幸せとは、何も知らないということ。

杉本けんいちろう

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ー第五章ー

沢木凛太郎

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春ー。

『行ってきまーす!』

『はい!行ってらっしゃい!凛太郎!車に気を付けるのよ!』

『はーい!』

僕も、いよいよ一年生。ピカピカの大きなランドセルを背負って学校に通う毎日が始まった。

『どお?凛ちゃん。学校、楽しい?』

『あ!流果おばちゃん!うん!楽しいよ!』

『そう!良かったわね!もう新しいお友達も出来た?』

『うん!クラスのみんなは、もう全員友達だよ!』

『あら!凛ちゃんは、カッコ良いから女の子にモテるでしょ?』

『うーん、モテるって良く分かんないけど、昨日もクラスの子に好きって言われたよ。』

『ええー!?凄い!おばちゃん、ビックリ!』

『おばちゃんは?』

『え?』

『おばちゃんは、モテないの?』

『あはは。おばちゃんは、もう結婚してるからモテなくても良いのよ。』

『そうなの?』

『うん。おばちゃんは、大好きな旦那様と結婚出来たから、もういいの。凛ちゃんも、沢山の女の子から大好きって言われるかもしれないけど一緒になるのは、自分が一番大好きになった女の子だけにしようね。』

『うん!もちろん!そのつもりだよ!だから昨日も、僕も好きだけど付き合うのは出来ないよって言ったんだ。僕は、付き合うのは結婚する人って決めてるから。』

『まあ、凛ちゃん大人ねぇ。でも、あまり慎重になり過ぎないようにね。好きだって思ったら素直に好きだって、一緒にいたいなって思ったら一緒にいたいって素直に伝えるのよ。あまり考え過ぎちゃダメよ。その間に、幸せってね、逃げて行っちゃうの。』

『そうなんだ…。』

『そう。凛ちゃんも幸せになりたいでしょ?』

『うん!』

『だから、今、目の前にある幸せを見逃さないようにね!』

『うん!ありがとう!おばちゃん!じゃあね!』

幸せって、見つけるの大変だよね。きっと…。
だから、みんな泣いたり、怒ったりするんだよね。

『ねぇ、小泉先生。』

『あら!凛太郎君、なーに?』

『先生は今、幸せ?』

『え?どうしたの?急に…。』

『ウチの隣りのおばちゃんにね、幸せを見逃さない様にねって言われたんだ。先生は、見逃してない?』

『幸せをね…。そうね、先生は、ずっと夢だった学校の先生にもなれたし、そのお陰で、こうして凛太郎君やみんなの担任として出会う事が出来たわけだしね、幸せだよ。』

『そっかぁ…。先生、好きな人はいる?』

『ええ?好きな人!?』

『うん。僕はね、みんなのこと好きだけど、誰が一番好きなのかって聞かれたら正直言って困っちゃうんだ。それって、ホントは誰も好きじゃないって事なのかな…。』

『そうねぇ…。みんなのこと好きっていう気持ちは本当だと思うよ。ただ、凛太郎は、まだ誰にも恋をしてないって事じゃないかしら。』

『恋?』

『そう、恋。凛太郎君は、誰かに告白した事ある?』

『うーうん、ない。僕は、いつも告白される方だから。』

『まぁ、そうなのね。凛太郎君は、モテモテなんだ。』

『ねぇ、先生。モテるって何なの?それは、幸せなの?』

『ねぇ、凛太郎君。これまでに凛太郎君に告白をして来た女の子の気持ちって分かる?』

『気持ち?』

『凛太郎君の事を好きって告白はね、凛太郎君にも自分の事を好きでいて欲しいって事なんだよ。もっと凛太郎君と一緒ににいたいから、もっと凛太郎君に自分の事を見ていて欲しいから、この気持ちを伝えるの。凛太郎君は、そういう気持ちになった事ある?』

『うーん…。お母さん以外には、まだないかな。』

『そっかぁ。じゃあ、凛太郎君は、まだ初恋をしてないのね。』

『そう考えたら、なんか悲しいね。僕ね、付き合う人は結婚する人だと思ってたから、僕なんか時間かかりそう…。』

『まだまだ、凛太郎君は、これからよ!直ぐに好きな人は出来るわよ!』

『先生は?そういう人いないの?』

『うん…。先生もね、実は、ずっと一人なの。今は好きな人もいないし、もう二十七歳だけど結婚も出来そうにないなぁ。そういう意味じゃ先生は、まだ幸せじゃないのかもね。』

『先生も僕と一緒なんだね。じゃあ、このまま、ずっと一人だったら僕が結婚してあげるよ。』

『凛太郎君…。ありがとう。じゃあ、その時は、お言葉に甘えてお願いします。』

『うん!幸せになろうね!』

僕は、一年生になって考える事が多くなった。幼稚園の時は、ただ当たり前に来る毎日を、ただ同じ様に繰り返していた気がする。それは、たぶん何も考えてなかったから、と言うか、何も気付いてなかったからだと思う。
毎朝、お母さんが起こしてくれて、ご飯を作ってくれて。そこに、新聞を片手に、先にご飯を食べてるお父さんがいて、僕に笑いかけてくれて。幼稚園に行けば、先生やみんながいて、歌ったり、お絵描きしたり。お隣りの流果おばちゃんは、優しくて、いつも楽しそうに話しかけてくれる。それが当たり前で、僕は、その中で何の疑いもなく過ごす事が、幸せだったんだ。
一年生になって、何が大きく変わったわけじゃないと思うけど、小泉先生や、新しく出来たクラスの友達と過ごして行く中で、それまでは何も思わなかったはずの出来事に、どうしてそうなるのか疑問を抱く様に、理由を求める様になった。

当たり前だった、今までには、ちゃんと理由があったんだ。

そう考える様になると、苦しくなったり、悲しくなったり、怒ったり…。楽しくて、笑ってばかりいるのが大半だった一日が、嘘みたいに遠く感じる。僕は、まだ五歳。まだ一年生。でも、ちゃんと気付く事がある。その理由を知りたくなる事があるんだ。

僕は、お父さんの本当の子供じゃない。

僕は、それを知ってる。ちゃんと分かってる。僕が年小さんの時、お母さんと結婚したんだ。だから、本当のお父さんは、どこか別の所にいるんだ。それを、疑問に思う事は、知りたくなる事は何も悪い事じゃなくて、自然な事なんだよね…。

『え…!?』

『ねぇ、お母さん?』

『凛太郎…。お母さん、正直びっくり。いつか、いつか凛太郎がもっと大きくなってからは、必ず聞かれる事だと思ってた。でも、まさか、まだ一年生の凛太郎が、本当のお父さんの事を聞いて来るとは思わなかったわ。』

『…言いたくないの?』

『…良いわよ。教えてあげる。凛太郎のお父さんは、お母さんが高校生の時の同級生なの。お母さんが初めてお付き合いした人でね、カッコいい人だったわ。』

『ふーん…。でも、どうして、その人と結婚しなかったの?』

『…実はね、その人は、凛太郎が出来た事を知らないの。』

『え?』

『高校二年生の夏に凛太郎が出来た事が分かってね、凛太郎のお婆ちゃんとお爺ちゃんには、もちろん反対されたんだけど、お母さんはどうしても凛太郎を産みたくてね。なんとか説得して凛太郎を産んだの。でも、その時に、凛太郎の本当のお父さんには、何も伝えずにお別れしたの。』

『どうして?』

『それが、お父さんの為だと思ったからよ。』

『お父さんの為…?』

『そう。男の人はね、十代で、それも高校生で子供を持つなんて事は、どうしても、それはリスクでしかないの。』

『リスク…?』

『凛太郎もいずれ分かるけど、男の人は、ちゃんと学校も出て、ちゃんと就職もして、分かるかな?ちゃんと社会的な地位を築かないと世間に認められないの。だから、お父さんにも、変にリスク無く、そうなってもらう為に、お父さんに凛太郎を産む事を秘密にしたの。』

『…じゃあ、僕は、お父さんにとっては、リスクでしかないんだね。』

『違うわ!凛太郎、そうじゃないの!凛太郎が生まれた事は、リスクなんかじゃないの!ただ、お父さんは、知らなくていい事だったの。お父さんはね、その当時、他にも好きな人がいてね。お母さんにも、それが分かってた。だから、どの道、別れるのは時間の問題だったの。お父さんにとっては、何も知らない方が幸せだったの。』

『幸せ…。』

『凛太郎が、今ここにいる事は、この上ない私の幸せよ。でも、お父さんにとっては、そうじゃないの。』

『じゃあ、もし僕が、お父さんに会いたいなんて言ったら?』

『ごめんね、凛太郎。お母さんは、それを許す事が出来ない。それが、凛太郎の為だし、お父さんの為でもあるから。』

『…。』

『でもね、だから凛太郎には、今のお父さんがいるでしょ!凛太郎は、今のお父さん嫌い?』

『うーうん!好きだよ!』

『凛太郎のお父さんは、今のお父さん!それが本当のお父さん!…って、思って欲しいの。それが、凛太郎の幸せなの。』

『幸せ…。』

『凛太郎…。分かってくれる…?』

『そっか…。分かった!僕、もう本当のお父さんの事は聞かないよ!僕のお父さんは今のお父さん一人だけ!だよね!』

『凛太郎…。』

知りたいって思う事は、当たり前の事。それを知れる事は嬉しい事。でも、それを知らない方が、知らないから笑っていられる事があるんだ。

だから、僕は決めたんだ。僕のお父さんは、一人だけ。本当のお父さんの事は、もう永遠の秘密。こんなこと誰にも言わない。言える訳がない。知らない方が、幸せだから。
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