簒奪女王と隔絶の果て

紺乃 安

文字の大きさ
237 / 281
簒奪女王

後宮の使者 3

しおりを挟む
 曇り空が続くノーラント半島の冬にしてはめずらしく青空が広がり、日差しの暖かみに誰もが表情を緩める――そんなある日、リードホルム王宮を騒然とさせる事件が起こった。

 その日ベアトリスは、エステル・マルムストレムに会うためヘルストランド城の炊殿かしきどのを訪れていた。
 王の専属であるとはいえ召し抱えられた料理人でしかないエステルのもとに、王妃であるベアトリスがわざわざ足を運ぶ――かつてリードホルムの敵として戦場に立ったことさえあるベアトリスが、いま王妃として王宮内外で認められつつある要因として、こうした徳性もその一つに数えられるだろう。
 だがこの日は、彼女のその貴人らしからぬ行動が、騒動をより昂進させることになった。

「見ない顔だね」
 王宮の炊殿に食材を納品しに来た中年の男に、エステルが声をかけた。夕食の材料が普段通りの時間に配達されず使用人たちがやきもきしていたところに、見慣れぬ人物が現れたのだ。よほど仕事に無関心な者でない限り、不審に感じないほうが難しい。
 エステル自身はヘルストランド城に召し抱えられて一年に満たないが、その間に見た配達人の顔は二種類しかなかった。今回の男はそのいずれでもない。
「いつもの奴が怪我しちまってな。それで遅れたんだよ」
「いつもの……? イェルハルドさんがいるでしょ?」
「……食事時が近いぜ。急がなくちゃいけねえんじゃねえのか」
「まずは確認が先よ。ノア王はそんなに食い意地が張ってるほうじゃないんでね」
 エステルは言いながら、山と積まれたかぶのそばにあったナイフに手を伸ばした。男は舌打ちし、逃げるように立ち去ろうとした。
「衛兵さん! 怪しいのがいるんだけど」
 エステルが廊下に向かって叫ぶ。聞きつけた衛兵が、すぐさま硬い靴音を響かせて駆けつけてくる。男はテーブルの上の食材をエステルにぶつけるようにひっくり返すと、彼女の背後にある調理場への扉を蹴り開けた。乱暴な音に驚いた調理人たちが振り向くと、おどり込んできた男は大ぶりのナイフを右手に掴んでいた。とまどいの沈黙を一瞬はさんで、複数の女中から一斉に悲鳴が上がる。その声に男も気を動転させた。とっさに、近くで根菜の皮むきをしていた少女の首に左腕をかけ、ナイフを突きつけた。
「アニタ!」
 少女の悲鳴が響きわたり、エステルが叫ぶ。
「ち、近寄るな!」
 暴漢の男はナイフを振りかざして周囲を威嚇いかくしながら、少女を引きずって出口の扉にすり寄っていく。
「騒ぎやがって……金持ってすぐ逃げ出すはずだったのによう」
 暴漢はアニタと呼ばれた少女を捕らえたまま、後ろ手で扉を開けた。西日の差し込む廊下に出て、そのままアニタを放り出し城外に走り去る――はずが、扉の外にはベアトリスたちが居合わせていた。
「え、何……?」
 ただならぬ様子に、アリサとルーデルスが素早くベアトリスの前に出る。
「クソっ、次から次へと……」
 忌々いまいましげにぼやきながら、暴漢は左右を見回す。廊下の北側はエステルの声を聞いて駆けつけた衛兵に、南はベアトリスたちに封鎖されていた。
「お前ら、そ、そこを動くんじゃねえ!」
 暴漢はアニタの首筋にナイフを突きつけ、ばちな響きの声で叫んだ。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他

猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。 大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス! ※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。 【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】

【完結】仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

処理中です...