オトガイの雫

なこ

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「…おはよ。」

「はよ。」

リビングで朝食の準備をしていると、シャワーを浴び終えた伊央がパンツ一枚でどかっとソファに腰を下ろす。

バスケで鍛えられた身体は引き締まっていて、いつもあの身体に抱かれる想像をしてしまう疚しさから、目を逸らしてしまう。

「また髪濡れたままだよ。」

「乾かすのがめんどくせえ。雫やって。」

「もう、しょうがないなあ。」

いつものことだ。ぽたぽたと水滴を垂らしたままの髪をさっとタオルで拭いてから、ドライヤーをかけてあげる。

伊央の髪は黒くてさらさらとしている。面倒くさがらないで、ちゃんと乾かして整えれば艶々として綺麗なのに、俺がやらないとぼさぼさにしてしまうので、しょうがない。

「雫、美容師とか向いてるかもな。」

「なんで?」

「雫の手、気持ちいい。」

目を瞑ったまま、伊央はだらりと無防備にされるがままだ。

「何言ってるんだよ。乾かすくらい誰でもできるから。」

丁寧に乾かしていたのが恥ずかしくなり、ドライヤーを強にして、わしゃわしゃと雑に扱う。

「急に、雑になった。」

上目遣いに見上げてくる伊央の首元には、薄らと赤い鬱血痕が残る。昨晩の名残だ。

「後は自分でやって。それと、首についてるから。」

「なんだよ。せっかく気持ち良かったのに。首?」

ドライヤーを伊央に押し付け、朝食の支度に戻ると、最悪と呟く声が聴こえてきた。

最悪も何も、昨日自分たちがしたことだろ。

薄らと赤いその色が、目に焼きついて離れない。

最悪なのは俺の気分だ。




「なんか、聞いてて、辛い。でも、やめられないんだよね…」

昼のざわざわと騒がしい学食の片隅で向かい合うのは、同じゼミの小夜さよ先輩だ。

小さな口でつるつるとうどんを啜る姿は、俺からみても可愛らしい。

名前の通り小さくて、夜の街みたいに吸い込まれそうな大きな黒目が印象的だ。

名前と見た目と、初めは女の先輩だと思っていたので、男だと知った時はひどく驚いた。

俺と同じ部類の人。小夜先輩もすぐに気がついたらしい。

「ですよね。何の期待もしていないし、もう諦めてるのに…」

「一緒に住んでるから、尚更だよね。ぼくのとこに来る?部屋空いてるよ。雫くんなら、彼も大歓迎だと思うし。」

小夜先輩は、長年の片想いが成就したばかりだ。幼い頃から側にいた歳上の彼をずっと想っていた。互いに相談し合っていたせいか、想いが通じ合ったと聞いた時には、俺も泣いて喜んでしまった。

この世で俺の不毛な片想いを知っているのは小夜先輩だけで、先輩の存在には何度も救われている。

「…その方が、いいのかな…」

「毎日一緒にいたら、絶対諦め切れないと思う。」

「想いを告げて親友じゃいられなくなって、きっぱり縁を切られるのと、何も言わないで離れて親友の振りをしたままでいるのと、どっちがいいのか、わからなくなるんです。」

「その気持ち、わかる。」

「このままじゃいけないって、分かってるのに。」

「雫く…」

小夜先輩がちらっと入り口の方に目をやって、気まずそうに俯く。

入ってきたのは、伊央と彼女らしき人と、数人の仲間たちだ。

伊央は背が高いし、とても目立つ。

そのまま気まずそうにうどんを啜る小夜先輩を見て苦笑いしてしまう。

「ああいうの慣れてますから。今さら気にしてもしょうがないです。」

「でも…」

先輩はもう一度入り口の方に目を向けると、逆毛を立たせた猫みたいに威嚇して睨み始めた。

「なんで睨んでるんですか?」

「いつもぼくのこと睨んでくるから。」

「伊央が?」

俺が視線を向けると、伊央はふいっとそっぽを向いて、離れた席に座ってしまった。隣りにいる彼女が、自分のものだと見せびらかすように腕を組んでいる。

「あれが今の彼女?毎回見るたび違うんだけど。」

「高校のときから、あんな感じです。」

「なんか皆んな…どことなく似てる。」

「似てる?誰に?」

「いや……雫くんの方がずっと美人なのになって。」

あの彼女が伊央の首元にと、目に焼きついて離れない鬱血痕が思い浮かび、先輩の最後の言葉は全く耳に入ってこなかった。

午後の講義が終わると、小夜先輩と待ち合わせをしてバイト先のカフェに向かう。今日は同じシフトだ。バイト先を紹介してくれたのも、小夜先輩だ。

「うわ、また…」

うーーと喉を鳴らして、向かいから歩いてくる伊央へと小夜先輩が威嚇を始める。

同じ大学ではあるものの、学部が違うので伊央とすれ違うことは少ないのに、今日はよく見かける。

昼に隣りにいた彼女はおらず、今は数人の友達に囲まれて、なんだか機嫌が悪そうだ。

目を合わせようとしても逸らされるので、そのまま何も言わずにすれ違うと、後ろから突然ぐいっと腕を引かれ思わずよろけそうになる。

「何?」

「いや、ごめん。今日は、早く帰る。」

小夜先輩も、伊央の友達も驚いているようだ。

一番驚いたのは、俺だけど。

「ああ、うん。わかった。俺はバイトがあるから、少し遅くなる。」

「そうか。じゃあ。」

驚いたままの友達をおいて、伊央はさっさと先に向かってしまった。その後ろを、慌てて友人たちが追いかけていく。

「何、今の?」

小夜先輩は威嚇し続けたままだ。

小さくて可愛いから、全然怖くないのに。

「何でしょうね。」

伊央に引かれた腕には、まだその感触が残っている。

思いの外力強くて、それだけのことで胸が高まる自分がほとほと嫌になってしまう。










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