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ノア王の心裏
仮面 4
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「そのために一体どれほど、道を譲らねばならぬのでしょう? 彼我の才覚の差を認められぬほど狭量な者どもに、権力を明け渡すことになりますよ」
「そうね。そうなれば私だけの問題ではなくなる……公正な社会が成り立たないわ」
「……権門の愚か者ひとりを生かすために千の民を殺すのでは、道理が通りません。今は振り返りなさいませぬよう」
おもむろに励ますような台詞を口にしたのは、意外な人物だった。静かに紅茶を口に運ぼうとするその男のほうを、全員が驚いて振り向く。
「ルーデルス! あんた口がきけたの!?」
このときベアトリスは、オットソンを徹底的に叩き潰し、ノルシュトレームの忠告や議会など無視してフィスカルボを掌握すべきだった……エディット・フォーゲルクロウはそう後述した。彼女の唱える覇道にならえば、それは正しいふるまいではある。
だがその常勝幻想によって舗装された道の先には――ノルシュトレームに指摘された、ノルドグレーンの国是にも反する――公国の簒奪女王ベアトリスによる専制、という未来が待ち受けている。そんな血塗られた新世界をベアトリス自身が望まなかったことが、進軍停止の角笛となった……ステファン・ラーゲルフェルトはそう後述した。
初夏を迎えたリードホルムの森は、トウヒやアカマツといった針葉樹が、弾けたような緑の葉を力のかぎり伸ばしている。そんな木々に囲まれた街道の先に、高い石垣が見えてきた。
「アリサは、ヘルストランドは初めてだったかしらね」
「は、はい……!」
「そんなに警戒せずとも、誰も待ち伏せなどしていませんよ」
緊張した様子で剣に手をかけそうなアリサを、ベアトリスが笑う。
ベアトリスはかつて、たしかにリードホルムにおいては明確な敵対者だった。ジュニエスの戦いにおける事実上の勝者として初めてヘルストランドを訪れた際は、リードホルム王家とローセンダール家が用意した護衛に囲まれた貸し切りの宿で、ものものしい時間を過ごしたこともある。だがその後は、さまざまな懐柔策が功を奏した。今では、王家の使いの者が出迎えるだけで護衛は派遣されず、ベアトリスの側もアルバレスら少数の従者が同行するのみとなった。
リードホルムの王都ヘルストランドは、堅牢な城塞に囲まれている。その門をくぐったベアトリスは、高い石壁が自分を守ってくれるような気がした。
――いくらノルドグレーンであらそいが絶えなかったからって、馬鹿げた感傷だわ。
ところどころ黒く苔むした石壁を見上げながら、ベアトリスは首を横に振る。ベアトリスたち一行の馬車が通り過ぎると、城塞の跳ね橋があがり門は閉ざされた。
宿へ向かう道すがら、ベアトリスは意外な光景に遭遇した。
さいきん新しく開設された市場を通りがかると、買い物客とは明らかにちがった人だかりができていた。その広場に設けられた演台の上では、ベアトリスがこれから会う予定になっていた人物が演説を打っている。他ならぬリードホルムの王、ノアだ。
「……父王は王国の礎たる国民の生活に関心を示さず、その背信を罰する神の矢によって倒れた。父はその命によって罪を贖ったが、では未だ王国に巣食う旧国王派の貴族たちはどうか。彼らは飽くことなく領民からの収奪と飽食と虚栄に明け暮れ、王国の、民の窮乏には見向きもせず、ただ私腹を肥やすばかりだ。旧国王派を野放しにしていては、王国の平安は永遠に能わぬ」
長い金髪をときどき風になびかせながら、ノア王はリードホルム内の旧主派を批判している。舌鋒するどい言葉で訴えかける白皙の横顔はさまになっているが、その様子はベアトリスにとって意外だった。そして、一抹の失望のようなものが、心の端をちりちりと焦がすような気がした。
「そうね。そうなれば私だけの問題ではなくなる……公正な社会が成り立たないわ」
「……権門の愚か者ひとりを生かすために千の民を殺すのでは、道理が通りません。今は振り返りなさいませぬよう」
おもむろに励ますような台詞を口にしたのは、意外な人物だった。静かに紅茶を口に運ぼうとするその男のほうを、全員が驚いて振り向く。
「ルーデルス! あんた口がきけたの!?」
このときベアトリスは、オットソンを徹底的に叩き潰し、ノルシュトレームの忠告や議会など無視してフィスカルボを掌握すべきだった……エディット・フォーゲルクロウはそう後述した。彼女の唱える覇道にならえば、それは正しいふるまいではある。
だがその常勝幻想によって舗装された道の先には――ノルシュトレームに指摘された、ノルドグレーンの国是にも反する――公国の簒奪女王ベアトリスによる専制、という未来が待ち受けている。そんな血塗られた新世界をベアトリス自身が望まなかったことが、進軍停止の角笛となった……ステファン・ラーゲルフェルトはそう後述した。
初夏を迎えたリードホルムの森は、トウヒやアカマツといった針葉樹が、弾けたような緑の葉を力のかぎり伸ばしている。そんな木々に囲まれた街道の先に、高い石垣が見えてきた。
「アリサは、ヘルストランドは初めてだったかしらね」
「は、はい……!」
「そんなに警戒せずとも、誰も待ち伏せなどしていませんよ」
緊張した様子で剣に手をかけそうなアリサを、ベアトリスが笑う。
ベアトリスはかつて、たしかにリードホルムにおいては明確な敵対者だった。ジュニエスの戦いにおける事実上の勝者として初めてヘルストランドを訪れた際は、リードホルム王家とローセンダール家が用意した護衛に囲まれた貸し切りの宿で、ものものしい時間を過ごしたこともある。だがその後は、さまざまな懐柔策が功を奏した。今では、王家の使いの者が出迎えるだけで護衛は派遣されず、ベアトリスの側もアルバレスら少数の従者が同行するのみとなった。
リードホルムの王都ヘルストランドは、堅牢な城塞に囲まれている。その門をくぐったベアトリスは、高い石壁が自分を守ってくれるような気がした。
――いくらノルドグレーンであらそいが絶えなかったからって、馬鹿げた感傷だわ。
ところどころ黒く苔むした石壁を見上げながら、ベアトリスは首を横に振る。ベアトリスたち一行の馬車が通り過ぎると、城塞の跳ね橋があがり門は閉ざされた。
宿へ向かう道すがら、ベアトリスは意外な光景に遭遇した。
さいきん新しく開設された市場を通りがかると、買い物客とは明らかにちがった人だかりができていた。その広場に設けられた演台の上では、ベアトリスがこれから会う予定になっていた人物が演説を打っている。他ならぬリードホルムの王、ノアだ。
「……父王は王国の礎たる国民の生活に関心を示さず、その背信を罰する神の矢によって倒れた。父はその命によって罪を贖ったが、では未だ王国に巣食う旧国王派の貴族たちはどうか。彼らは飽くことなく領民からの収奪と飽食と虚栄に明け暮れ、王国の、民の窮乏には見向きもせず、ただ私腹を肥やすばかりだ。旧国王派を野放しにしていては、王国の平安は永遠に能わぬ」
長い金髪をときどき風になびかせながら、ノア王はリードホルム内の旧主派を批判している。舌鋒するどい言葉で訴えかける白皙の横顔はさまになっているが、その様子はベアトリスにとって意外だった。そして、一抹の失望のようなものが、心の端をちりちりと焦がすような気がした。
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