偽世界の日常

西海子

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03.おやすみなさい、ジャック・ザ・リッパー

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 俺には弟がいる。
 血の繋がりはない。
 腹違いだとか、種違いだとか、そんなレベルの話じゃない。全くの赤の他人だ。でも弟だ。
 こう言うと、渡世の兄弟か、なんて訊かれるが、そんなんじゃない。
 ある日突然、家に来て俺の弟として生活し始めただけだ。
 名前はジャック。
 だが、純日本人だ。
 意味が分からない。
 それでも、ジャックだと名乗ったのだからしょうがない。
「兄さん」
 ぼうっとしていた俺に、ジャックが声を掛ける。
 何の用だ、俺はまた女に捨てられて傷心なんだよ。
 ジャックが俺を背後から抱き締める。
「また違う香水の匂いがする」
「あぁ、移ったんだろ……捨てられたからもうこの匂いとはお別れだ」
「……」
 ジャックの顔が俺の首筋に沈められる。匂い嗅ぐな。
「……シャワー浴びて。この匂いは嫌だ」
「……はいはい、じゃあ離せ」
 俺の答えにジャックは名残惜しそうに俺を離した。立ち上がり、バスルームへと向かう。
「ジャック?」
「なに、兄さん?」
 俺は薄く笑った。この笑顔に女も男も騙されるのだと知っていて。
「見る目ないよな、どいつもこいつも。俺は、こんなにも――」
「それ以上言ったら襲うよ?」
「……なんでもない」
 ジャックの目に冷たい光が宿ったことに気付いて、俺はさっさとリビングを出た。

 俺は自他ともに認める美形だ。いるだけで女が寄ってくる、色男という奴だ。
 だが、残念ながら俺は意志薄弱なひ弱な人間だった。
 俺の見た目にのぼせ上って付き合い始めた女は、大抵二、三日もすれば俺の本性に気付く。
 自分で物事を決められない、相手任せ、受け身な性質。
 俺の見た目からリードしてくれそう、なんてのを期待していた女はスッと冷めて別れを切り出し、或いはブロックして連絡を絶つ。
 こんな俺を形作ったのは、実の所、弟のジャックだった。
 ジャックは俺を甘やかす。
 何から何まで、俺の世話をしてくれる。
 あれが欲しい、これがやりたい。そんな俺の欲求に先回りするジャックの行動は、確実に俺を意思表示が出来ないダメ男にしていった。
 ある意味、ジャック好みの人間に調教されていっていたと言ってもいい。
 ジャックは人の……俺の世話を焼いて、俺に尽くしているのが幸せという変わった弟だった。そもそも言ってしまえば〝弟〟という肩書きを持っただけの赤の他人のジャックが、何故俺にここまで尽くすのかも分からない。
 何よりも分からないのは――。

 シャワーを浴びてリビングに戻ってくると、ジャックは出かける支度をしていた。
「なんだ、出かけるのか?」
「あぁ、ちょっとね」
 今の時刻は二十四時前。この時間から出かけるのは……まぁ、コンビニとか、そんな理由なら分かるけど。
 俺は問い質すことなどしない。もとより、そんなつもりもない。最初の一度で思い知っていたから。
「先に寝てる」
「あぁ、お休み、兄さん」
 ベッドルームに向かう俺を確認してからジャックは出かけて行った。
 ――足が付くような下手は打たないだろう。
 そんなある種の信頼と確信で満たされ、俺はベッドに沈んだ。

     ***

 一撃。
 それ以上は必要ない。
 なんなら、異能を使えばナイフすら必要ない。
 それでもナイフを使うのは、俺が真世界でうろうろしているのがバレると困ったことになるからだ。
 世界のバグを利用して偽世界の牢獄から逃げ出したのが露見すると、あっという間に他家の異能者の中でも戦闘能力に極振りしたような奴らが束になって俺を連れ戻しに来る。
 俺は今の生活が気に入っている。
 兄さん……中原なかはら睦月むつきの事を気に入っている。
 この生活を壊されるのは御免だった。
 だから、人知れず、ナイフを閃かせる。
 物言わぬ骸を蹴飛ばし、さて、と考える。
 兄さんを捨てる、という大罪にどうやって贖ってもらおうか。
 俺は、俺の異能を発現する。
 大した異能ではない。
 俺の家に受け継がれている異能は〝うろ〟だ。真世界こっちでも偽世界あっちでもない場所に向かう穴を開けることが出来る。
 虚淵うろぶち家の異能者が〝墓掘り〟とか〝始末屋〟と呼ばれるのは、これが理由だった。
 穴に落としてしまえば、それは無かった事になる。
 俺は手にしていたナイフをその穴に捨てて、作っておいた紙切れを骸の上に落とし、穴を閉じると歩み去る。
 そろそろ勘付かれるだろうか。
 長老はこっちのことには無関心を貫いているからいいが、うるさいのがいるのは確かだ。
 せっかく見つけたバグを塞口せきぐちの小僧に塞がれるのも癪だ。

 あぁ、何か方法はないものか。

     ***

 玄関の開く音に、俺は目を開けた。
 眠りが浅いから、少々の物音でも起きてしまうんだ。
 しばしあってベッドルームに入ってきたのはジャックだった。
「おかえり」
「起こした?」
「あぁ」
 ジャックはベッドに座ると、俺の頭を撫でて呟いた。
「――兄さんは、この世界が好き?」
 ……なんだろう、この問い掛けは?
 俺は少し考えてから、曖昧に笑った。
「どうでもいいかな、壊せるなら、壊れてもいい程度には」
「じゃあ、壊そうか」
「ん?」
「こっちを壊して、兄さんをあっちに連れて行く」
 何を言ってるんだ、この弟は?
 ふと、弟の手から鉄臭いにおいがした。
 ……また、やったのか。
「ジャック」
「なに?」
「何人目だよ?」
「さぁ、憶えてない」
「捕まりそうなのか?」
「そんなへましない」
 ただ、と弟は空虚に呟いた。
「こっちでは捕まらないけど、あっちには捕まりそうだから。こっちで騒ぎを起こして、こっそりあっちに戻ろうかと思って」
 何を言っているんだろう? 本気で分からなかった。
「ジャック、何の事を言っているんだ?」
「兄さんは気にしないでいいよ、兄さんもこっちを壊してもいいと思ってるみたいだし」
 弟は薄く笑って、俺の横に身を投げ出した。
「バグを誰かに教えてやるか……あぁ、それが面白い。こっちがぶっ壊れたら、さすがに俺達にも少しは生き易くなるだろ……」
「……何言ってるか分からないけど、世界をぶっ壊す、か……」
「兄さんが望むなら壊してあげる。簡単だよ、世界なんて脆弱性を突けば簡単に壊れるんだから」
 俺は――弟の凍えた眼差しにふるりと身を震わせ、身を起こすと弟の頭を撫でた。
「じゃあ、壊して」
「うん、分かった。――兄さんがそう言うなら」
「おやすみ、ジャック」
「おやすみ、兄さん」
 弟は目を閉じ、すぐに寝息が聞こえてきた。
 しばし考え込む。
 世界を壊す、ねぇ?
 まぁ、この弟ならやりかねないけど。
 欠伸を一つ。
 あぁ、もうどうでもいいや、寝よう。
 後は弟がどうにでもしてくれるんだ。

 翌日、現代の切り裂きジャック事件と呼ばれる連続殺人事件がニュースを賑わせていた。
 殺害されたのは俺を捨てた女だった。
 ナイフで一突きにされた遺体の上にはいつも通りに「売女は死ぬべきである」と書かれたメモが残っていたとか。
 犯人はジャックだろうな、とぼんやり思っていた。
 だが、そんな事は翌日には消し飛んでいた。
 ビル一棟が一瞬にして粉々になるという不可解な現象が報じられたからだ。
 それからは毎日のようにあちこちでその現象が続いた。
 俺の横でそのニュースを眺めていたジャックは、フフ、と笑って「始まったな」とだけ零して、俺を連れて家を出た。

 その日、俺はこの世界が壊れていく様を特等席で眺められる異世界の牢獄へと連れ込まれた。
 後の世で〝終末現象事変〟と呼ばれる、世界が崩壊する寸前までいった事態の始まった日だった。
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