ひきこもりでも恋をしたい

あき

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第20話 停電本番、30の向こう

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朝、付箋に太字で書く。
「停電本番 v0.3(22:00)」

下に手順を並べる。
「15→30→名前→余白十秒」
「撤退=成功」
四角に閉じると、怖さは容器に入る。

いろからメッセージ。

「いろ:おはようございます。
“停電本番 v0.3”です」

箇条書きが落ちる。

「・開始合図:黄色い付箋『30』をドア下へ
・方法:壁越し“数え歌”15→30
・呼吸:5の倍数で吐く
・余白:終わったら“十秒の沈黙”を共有
・ごほうび:各自、甘いもの
・安全:懐中電灯/水/充電80%以上」

仕様書は、いつも優しい。
冷蔵庫のプリンは在庫切れ。
代わりに、ミニどら焼きを一つ。
砂糖の丸い匂い。
“怖さと一緒に食べられる”甘さだ。

昼は仕事。
UIテストの票を三件。
「スナックバーの消失アニメが他画面と0.1s差」
「エラー見出しの赤がブランドガイドの赤とズレ」
「チェックボックスのヒット領域が小さい」
具体にすると、怖さは四角になる。
四角は持てる。

十四時、いろから追加。

「いろ:条約に“第11条”を提案します。
“暗闇では、余白を味方にする”」

「くろ:承認」

承認のスタンプに、飴の絵を押す。
絆創膏が並び、小さな花が一つ。
今日の匂いの記録。

夕方、共用アプリの通知。

「【管理】本日22:00~22:15の間で数分の停電を予定」

緑の非常灯が、まぶたの裏で小さく呼吸する。
胸の中にも、同じ丸が灯る。

二十一時五十五分。
部屋の明かりを一段落とす。
モニターの余熱が薄くなる。
机の上にラムネを二粒。
のどに一粒。
甘さが声の出口に薄いガラスを敷く。

二十二時ちょうど、空気の音が消えた。
換気扇が止まり、冷蔵庫が黙る。
部屋の輪郭が、闇に沈む。

廊下の向こうで緑が点く。
非常灯。
淡い楕円が、闇の端をやわらかく縁取る。

ドアの下が明るんだ。
紙がするり。
「30」。
丸い字の付箋。

壁に背中。
深呼吸、一つ。
二つ。
三つ。

「……いち」

声が、壁に触れて返る。
細い糸みたいな声だ。
でも、切れない。

「に」

「さん」

彼女の声も、壁の向こうで糸を張る。
糸と糸が、緑の下で静かに絡む。

「ご」で吐く。
胸の角が一つ丸くなる。
十。
十五。
昨日の練習の終点を、今日は通過点にする。

「じゅうろく」

「じゅうなな」

数字は、心拍のメトロノームだ。
口が数え、肺が刻み、耳が受け取る。

二十。
二十五――吐く。
喉の奥に砂糖が滲む。
声が半音だけ太る。

「にじゅうろく」

「にじゅうなな」

「にじゅうはち」

「にじゅうきゅう」

「さんじゅう」

ふたりの吐息が、壁の両面で重なる。
重なっても、ぶつからない。
“同時発話は成功”。
条約は、夜でも効く。

余白。
十秒。
数字は置かない。
音で数える。
外の遠い車。
廊下のどこかで、鍵の微かな鳴り。
心拍が二つ落ちる。

沈黙の中で、彼女の声。

「……透さん」

名前で呼ばれて、胸の中央に小さな温度が灯る。
灯りは緑より少しだけ暖かい。

「はい」

「“名前の練習”、臨時で。
よかったら……“さん”を、いちどだけ、外します」

喉が、空で鳴る。
壁一枚。
緑の楕円。
“友達未満以上”。
境界線の確認は、条約の本分だ。

「……いろは」

細い糸みたいな声。
でも、切れない。
言った瞬間、胸の奥の筋肉が、知らない仕事を一つ覚えた気がした。

一拍おいて、彼女。

「透」

“さん”のない輪郭が、壁の両面で確かに触れ合う。
触れた場所に、温度が立ち上がる。
温度は、怖くない。
むしろ、夜の端を明るくする。

短い沈黙。
沈黙は、味方。
余白に、息が正しく置かれる。

「……ありが、とう」

彼女が小さく噛んで、すぐ整える。
噛みの跡は、安心の目印だ。
俺は笑ってしまいそうになるのを、喉の後ろで撫でて落とす。

「こちらこそ」

そのとき、廊下の奥で低い唸り。
エアコンが息を吸い、天井の四角が薄く蘇る。
非常灯の緑が、白に溶けていく。
停電、本番は終わった。

余熱の薄い明かりの中で、彼女の声。

「“30の向こう”、行けましたね」

「行けた」

「条約、第11条、効きました」

「余白が、味方だった」

声の速度が少し増えたけれど、胸は暴れない。
“練習の速度”を身体が覚えた。

スマホの電波が戻る。
通知が、遠慮がちに一つだけ震えた。
タイムラインの外側から。

「まとめ、古いUIのやつだった。消しとく」

石でない文。
拍子抜けするほど軽い。
でも、軽いからこそ、警戒は緩めない。
“48時間後、時系列のみ提示”。
方針の箱に入れて、蓋を閉める。

「いろ:復電、確認。
“観察眼の証拠 v0.1”、最終チェックします」

「くろ:PDFのリンク、貼った」

「いろ:受け取りました。
“48時間後、私のアカウントで時系列のみ”。
透の名前は出しません」

“透”。
呼び捨ての余白が、胸の内側に静かに沈む。
沈んで、支えになる。

「ごほうび、どうぞ」

どら焼きを一口。
砂糖が、声の出口に薄い布を貼る。
布は、夜の声をやさしく通す。

「いろ:もう一つ、臨時の提案です」

「どうぞ」

「“扉を同時に一秒だけ、開けて閉める”。
光は戻りましたが、“緑の残像”を共有したい。
無理なら“×”で」

心臓が、提案の形を確かめる。
怖い。
でも、ゼロじゃない。
ゼロより大きい数は、進める。

「……一秒」

「はい。
“3で開けて、4で閉める”」

ドアの前。
取っ手に指。
深呼吸、一つ、二つ、三つ。

「いち」

「に」

「さん」

ラッチが、向こうとこちらで同時に鳴った。
隙間に、廊下の白が細く差す。
さっきまで緑だった場所の、残像。
粉塵が、光の帯で踊る。

「よん」

閉める。
金属が元の位置に収まる。
胸の中でも、何かが収まる。

「くろ:一秒」

「いろ:一秒。
成功」

スマホの画面に、飴のスタンプ。
絆創膏が並び、花が一つ。
今日の匂いの記録。
“停電の後の白”。

共同チェックリストを開く。
《今日の一歩:停電本番 15→30→名前(成功)/一秒の扉(成功)》
右端の星が二つ、続けて灯る。
星は線になり、線は道になる。
道は、未来の方角に細く伸びる。

「いろ:透」

呼び捨て。
まだ少しぎこちない。
ぎこちなさは、練習の始まりの手触りだ。

「はい、いろは」

言ってから、喉が少し熱を持つ。
熱は、不快ではない。
生きている熱だ。

「いろ:明日、“駅前自販機 v0.2”に戻りましょう。
“数字の置き場”を一つ増やして、風の角度を測る」

「くろ:了解」

ログを閉じる前、短い余白。
余白の中で、彼女が小さく噛む音がした。
噛んで、整える。
それが、安心の合図になっている。

「いろ:……おやすみ、透」

「おやすみ、いろは」

扉の木目が、背中で小さく頷く。
木は冷たいのに、頷ける。
人も、似ている。

付箋を一枚。
「停電本番 v0.3――完了」
星を二つ、描き足す。
今日の匂いは、砂糖と、消えた緑の残像。
緑は、まぶたの裏でまだ呼吸している。

目を閉じる。
“30の向こう”に置いてきた沈黙が、胸の真ん中で静かに光る。
光は小さいが、道をつくるには十分だ。
明日は風の角度を測る。
その前に、深呼吸を三つ。

一つ。
二つ。
三つ。

眠りは、復電の音みたいに静かにやって来た。
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