死にゆくものたち

ねこにこみ。

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とある男の手記

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 じわりと汗ばんだ掌が、私の持つ筆を酷く鈍らせる。
 こうして机に向かっている今も、”アレ”がすぐ傍にいるのではないかと錯覚してしまう。

 だが、私はどうしても書き記さねばならない。
 あの場所での惨劇を。──あの恐怖を。

 さて、記憶の整理も兼ねて、仔細を書いていこうと思う。 

 私の名前はベンジャミン・シュレーディンガー。
 狩人を生業としている人間だ。いや、正確には『生業だった』と言ったほうが良いだろう。
 何故なら、私が銃を持つことはもう二度とないからだ。

 あの日のことはよく覚えている。
 空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。

 私は、友であるマーク・トレインと、ケイネス・イルベルトと共にとある森林を訪れた。
 というのも、その森にまつわる怪しげな噂を耳にしたからだ。

 朝と夜に一度、毎日必ず獣の不気味な遠吠えが聞こえるという。
 それだけなら狼や野犬を想像することだろう。
 だが、私の好奇心を刺激したのは、その森には獣が一匹も生息していないという情報だった。

 そんな森が果たして本当にあるのか?
 世界には数多の生物が存在している。
 山や河、海や空。どこにでも必ず生物は存在する。当然だろう。

 森であれば当然、熊や狼、犬や猿、ゴブリンやオークなどの魔物が必ず居るはずだ。

 だからこそ、私たちは噂の真偽を確かめるべくその森へ足を運んだ。
 場所は伏そう。私の残したこの手記を読んだ君が、愚かな真似を繰り返さないようにするためだ。

 私が暮らしている街からその森までは、馬車を使っても二日ほどかかる。

 依頼で赴くわけではないので交通費は当然自腹。
 本来であれば、そんな馬鹿馬鹿しい噂ひとつに金を使うことなどありえない。

 だが、それでも不思議とそそられたのだ。
 何かが私たちに対して呼びかけているように……。そう、強く惹きつけられる何かがあったのだ。
 
 ああ、今になって思い返せばすぐに分かる。

 あの村に到着した時点で、私たちは気付くべきだったのだ。
 
 時として邪悪は実態を成し、私たちへ牙を剥くことを。
 世界には、絶対に触れてはいけないものがあることを。

 道中は何事もなく、私たちは、件の森に隣接する村に着いた。
 長い馬車旅で疲れた私たちは、森に狩猟へ入る前に一晩休もうという話になり、宿を取った。

 村人たちも皆気さくで、旅人である私たちに親切にしてくれた。

 それがおかしかったのだ。
 そも、森に隣接した村である時点で獣の咆哮に不安を抱くのは当然である。

 狼や野犬ならまだいい。
 だが、もしもヘルハウンドやタロンウルフなどの凶悪な魔物だったら?

 村の衛兵程度では到底太刀打ちできない。
 それで一晩の内に壊滅する村もあるほどなのだ。
 にもかかわらず、あのように穏やかに過ごしている時点で、村民が何かを知っていることは明白だった。

 当時の私の愚かさに虫唾が走る。

 ああ、そうだ。
 真夜中に聞こえた遠吠えも、翌朝に聞こえた遠吠えも、決して犬や狼の類のものではなかった。もっと別の……しかし、それなら一体何が存在している?

 分からない。分かるべきではない。分かろうとしてはいけなかったのだ。
 駄目だ行くな引き返せ引き返せ引き返せ引き返せ引き返せ引き返せばよかったのに。
 ……すまない、私の内に未だ残る恐怖を殴り書きせねば、平静を取り戻せなかったのだ。

 話を戻そう。

 私とマーク、それからケイネスは、翌朝に早速支度を終えて噂の森へ向かった。

 私たちは皆、自分の腕に自信があった。
 私は生物の知識に長けていて、情報に基づいた戦法を講じることを得意としていた。
 マークは射撃の腕に秀でており、その正確無比な狙撃は数多くの獣や魔物の命を奪ってきた。
 ケイネスは一級の罠師だった。彼はどんな状況であろうと、その場所にあるものを最大限に活用した罠を作ることができたのだ。天才と言わざるを得ないだろう。

 この三人が組むことにより、どんな相手であろうと確かな結果を出してきたのだ。

 既に年は皆、三十歳を超えており、最前線に立っているわけではなかった。
 しかし、数年前には、民家二つ分はあるだろう大きさの『クロコダイロス』という魔物を狩った経験もあったのだ。

 だからこそなのだろう。結局、調子に乗ったツケが回ってきたのだ。

 なるほど確かに、噂通り森中くまなく捜し歩いても、獣はおろか虫一匹すら見つけることはできなかった。

 狩人組合には、新人の頃から繰り返し叩き込まれる教えがある。

『いつ何時も油断せず、決して狩られる側に立つこと無かれ。』

 森に入った私たちは、すっかり油断しきっていた。
 狩られる側の立場であることなど全く気付かなかったのだ。

 せっかく安くない旅費を払って来たのだ。
 このまま何の猟化も挙げられずに帰るのを嫌がった私たちは、せめて遠吠えの正体だけでも突き止めようと森の奥まで入っていってしまった。
 当然のことながら、森林や山、海もそうだが、深く潜れば潜るほどに危険が増す。
 何故ならそれ程までに人の手が入らず、どんな生物が存在するか分からないからだ。

 だが、森の奥に進んだ私たちは予想だにしないものを見つけた。

 民家だ。

 雨風に晒されて傷んではいたが、そこそこの大きさの民家を見つけたのだ。

 一体何故こんな場所に? 危険性は? そもそも、今もまだ人が住んでいるのだろうか?

 考える必要すらなかった。何度も繰り返すが、それを見つけた時点で帰るべきだったのだ。
 ありえない状況ほど危険なものは存在しない。

 よしんば人が住んでいたとして、まともな人物でない可能性が高い。
 魔女や殺人鬼、吸血鬼やおぞましいカルト教団の可能性もある。

 私たちは既に魅入られていたのだろうか?

 空はどんよりとした雲に覆われながらも、いつの間にか日が没しかけていたのもあった。
 悪天候に見舞われて全身ずぶ濡れになる可能性を避けたかったのもあった。
 だが、その民家に入ることだけは、決して選んではいけない選択肢だったのだ。

 嗚呼、あの恐怖が再び増すのを感じている。
 震える手で必死に文字を綴ることがこんなに辛いことだとは。

 書き物は趣味として嗜んでいたが、今これを書いているこの現状は、心の底から忌々しい。

 ここまでを振り返るだけで長くなった。
 ここからが本題だ。

 軋んだ音を立てて戸を開け、私たちは民家の中に入った。
 外観からの予想通り、民家の中に人の気配は感じられない。
 ランタンに火が灯されているはずもなく、真っ暗な家屋の中はそこかしこに蜘蛛の巣があった。
「何だ、ここに来て初めて見つける生き物が蜘蛛だとはな」とマークが笑っていたのを覚えている。だが私はそれを否定した。

 蜘蛛の巣は確かにあったが、肝心の蜘蛛そのものは見当たらなかったから。

 そんなやり取りを経て、家屋内に完全に足を踏み入れた途端だった。
 凄まじい怖気が全身に纏わりついた。
 
 きっと友人二人も同じだったのだろう。

 皆が青ざめ、冷や汗が止まらない。

 何故こんなところに足を踏み入れたのか?
 今さら気付いたところでもう遅い。
 私たちは、生きてここから出られることは決してないと直感した。

 完全に凍り付き、しんと静まり返った民家内。

 ふと、犬の切なげな──クンクンと喉を鳴らすあの音が聞こえてきた。

 ああ、思い出したくない。これ以上は書きたくない。だが書かねばならない。
 二度と犠牲者を出してはならない。もう二度とあの森に人を近づけてはならない。
 アレは決して生き物なんかじゃない。魔物なんかじゃない。もっと何か別のおぞましい生き物だ。そもそも生き物だったのだろうか? アレはなんだったのだろうか? 今も分からない。分かりたくない。分かるべきではない。二度と近寄りたくもない。

 暗闇の奥から現れたのは、ピンク色にてらてらと輝いた、奇怪な頭だった。
 眼も鼻も耳もない。
 だが、首の方までバックリと裂けた口、そこにずらりと並んだ牙。
 首から下は黒色の体毛に覆われており、四足で立つそのフォルムは完全に犬だった。

 その民家の天井まで届きそうな体躯の大きさと、異常すぎる頭部を除いては。

 その生物は口元から涎をだらだらと垂れ流しており、しかし飢えや食欲など一切感じ取れないその生物は、私たちを探しているように屋内を歩き回っている。

 見た目通り、聴覚も視覚も嗅覚も無いのだろうか?
 この状況に陥ったからこそなのだろうか、冷静にそう分析した私は、慎重に逃げるべく二人へ咄嗟に目配せをした。
 ……正確には、しようとした。

 人は理解できない存在を目にしたとき、理性を保つことができなくなる。

 もはや背が天井まで届きそうな大きさの生き物が、外から屋内を覗いたときに気配すら感じられなかったのに突然現れたのだ。狂うのも無理はない。
 
 ああ、可哀想に。耐えきれなかったのだろう。
 マークは絶叫しながら、その犬のような生物に向かって出鱈目に銃を撃った。

 一発目、右足を直撃。
 二発目、頭部を直撃。
 三発目、背中の肉を掠った。

 そこで終わりだった。

 化物は瞬く間に私たちの目前に移動し、マークに頭から齧り付いた。

 水に濡れた布と腐った卵を混ぜたような激臭と、濃密な血の匂いが鼻を突く。
 飛び散った血飛沫が私とケイネスを真っ赤に染め上げる。
 マークの脚がガクンガクンと痙攣しているのが見える。

 ゴトリと音を立てて落ちた銃と、化物の口の隙間からだらりと垂れさがるマークの腕が、彼はもうこの世から旅立ってしまったことを如実に示していた。

 何一つ状況が理解できなかった。
 私の脳内はもはや考えることを放棄し、恐怖や後悔、親友を殺された怒りや悲しみすら感じなかった。ただただ呆然と、その場に立ち尽くしていた。

 もちろん、眼前でかつて親友だった肉塊を咀嚼している異形そのものが疑問だ。
 だが、マークの放った銃弾は出鱈目ながらも正確に頭部と脚を撃ち抜いていた。
 それが何故生きている? それに、どうやってこの一瞬で距離を詰めたのだろうか?
 少なくとも、先程まで化物との距離は二十五メートルほどはあったはずだ。
 ただ呆気に取られている私に対して、ケイネスの対応は素早かった。
 化物の後ろに滑り込み、民家の奥へと走っていく。

 そして、腰のベルトに装備していたポイズンダートを化物に対して射出。

  そうすると、痛覚はあるのだろうか? 
化物はマークを食むのを止め、ケイネスの方へ振り返った。
 同時、ケイネスが叫ぶ。

「今のうちに逃げろ、ベン! こい──」

 ぐちゃり。

 湿った音を立てて、ケイネスは化物に踏みつぶされた。
 
 殺したのは自分自身だというのに、化物はケイネスだった紅い床の染みに鼻先を押し付け、悲し気に鳴いている。

 それから先の記憶は朧げだった。
 
 ただ一心不乱に民家を飛び出し、森を抜け、街道を走った。
 途中、森に入る前に聞いた獣の遠吠えが聴こえた。

 気付けば街に着き、血に塗れた私の姿に驚愕した衛兵に保護され、必死に事情を説明した。
 だがそんな噂を衛兵は歯牙にもかけなかった。ただただ私を怪しみ、けれど証拠不十分ということで五日間拘留され、今日やっと解放されたのだ。

 ああ、今なら分かる。
 遠吠えの主はあの異形だったのだ。
 村民は知っていたのだ。毎朝、毎晩吠えている存在が何かを。

 きっと、アレは民家の外に出られないのだろう。
 だからこそ、村民たちは普通に暮らしていたのだ。

 何故村民たちは忠告してくれなかったのだろうか?
 何故私たちは警戒しなかったのだろうか?
 それに何より、あの化物はなんだったのだろうか?

 あれから私は、暗闇を見るだけで全身に悪寒が走る。
 だが、もうこれ以上知りたいとも思わない。
 愚かな好奇心にそそのかされて悲惨に死んだ親友たちの、特に、私を逃がそうと怯えながらも必死に庇ってくれたケイネスの顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。

 私の精神状態はもう平静に戻ることは無いのだろう。
 これは幻聴ではなく本物なのだろうか?

 今も時折、あの化物の悲し気な鳴き声が聞こえるのだ。

 私は愚かだった。どこまでも愚かだった。
 あんな噂に耳を傾けず、親友を誘わなければよかった。

 後悔の念と恐怖に心が押し潰されそうだ。

 だからこそ、だからこそなのだ。
 これ以上、同じ犠牲者を出すわけにはいかない。

 この手記を私は確かにここに書き遺した。
 私はこれ以上、この恐怖を抱えて怯えながら生きていくことはできない。
 私が何を言っても、おかしな人間だと鼻で笑われて相手にしてくれない。
 
 せめて、私の亡骸を発見した君が、君だけでも。
 どうかお願いだ。あの森にまつわる真相を暴き、あるいは、誰もあの森に近付かないようこの話を広めて欲しい。


 ありがとう。さらばだ。


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