なーんて!』

『ウッ…!ンー!ンー!』

突然、背後から目出し帽を被った男に口を塞がれ車の中に押し込まれた。私は、抵抗した。必死に、必死に抵抗した。愛するあの人以外の男に抱かれる訳にはいかないの!
でも、それが無駄な事だと直ぐに察した。若い男の力は、私の、女の非力さを、無力さを強烈に痛感させた。

『へっ!諦めが良いですね。さすがはお姉さんだ。ひょっとして人妻ですか?ははは!旦那様ごめんなさい!ははは!』

私は、無抵抗なまま、その身を赦した。ただ、涙だけは止まらなかった。

私が発見されたのは、次の日。近くの公園のトイレの中。口と手足をガムテープで止められ、成す術なき姿で、ラジオ体操に来ていた老人会の方達によって通報された。

抜け殻になっていた病室のベッドの上で、一体、どんな顔してあの人と会えばいいのか、それだけが怖かった。でも、その答えは意外な物だった。

『流果ぁ!大丈夫か!?流果ぁ!』

走って来たのか、汗だくになって私を名を呼ぶあの人の姿だった。

『クソッ!一体誰がこんな事…!流果ぁ!ごめんな!ごめんなぁ!俺がもっと一緒に居てやれればこんな事には…!ウゥッ!』

私は正直、驚いた。あの人が私の為に泣いてくれている。私の手を強く握り締めて、本気で泣いてくれている。

『あなた…。私は、大丈夫です。こんな事で私は負けませんから。』

『流果…。流果ぁ!』

何年ぶりだろう。あの人が私を思いっきり抱き締めてくれた。強く強く、ぎゅーって抱き締めてくれた。

嬉しかったな…。

愛する人に抱き締められるって、こんなにも嬉しい事だったんだ。ちょっと、忘れてたな…。そう言う意味では、あの強姦魔に感謝しなきゃいけないかもしれない。こんな事でも無ければ、あの人の気持ちを確認する事も、抱き締められる事もなかったから。情けないけどね…。

『流果ぁ?どうだ?美味しいか?』

あの一件以後、あの人は、人が変わった様に優しくなった。家族の為に、ご飯を作り、部屋の掃除も、洗濯もしてくれた。反抗期だった丈も協力して、母親の私に、まるで恩返しでもするかの様に優しく、優しく支えてくれた。

あの夏の終わりに訪れた、まさかの衝撃の一件は、私はもちろん、私の愛する家族を変えた。丈は医者を志し、あの人は、不倫をやめ、出来る限り家族と一緒に過ごす事に努めた。無くなりかけていた会話も、笑い声と共に再び弾み始めた。

『あ、どうも突然すいません。今度、隣りに越して来た沢木と言います。』

『あら。』

『まだ子供も小さくて、色々とご迷惑をお掛けする事もあるかもしれませんが宜しくお願いします。』

『まぁ、可愛い!男の子?』

『あ、はい!』

『僕、お名前は?』

『凛太郎…。』

『凛太郎くん?良い名前ねぇ!こちらこそ、これから宜しくね。沢木さん、何かあったら、直ぐに言ってちょうだいね。お隣り同士、助け合って行きましょうね。』

『ありがとうございます!』

あの一件から六年。歩実ちゃん夫婦が、お隣りに越して来た時、私は、あまりに驚いて、背筋が凍りつく思いがした。

『こんばんはぁ!』

『はーい。』

『あ、流果さん。中々、タイミングが合わなくて、ご紹介出来なかったんですが、今日、会社が早く終わったみたいなので旦那を連れて来ました。』

『あら!』

『どうも。初めまして。家内がお世話になってるそうで。これからも宜しくお願いします。』

『…。』

『流果さん?』

『ああ、ごめんなさい!あまりのカッコ良さに言葉を失っちゃったわ!』

『またまたぁ!あ、じゃあ、失礼しますね。』

『…あ、はい!はい!またね!』

あの日…。私は、あの男の顔を見た訳ではない。覚えているのは、思いの外、若い男だという事と微妙に関西訛りがあった事。歩実ちゃんの旦那さんの声…。あの声…。
私は、忘れはしない。必死に抵抗する私を見下す様に嘲笑い、罵倒する、あの声を…。

『…ねぇ、歩実ちゃん。』

『はい、どうしました?』

『歩実ちゃんの旦那さんて、どちらの方?』

『京都ですけど、それが何か?』

『京都…。』

『流果さん?』

『お歳は?』

『え?二十六ですけど…。』

『二十六…。』

『流果さん?どうかしたんですか?』

『…え?あ、ああ!ごめんなさい!何でもないの!若くて羨ましいなぁって思って!』

『いやいや。流果さんの旦那様だって渋くって超ダンディじゃないですか!』

『ああ、そう?そう言って貰えると嬉しいわ!』

私は、確信した。絶対そうだ!間違いない!私の記憶力をバカにしないで!歩実ちゃんの旦那さんがあの時の強姦魔だ!あの時の…!

『あら、歩実ちゃん!お買い物の帰り?』

『流果さん!こんにちは!はい!あ!三田屋さん行きました?今日、特売ですよ!』

『あら本当!?あとで行かなきゃ!凛ちゃん良かったねぇ!って言うことは、今日は、ハンバーグかな?』

『うん!今日は、ハンバーグなんだ!僕も一緒に作るんだよ!』

『まぁ、凄いわねぇ!美味しいの出来ると良いね!』

『うん!』

『あ!そうそう!凛ちゃん、私立おめでとう!』

『ありがとうございます!』

『小学校受験とは言えど大変だったでしょう。偉いわ、凛ちゃんも歩実ちゃんも。うちの二浪息子にも見習って欲しいわ。』

『そんな…。丈くんだって医学部志望じゃないですか。それこそ大変ですよ。』

『まあね…。でも、ただ頭が堅いのよ。医学部なんていっぱいあるんだから、もっと別の所も受ければ良いのに東大にしか行かないとか言うの。予備校だって、タダじゃないって分かってないのかしらね。まったく!』

『まぁまぁ。あと十年、十五年もしたら何倍にして返してくれますよ。』

『だと良いけどね…。あ!そろそろ行かなきゃ!じゃあね!またね!歩実ちゃん!凛ちゃんもバイバイ!』

『はい、また!』

『バイバーイ!またね!』

歩実ちゃんの旦那さんが、私を傷付けた強姦魔?だから、何だって言うの?もう、あれから六年も経った。それに、そのお陰で私の家族が救われたのは事実じゃない!もう一度、愛するあの人に抱き締めて貰えたのは紛れもない事実じゃない!

私を傷付けた強姦魔?今更、そんな事実を知っても、誰も得しない。だから、永遠の秘密。こんなこと誰にも言わない。言える訳がない。知らない方が、みんな幸せなの…。
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