ひきこもりでも恋をしたい

あき

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第37話 六十秒の直線(駅前ベンチ v0.3)

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朝、付箋に太字で書く。
「駅前ベンチ 60秒 v0.3」

下に小さく、増分を書く。
「音×3×5+数字1」。
「分割OK(30+30/20×3)」。
「撤退=成功」。

いろからメッセージ。

「いろ:おはようございます。
“ベンチ60秒 v0.3.1”送ります」

箇条書きが落ちる。

「・時間:十四時二十五分(人流薄)
・位置:いつもの壁際ベンチ、背は風下
・視線の置き場:ベンチ脚→自分の手→靴の踵
・音の三つ:アナウンス/葉擦れ/足音 or ローラー
・数字:自販機『130』を“一度だけ”
・分割:30+30 or 20×3(インターバルは“立つ→半歩→戻る”)
・撤退条件:撮影/笑い声の“増幅”/鳩の急接近/雨粒の連続
・撤退=成功
・ごほうび:麦茶 or レモンアイス
・条約案:第17条『長さは折れる、折って渡る』」

「くろ:承認。
ごほうびはレモンアイス」

「いろ:了解。
今日は“さん”で。
風の角度、私の肩で少し広めに受けます」

昼。
UIテストを三件。
「戻るスワイプ幅の統一」
「トースト影の濃度」
「警告赤のコントラスト」
数字を揃えると、胸の速度も一段整う。

十四時二十分。
のど飴を一つ。
口の形だけで「す」「う」「は」。
声は出さない。
形だけ動かす。

明るい“ガチャ”。
非常灯の緑。
廊下→エレベーター。
鏡は“置かない”。
床→手→数字。
一階へ。

エントランスのガラスの外、薄い白。
裏道。
前髪→袖→いろはさんの肩布。
三点の矢印が揃う。
肩の盾が、風と視線を切り分ける角度を作る。

広場。
いつもの壁際ベンチ。
背は植え込み。
風下。
退路A/Bを目でなぞってから、座面を指で軽く触って座る。

「いろ:60は“折って渡る”でもOK。
“脚→手→踵”、音を三つずつ。
途中でカメラが入ったら“立つ→半歩→戻る”」

「くろ:了解」

ベンチ脚へ視線を置く。
当てない、置く。
手→踵へ回す。
呼吸、吐く。

一セット目(0~12秒)。
アナウンスが一度。
葉擦れが一度。
遠い足音が一度。
三つ。

二セット目(12~24秒)。
ローラーが一度。
子どもの笑いが一度。
……“増幅”ではない。
葉擦れが一度。
三つ。

三セット目(24~36秒)。
バスの空気音が一度。
アナウンスが一度。
遠い“チャリン”が一度。
三つ。

数字を一度だけ。
自販機の価格“130”。
見る→戻す。
脚→手→踵。
戻せた。
胸の中央に薄い重石。
重石は、味方。

四セット目(36~48秒)へ踏み出す直前、
ショルダーの小さなレンズが視界の端を撫でる。
若い二人。
画角が、こちらのベンチを斜めにかすめる。
心拍が一段跳ねる。
蛇口は閉じたまま。

「いろ:分割に切替。
“立つ→半歩→戻る”。
条約第17条」

立つ。
半歩。
肩を少し斜めに。
レンズはすぐ離れる。
戻る。
座る。
インターバルは十秒いらない。
“折って渡る”。

四セット目(再開・0~12秒)。
葉擦れが一度。
遠い足音が一度。
アナウンスが一度。
三つ。

五セット目(12~24秒)。
ローラーが一度。
紙袋の“カサ”が一度。
バスの空気音が一度。
三つ。

六セット目(24~36秒)。
鳩が二歩だけ近づき、首を振る。
退路条件の手前。
肩→脚→手で戻す。
植え込みの影に彼らはすぐ興味を変える。
足音が一度。
葉擦れが一度。
アナウンスが一度。
三つ。

七セット目(36~48秒)。
店員の「いらっしゃいませ」が遠く一度。
ローラーが一度。
“チャリン”が一度。
三つ。

八セット目(48~60秒)。
風が背で小さく丸まる。
葉擦れが一度。
アナウンスが一度。
足音が一度。
三つ。

余白、一呼吸。
吸って。
吐く。
沈黙は、味方。

「くろ:……60」

「いろ:大成功。
“折って渡る”、綺麗でした」

そのとき、隣の端に影。
年配の男性が距離を測るように立ち、ベンチを見て、俺を見ない。
視線は脚→手→踵。
順番は守る。
喉の出口を飴の硝子で撫でる。

「……どうぞ」

小さな一語。
糸みたい。
でも、切れない。
男性は軽く会釈して、別のベンチを選んで歩いていった。
会釈の意味は「ありがとう」だったかもしれないし、違うかもしれない。
どちらでも、受け取りは短く、心で伸ばす。
頷きを一度だけ。

「いろ:受け取り、満点です。
ここで“撤退=成功”にしましょう」

「くろ:了解」

立つ。
退路Aへ。
白線→根元→肩。
風が背中を押す。
押されるのは、嫌ではない。

エントランス。
鏡は“置かない”。
床→手→数字。
エレベーター。
背中を壁へ。
数字が上がり、心拍は下がる。

自分のフロア。
明るい“ガチャ”。
入る。
閉める。
扉に背中。

スマホ。

「くろ:今日の一歩“ベンチ60秒 v0.3(音×3×5+数字1/カメラ→分割/小さな『どうぞ』)”成功」

すぐ、飴と絆創膏と花。
花の横に、細い“分割”のアイコンみたいな二本線のスタンプ。
今日の匂いの記録。

「いろ:ごほうび、レモンアイスをドア下に」

紙がするり。
酸の香りが、喉の壁を明るく洗う。
洗われた壁に、細い声の道が伸びる。

共同チェックリストに入力。
右端の星が、続けて二つ灯る。
星は線になり、線は道になる。
道の上で、六十秒が“折れて”横たわる。

少し間を置いて、いろが送る。

「いろ:時系列の波紋、穏やか。
“ありがとう”のDMが二通。
石はゼロ、砂は少し」

「くろ:『ありがとうございます』で受け取って終えた」

「いろ:完璧。
第17条、採択です――『長さは折れる、折って渡る』」

麦茶の代わりに、アイスの最後の一口をゆっくり溶かす。
冷たさが、今日の六十秒を胸の真ん中で固める。
固まったものは、足場になる。

「いろ:次の案です。
A.“改札の外側 20秒 v0.3(駅名看板の角一回/密度↑で撤退)”
B.“売店の前 15秒 v0.2(表紙色替わり“戻す”×2)”
無理なら“ベンチ60”の反復」

「くろ:Aを候補。
混んでいたらBへ」

「いろ:了解。
屋外は“さん”、屋内は“呼び捨て”。
切り替え、継続です」

そこで、短いDM。
アイコンは、小さな付箋。

「“折って渡る”、いい言葉。
会議の長時間化、同じやり方で切れそうです。ありがとう」

石ではない。
砂でもない。
静かな水。
胸の底の石の角が、また一つ丸くなる。

「いろ:……屋内で“名前の練習”、一回だけ」

喉の奥に、レモンの冷たさ。
滑りやすい。

「……いろは」

糸みたいに細い声。
でも、切れない。

「透」

呼び捨ての余白が、部屋の空気を一度だけ丸くする。
丸くなった場所に、“折った六十秒”が静かに沈む。
長さは、折れる。
折れた線は、橋になる。

机の端に付箋。
「ベンチ60秒 v0.3――完了」
飴と絆創膏と花の横に、短い棒を二本、少しずらして描く。
分割の印。
その上に、駅名看板の角を小さく足す。
次の置き場。

夜。
短い訓練を一戦だけ。
角の手前で、いろが打つ。

「いろ:肩」

現実と同じ。
置き場が整えば、敵は薄い。
北面センサー。
赤の線。
切って、繋ぐ。
“回して、止めて、戻す”。

中盤、長射程の圧が続く。
一気に抜かず、遮蔽物を“折って渡る”。
三秒→三秒→四秒。
短い橋を重ね、前進。
“長さは折れる、折って渡る”。
ゲームでも効く。

クリア。
《シェルター延命:96時間》
花火スタンプ。
整備王。
ダサい。
でも、今日も少し誇らしい。

ログアウトの前、彼女が小さく噛んで、整える。

「いろ:……おやすみ、透」

「おやすみ、いろは」

扉の木目が、背中で小さく頷く。
木は冷たいのに、頷ける。
人も、似ている。

目を閉じる。
脚→手→踵。
音を三つ、五回。
数字を一回。
“折って渡る”。
その順番を、まぶたの裏に置いて眠る。
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