偽世界の日常

西海子

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02.ドン底ロマンティック

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 雨倉あめくら彼方かなたは、魔法使いを知っている。
 魔法使いとは名乗らなかったけれど、彼は魔法使いだった。
 名は、水分みくまり夜霧よぎり
 必死で聞き出して、それだけは教えてもらえた。

 出会いは、危機的状況だった。
 彼方が十歳の時、遊びに行ったため池に足を滑らせて落ちた時だった。
 一人で行ったことも手伝って、溺れた彼方は自分が死ぬのだと覚悟した。次の瞬間、彼方はべしゃりと池の底に落ちた。
 水が割れ、彼方のいる部分だけが大気と一続きになっていた。ずぶ濡れの彼方は、手で顔を擦り、思わず上空を見た。
 たぷたぷと水が自分の周りで揺れている。宙に青年が浮いていた。
「……」
 人間が宙に浮くわけがない。彼方はそれが自分が死に際に見ている夢なのだと思った。
 だが、青年はすうっと降りてきて彼方を抱き上げると、そのままふわりとため池の端に飛んでいく。
「……大丈夫?」
 かけられた声に、それは紛れもない現実なのだと理解した。
 呆然としている彼方にひらりと青年が手を振った。
 ずぶ濡れの彼方はパッと瞬間で乾燥された。
「え……」
「――あーあ……また長老に怒られるなぁ……異能は人前で使うなって言われてるのに」
 ボソボソとそんな事を呟いた青年は、彼方の頭を撫でてウインクを一つした。
「どうせ信じてくれないと思うけど、ナイショだよ?」
「だれ……なに……?」
「……ナイショ」
 青年は彼方を置いて踵を返す。彼方は咄嗟に、青年のヒラヒラした服の裾を掴んだ。
「待って……!」
「だーめ。おにーさんの事なんて忘れなさい」
「名前……名前は!? 俺、彼方! 雨倉彼方!」
 青年は困ったように佇み、やがて彼方の指を身を屈めて丁寧に解くと首を振った。
「だめだよ、彼方。知らない人に簡単に名前を教えたりしちゃ。名前は呪いを呼ぶ。だから、教えてあげない」
「あ……」
「忘れて。僕は記憶は弄れないから、キミが忘れてくれることを期待するしかない」
 身を起こした青年は彼方に背を向け、歩み去ってしまった。
 ――彼方は、その日起きたことを誰にも言わなかった。
 言ったって信じてもらえないだろう。
 ため池の水を割って、溺れていたところを助けてもらったなど。
 彼方はあの青年は魔法使いなのだと信じた。
 自分を助けてくれた、魔法使いなのだと。

 彼方の住む街では、その後から妙な噂が流れ始めた。
 子供がため池に落ちると何故か助かる。本来なら溺死してもおかしくないのに、何故か一人として亡くなる子供が出ない、と。
 彼方はその噂を聞いた時、すぐにあの魔法使いが助けているのだと信じた。
 しかし、誰も……当の被害者すら、その存在を信じなかった。
 ――誰かに助けられた気がするが、よく分からない。幸運にも這い上がれたのだろう。
 違う、彼方がどれだけそう声を上げたかったか。
 彼方が助けられたあの日を境に、街では毎年発生していたため池での子供の事故死がゼロになった。
 魔法使いは、ずっと誰にも信じられないままに、子供達を救い続けているのだ。
 何度か彼方はため池へと足を運んでみた。もしかしたら魔法使いがいるかもしれない、と。
 けれど、ついぞその姿を見ることは叶わず。
 気が付けば、彼方は十五歳になっていた。

「……」
 ぼうっと、彼方はため池の端で座っていた。
 五年間。
 彼方は青年の姿を探し続けた。
 五年経っているから、あの魔法使いも五年分歳を取っている。あの頃、小学生だった彼方の目では、高校生か大学生か、それぐらいの歳だと見えた。とすれば、今はもう社会人だろうか?
(見た目、変わってるだろうな……)
 水面に合わせていた視線をふと、上に持ち上げた。
「え……?」
 ため池の上空に、何かがいる。
 正確に言えば、見えないのだが空間がズレているような、ノイズがかかっているような。
 そこをじっと見つめていると、観念したのか、パッと人が現れた。宙に、浮いている。
「!――魔法使いさん……!」
 ドキン、と胸が高鳴った。
 そこにいたのは、あの日と変わらない姿の青年だった。
 五年が過ぎたとは思えない、あまりにもあの日のままの青年に彼方は思わず立ち上がった。
 すうっと降りてきた青年は彼方の前に立つと、ため息を吐いて眉を寄せた。
「忘れろって言ったのに。なんでキミだけは僕の事を信じたんだか」
 勝手な言い分に、彼方は青年に手を伸ばした。ヒラヒラした服の胸元を掴んで訴える。
「命の恩人ですよ!? 忘れるわけないし、あんな魔法を見せられて信じないわけがない!」
「魔法……? あぁ……僕のはそんなんじゃないよ。ちょっとばかり水の扱いに長けているだけ」
 青年はへらりと笑って、彼方の指を解こうとした。――あの日のように。
 だが彼方とて、今度は簡単に引き剥がされなかった。
「名前、せめて名前を教えてください」
「だから……」
「俺は呪いのかけ方なんて知らない、だから……!」
 彼方が必死の形相で詰め寄ると、青年は肩を落として彼方から視線を逸らした。
「水分夜霧」
「みくまりよぎり」
「――忘れて」
「忘れません」
「――強硬手段を取りたくないんだよ。辰巳のじー様は記憶のついでに余計なところまで弄りそうだし、孫の方は法外な額を吹っ掛けてくるし」
 夜霧が嫌そうに呟くのを、彼方は真っ直ぐに見つめていた。
「水分さん」
「やめて、僕の家名を呼ばないで。僕がここで人助けしてに干渉してたのがバレるとまずいんだよ」
 拒絶する夜霧に、彼方はきゅっと唇を噛んで「じゃあ」と切り出した。
「ミクさん」
「なにそれ、僕はボーカロイドじゃないんだけど」
「よっさん」
「おっさんに聞こえる、やめて」
 その後も続いた押し問答の末に、夜霧はようやく折れた。
「……家名で呼ばれるぐらいなら、まだ名前の方がマシだよ……」
「夜霧さん」
 彼方が嬉しそうに微笑んだ。深々とため息を吐いてそれを見届けた夜霧は、今度こそ彼方の指を解き、一歩後退して距離を取った。
「もういいでしょ、忘れて。僕がキミを助けたのだって、ただの気まぐれ。本当は見捨てても良かったけど、後味が悪いからちょっと力を使っただけ」
「でも、どんな理由でも俺は今、生きてここにいます」
「だから、それは……」
「夜霧さんは魔法使いだとバレちゃいけないだけなんでしょ? じゃあ、俺とは会ってもいいですよね? 俺はもう、夜霧さんのこと知っているから」
「キミ、押しが強いな!?」
「また会ってください」
「えぇ……?」
 あからさまに引いている夜霧に、彼方は一歩踏み込んだ。
「今度は、ため池の傍じゃなくて、街中で」
「それはダメ。僕は街中には出られない」
「じゃあ、ここでいいですから」
 懇願する彼方に、夜霧は困ったように一歩、また一歩と後退っていく。
「うわ……なんで僕、こんな子供に迫られてるの?」
「子供じゃないです」
「子供でしょ?」
「十五歳です」
「子供じゃん」
「夜霧さんは?」
「は?」
「年齢、教えてください」
「ダメ」
「なんで五年前と同じ姿なんですか?」
「言えない」
「魔法使いだからですか?」
「そんなんじゃないってば」
「――来週、またここで会えますか?」
「もうなんなんだよ、キミ?!」
 夜霧が悲鳴染みた声で喚く。彼方は目を細めて、心に秘めていた言葉を口にした。
「夜霧さんの事、好きみたいです」
「はぁ!? ちょっ……困るんだけど!?」
「――水のない池の底から見た、夜霧さんの姿が忘れられないんです。俺の、魔法使いさん」
 夜霧はポカンとした顔でその言葉を受け止め「だからぁ」と呟いた。
「魔法使いなんかじゃないってば……」
 そして、夜霧は彼方の頭を撫でた。
「もし、二十年経っても僕を信じていられたなら、考えてあげてもいいよ。その時はキミはもうおじさんだろうけどね」

 ――二十年後。
 ため池の傍らで。
 一途に魔法使いを信じて想い続けたかつての少年は、あの日からまったく見た目の変わらなかった青年を閉じ込めるように抱き締めた。
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