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簒奪女王
憎悪の向こう 13
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ベアトリスとて多くの人に範を示すべき身の上であり、体裁を優先して感情を押し殺したことは何度もあった。だがそんな痩せ我慢は無制限にできるものではない。そんなことが苦もなくできるとしたら、それは喜びや悲しみを理解する情操をそなえた人格ではなく、ただ無味乾燥な規範そのものでしかない。切れば血の出る“人”には不可能なことだろう。
「そういう気持ちを忘れた、愚かで薄っぺらい人間を、リースベットもノア様も憎んでいるんです。そして、あなたはそうじゃない、とあたしもノア様も思っている」
「私は、ノア様に許されているの……?」
「そうですね……ノア様はあなたを許したのではなく、エイデシュテットを憎むことであなたへの憎しみから自由になろうと自分を変えていったのよ。バックマンがこういうのを……暗示とか呼んでたけど」
「自己暗示、ね」
「そう、それ。……そして、あなたとリースベットのあいだに立ちふさがっていたエイデシュテットが消えたと聞かされて、ノア様はどんな心境だったかしらね。すぐに整理がつくものじゃなさそうだけれど」
ベアトリスは涙があふれそうだった。自分はノアに対し、共通の理念、志向を持つ者同士として、ほとんど無邪気な好意で接してきた。だがノアははるかに重く複雑な思いを抱えながら、それでもベアトリスに対して誠実で情愛にあふれた態度を崩さなかったのだ。
思い返すと、――突然の婚姻までは――どちらかといえば関係に及び腰だったベアトリスに対し、いつもノアのほうから手を差し伸べてきていた。これこそ、ノアがベアトリスへの憎しみから自由になろうとしての、自己暗示的な行動だったのだろう。だが、ベアトリスがノアの手を取ろうとするたび、決まってその手を引かざるを得ないような何かが起こった。
これを運命というのでばければ、ベアトリスに課せられた責務だ。それはノアと共にあるためには、かならず崩さなければならない氷壁なのだ。その途方もない高さに、今ようやく気付かされたのだ。
ベアトリスはほんの少しだけ、晴れやかな気持ちになっていた。大きな問題を抱えていることを知ったが、その大きさだけは理解できたのだから。
「ありがとう、エステル・マルムストレム。私に気づかせてくれて」
「どういたしまして。こちらこそ不敬罪で打ち首にしないでくれてありがとう」
ふたりは小さく笑い合った。
私たち、友人になれないかしら――ベアトリスはそう言おうとして、だが言い出せなかった。エステルもまた、ベアトリスによってリースベットを失ったひとりなのだ。ノアに対するのと同じように、彼女との間にもまた重苦しい壁がある。
テーブルの上の燭台はまだゆらゆらと明かりが灯っているが、暖炉の火は落ちたようだ。
「そういう気持ちを忘れた、愚かで薄っぺらい人間を、リースベットもノア様も憎んでいるんです。そして、あなたはそうじゃない、とあたしもノア様も思っている」
「私は、ノア様に許されているの……?」
「そうですね……ノア様はあなたを許したのではなく、エイデシュテットを憎むことであなたへの憎しみから自由になろうと自分を変えていったのよ。バックマンがこういうのを……暗示とか呼んでたけど」
「自己暗示、ね」
「そう、それ。……そして、あなたとリースベットのあいだに立ちふさがっていたエイデシュテットが消えたと聞かされて、ノア様はどんな心境だったかしらね。すぐに整理がつくものじゃなさそうだけれど」
ベアトリスは涙があふれそうだった。自分はノアに対し、共通の理念、志向を持つ者同士として、ほとんど無邪気な好意で接してきた。だがノアははるかに重く複雑な思いを抱えながら、それでもベアトリスに対して誠実で情愛にあふれた態度を崩さなかったのだ。
思い返すと、――突然の婚姻までは――どちらかといえば関係に及び腰だったベアトリスに対し、いつもノアのほうから手を差し伸べてきていた。これこそ、ノアがベアトリスへの憎しみから自由になろうとしての、自己暗示的な行動だったのだろう。だが、ベアトリスがノアの手を取ろうとするたび、決まってその手を引かざるを得ないような何かが起こった。
これを運命というのでばければ、ベアトリスに課せられた責務だ。それはノアと共にあるためには、かならず崩さなければならない氷壁なのだ。その途方もない高さに、今ようやく気付かされたのだ。
ベアトリスはほんの少しだけ、晴れやかな気持ちになっていた。大きな問題を抱えていることを知ったが、その大きさだけは理解できたのだから。
「ありがとう、エステル・マルムストレム。私に気づかせてくれて」
「どういたしまして。こちらこそ不敬罪で打ち首にしないでくれてありがとう」
ふたりは小さく笑い合った。
私たち、友人になれないかしら――ベアトリスはそう言おうとして、だが言い出せなかった。エステルもまた、ベアトリスによってリースベットを失ったひとりなのだ。ノアに対するのと同じように、彼女との間にもまた重苦しい壁がある。
テーブルの上の燭台はまだゆらゆらと明かりが灯っているが、暖炉の火は落ちたようだ。
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