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簒奪女王
後宮の使者 3
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曇り空が続くノーラント半島の冬にしてはめずらしく青空が広がり、日差しの暖かみに誰もが表情を緩める――そんなある日、リードホルム王宮を騒然とさせる事件が起こった。
その日ベアトリスは、エステル・マルムストレムに会うためヘルストランド城の炊殿を訪れていた。
王の専属であるとはいえ召し抱えられた料理人でしかないエステルのもとに、王妃であるベアトリスがわざわざ足を運ぶ――かつてリードホルムの敵として戦場に立ったことさえあるベアトリスが、いま王妃として王宮内外で認められつつある要因として、こうした徳性もその一つに数えられるだろう。
だがこの日は、彼女のその貴人らしからぬ行動が、騒動をより昂進させることになった。
「見ない顔だね」
王宮の炊殿に食材を納品しに来た中年の男に、エステルが声をかけた。夕食の材料が普段通りの時間に配達されず使用人たちがやきもきしていたところに、見慣れぬ人物が現れたのだ。よほど仕事に無関心な者でない限り、不審に感じないほうが難しい。
エステル自身はヘルストランド城に召し抱えられて一年に満たないが、その間に見た配達人の顔は二種類しかなかった。今回の男はそのいずれでもない。
「いつもの奴が怪我しちまってな。それで遅れたんだよ」
「いつもの……? イェルハルドさんがいるでしょ?」
「……食事時が近いぜ。急がなくちゃいけねえんじゃねえのか」
「まずは確認が先よ。ノア王はそんなに食い意地が張ってるほうじゃないんでね」
エステルは言いながら、山と積まれた蕪のそばにあったナイフに手を伸ばした。男は舌打ちし、逃げるように立ち去ろうとした。
「衛兵さん! 怪しいのがいるんだけど」
エステルが廊下に向かって叫ぶ。聞きつけた衛兵が、すぐさま硬い靴音を響かせて駆けつけてくる。男はテーブルの上の食材をエステルにぶつけるようにひっくり返すと、彼女の背後にある調理場への扉を蹴り開けた。乱暴な音に驚いた調理人たちが振り向くと、躍り込んできた男は大ぶりのナイフを右手に掴んでいた。とまどいの沈黙を一瞬はさんで、複数の女中から一斉に悲鳴が上がる。その声に男も気を動転させた。とっさに、近くで根菜の皮むきをしていた少女の首に左腕をかけ、ナイフを突きつけた。
「アニタ!」
少女の悲鳴が響きわたり、エステルが叫ぶ。
「ち、近寄るな!」
暴漢の男はナイフを振りかざして周囲を威嚇しながら、少女を引きずって出口の扉にすり寄っていく。
「騒ぎやがって……金持ってすぐ逃げ出すはずだったのによう」
暴漢はアニタと呼ばれた少女を捕らえたまま、後ろ手で扉を開けた。西日の差し込む廊下に出て、そのままアニタを放り出し城外に走り去る――はずが、扉の外にはベアトリスたちが居合わせていた。
「え、何……?」
ただならぬ様子に、アリサとルーデルスが素早くベアトリスの前に出る。
「クソっ、次から次へと……」
忌々しげにぼやきながら、暴漢は左右を見回す。廊下の北側はエステルの声を聞いて駆けつけた衛兵に、南はベアトリスたちに封鎖されていた。
「お前ら、そ、そこを動くんじゃねえ!」
暴漢はアニタの首筋にナイフを突きつけ、捨て鉢な響きの声で叫んだ。
その日ベアトリスは、エステル・マルムストレムに会うためヘルストランド城の炊殿を訪れていた。
王の専属であるとはいえ召し抱えられた料理人でしかないエステルのもとに、王妃であるベアトリスがわざわざ足を運ぶ――かつてリードホルムの敵として戦場に立ったことさえあるベアトリスが、いま王妃として王宮内外で認められつつある要因として、こうした徳性もその一つに数えられるだろう。
だがこの日は、彼女のその貴人らしからぬ行動が、騒動をより昂進させることになった。
「見ない顔だね」
王宮の炊殿に食材を納品しに来た中年の男に、エステルが声をかけた。夕食の材料が普段通りの時間に配達されず使用人たちがやきもきしていたところに、見慣れぬ人物が現れたのだ。よほど仕事に無関心な者でない限り、不審に感じないほうが難しい。
エステル自身はヘルストランド城に召し抱えられて一年に満たないが、その間に見た配達人の顔は二種類しかなかった。今回の男はそのいずれでもない。
「いつもの奴が怪我しちまってな。それで遅れたんだよ」
「いつもの……? イェルハルドさんがいるでしょ?」
「……食事時が近いぜ。急がなくちゃいけねえんじゃねえのか」
「まずは確認が先よ。ノア王はそんなに食い意地が張ってるほうじゃないんでね」
エステルは言いながら、山と積まれた蕪のそばにあったナイフに手を伸ばした。男は舌打ちし、逃げるように立ち去ろうとした。
「衛兵さん! 怪しいのがいるんだけど」
エステルが廊下に向かって叫ぶ。聞きつけた衛兵が、すぐさま硬い靴音を響かせて駆けつけてくる。男はテーブルの上の食材をエステルにぶつけるようにひっくり返すと、彼女の背後にある調理場への扉を蹴り開けた。乱暴な音に驚いた調理人たちが振り向くと、躍り込んできた男は大ぶりのナイフを右手に掴んでいた。とまどいの沈黙を一瞬はさんで、複数の女中から一斉に悲鳴が上がる。その声に男も気を動転させた。とっさに、近くで根菜の皮むきをしていた少女の首に左腕をかけ、ナイフを突きつけた。
「アニタ!」
少女の悲鳴が響きわたり、エステルが叫ぶ。
「ち、近寄るな!」
暴漢の男はナイフを振りかざして周囲を威嚇しながら、少女を引きずって出口の扉にすり寄っていく。
「騒ぎやがって……金持ってすぐ逃げ出すはずだったのによう」
暴漢はアニタと呼ばれた少女を捕らえたまま、後ろ手で扉を開けた。西日の差し込む廊下に出て、そのままアニタを放り出し城外に走り去る――はずが、扉の外にはベアトリスたちが居合わせていた。
「え、何……?」
ただならぬ様子に、アリサとルーデルスが素早くベアトリスの前に出る。
「クソっ、次から次へと……」
忌々しげにぼやきながら、暴漢は左右を見回す。廊下の北側はエステルの声を聞いて駆けつけた衛兵に、南はベアトリスたちに封鎖されていた。
「お前ら、そ、そこを動くんじゃねえ!」
暴漢はアニタの首筋にナイフを突きつけ、捨て鉢な響きの声で叫んだ。
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