なんでもない日々

ふき

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なんでもない日々

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「秋刀魚、5匹で600円だったから買ってきちゃった」

安くない?と掲げられたビニール袋から僅かに魚の生臭さが漂う。
今年は秋刀魚が安いのでそんなに安い!ってほどでもなかったが、ニコニコと褒めてと言わんばかりの顔で見つめられると何も言えなくなってしまった。

「……今日カレーのつもりだったんだけど…」

代わりに出たのは今日の献立だ。
世には具材を入れてセットしておくだけで料理が完成する便利アイテムがあるらしいが、そんなものは我が家になく鍋で作っている。
ぐるぐるとかき回していた鍋からはスパイスの香りが広がっている。

「え…カレーと秋刀魚の組み合わせはやばいかな」
「鯖カレーってものが存在するからいけるじゃないか…?でもカレーは明日でも平気だから、今日は買ってきてくれた秋刀魚焼こうか」
「篤志さん、ありがとう!」

後ろから回ってきた腕に抱き締められる。
料理している最中は抱きつくなと何度言っても覚えない。ニコニコとした顔と相まって、物覚えの悪い犬を相手にしているようだ。しかもかわいい大型犬。
ああ、かわいいと甘やかしてしまうから、こうやって物覚えの悪い犬になってしまう。分かっていてもやめられないのだ。

「料理中。抱きつかない」
「くぅん」
「可愛い子ぶらない」

肩にアゴを乗せて、犬の真似で鳴いている。陽大は背が大きくそこそこガタイもあるので他人から見たら多分かわいくは見えない。どちらかと言えばワイルドで男らしい顔立ちだ。それなのに俺の前では大型犬のように尻尾を振るのだ。
これが可愛いでなくて何が可愛い!と誰に言うでもなく脳内で開催された議会で討論する。可愛いが可決されました。

「…秋刀魚焼いておくからお風呂入ってきな」
「えー、一緒に入ろうよ」
「俺は先に入ったから」

涼しくなってきたとはいえ昼間でも働いていればそれなりに暑く、汗もかく。帰宅したら速攻風呂に入っていた。すんすんの項の匂いを嗅がれる。そんなに勢いよく嗅がなくてもよくない?40歳も近くなってきて体臭キツくなってきたのか?とか考えているとベロリと舐められる。

「うお…!」
「本当だ。汗の味しない」
「陽大!」
「ごめんってば!あー俺、風呂入るね」

秋刀魚を置いて、逃げるように脱衣所に入る姿を見つめる。
あの地から逃げ出してもう10年経つのかと、大きくなった背中に時の流れを感じた。


「俺と一緒に全部捨ててほしい」

まだ幼さがどこか残る子供と大人の狭間。
こちらを見つめる瞳には縋るような必死さと危うさ。
そんなこと言ってないで、ちゃんとした相手と付き合って結婚して家庭を持て。大人ならそう言うべきなのに俺はその手を取ってしまった。

「いいよ。どこに行こうか」
「へ」

ぽかんとした顔は、俺が受け入れるとは思っていなかったというのが感じ取れた。

「お前から言い出したんだろう」

冬の雪がしんしんと降り続く。冬の間はバスが運休になるほどの山奥。誰も来ない待合所のあるバス停は、閉鎖的なこの土地で唯一俺たちが気兼ねなく会える場所だ。
肩が触れる距離。熱が感じてしまう距離。もう30歳も目前だったのに、10代かと錯覚してしまうほど鼓動が高鳴る。
しんしんとした冬の雪は、俺の鼓動を隠してくれているだろうか。

「…そうだけど、もっと色々言われるかと思った」
「………本当は言うべきなんだろうけど…」

そう、言うべきだ。大人として、こんな不毛なことはもう終わりだと告げるべきだ。
逃げ出して、すぐにやっぱり違うと言われるかもしれない。衣食住が不安定になればその辛さは、お互いの関係にまで影響するかもしれない。
こんなおっさんよりいい人が現れてあっという間にいなくなってしまうかもしれない。

考えればキリがないほど不安材料なんて見つかる。
けれどそれはこの土地でも同じことだ。
冷えた指先をぎゅっと握りしめる。

「俺はお前と一緒にいたいと思うよ」

10も年下の男と一緒に恋の熱に浮かされて。
冬の雪が解けるのを待って、寒さが残る土地から逃げ出した。


「秋刀魚、焼かなきゃな」

うっかり物思いに耽ってしまった。狭い安アパートにはコンロなんてついてないからフライパンを取り出す。
袋を開けると秋刀魚の入ったパックがある。下処理済と書かれたそれを取り出し、秋刀魚を3匹フライパンへと並べて軽く塩を振り火をつけた。
うーん、秋刀魚だけで足りるか?
力仕事をしている陽大には足りないかもしれないなと冷蔵庫を開ける。

卵…これはいけるか。ウインナーは明日のお弁当用。あとは貰い物ののりの佃煮。買い物前の寂しい冷蔵庫には大したものが入っていない。
佃煮入れて卵を焼くか。日常の食卓で食べ合わせとかを考えてはいけない。

卵を数個、佃煮を取り出す。これは時間かからないから秋刀魚を2回目焼く頃でいいか。

煮ていたカレーの火を消し、広めの窓台に鍋を置く。冷めたら冷蔵庫に入れる。これで明日の夜は暖めるだけで良し。
そうしていると焼いていた秋刀魚からいい匂いしてくる。換気扇をつけて、キッチンの窓を少し開けた。
秋刀魚をひっくり返して、火を少し弱めた。

ふぅと一息付く。
シャワーを浴びている水音がキッチンにまで届いた。狭いアパートでは全ての音が聞こえてしまう。
あの土地で住んでいた家ではありえないことだった。
広いだけで誰とも繋がれないあの家。お互いに、それを知っている。
だからこそ、ここから引っ越しても問題ないぐらいには生活が安定したというのに、この狭いアパートに住み続けている。
何をするにも温度を感じれるこの場所は、バス停の待合所のようだった。

水音が止む。相変わらず早い風呂だ。ちゃんと洗っているのか心配になるほどだ。

バタバタと音がする。

「めっちゃ旨そうな匂い!やっぱ秋は秋刀魚だよな!」

学ばない大きな犬に後ろから抱き締められる。ポタポタと水が垂れて頭に当たる。

「分かったから、せめてちゃんと拭いてこい。…全くいつまで経っても子供みたいに」
「拭いて」
「今、料理中」
「む………………やっぱダメ?」

はぁ、ため息をついてコンロの火を消す。少し目を離しても平気だとは思うが…。ため息をついたが、こうして甘えられるとどうしようもなく心が跳ねる。あの時から、いやそのずっと前からかわいくて仕方ないのだ。
ぐるりと身体を反転して向き合う。上もちゃんと着ろと何度言っても「だって暑いんだもん」と風呂から上がった直後は半裸だ。
あの時よりずっと逞しく大きくなった身体。
抱き締められると感じる熱。油断すると触ってしまいたくなる。いや、ダメだ。せめて食後!
40歳も近くなるというのに尽きることのない情欲が沸いてくるのを頭を振って追い出す。全くいい年して恥ずかしい。

そんな気持ちを悟っているのか、いないのか。
早くと促すように頭を前に出される。
肩にかかっていた使い込まれたタオルで頭をわしわしと拭いた。

「これくらい自分でしろ」
「篤志さんにされるのが気持ちいいんだよ」
「…………そういうことばかり言う」
「事実だから。ずっとずっとこうしていられるのが幸せすぎる」
「……そうだな」

全てを置いてきた冬の土地。もう帰ることはないだろうけど。イヤなことのが多かったが、置いてきたものの全てが疎ましかったわけではなかった。
それでもあそこにいてはこの生活は手に入らなかった。
冬しか認められないあの待合所でしかお互いを知ることが出来なかった。

「俺も今が幸せだと思う」
「…だよね。全部捨てたんだもん」

するりと腰の手が服の中に侵入する。

「陽大」
「……流されてくれない?」
「流されない。せめて食後にしろ。秋刀魚痛むぞ」

冷蔵庫に入れておけば1日ぐらいは持つが素直に言わない。
もう10年以上一緒にいれば、少女のようなときめきと親子のような老成が混じり合う。欲を飲み込めるほど腹が減ったのだ。昼から食べてないし。
ぐぅ~とお互い腹が鳴った。

「「…っぷ」」
「……じゃあ飯食べたらね。手伝うことある?」
「料理苦手だろ。出来たら呼ぶから」

こう言わないとキッチンでちょろちょろされる。いくらかわいくても狭いキッチンでは結構鬱陶しいのだ。
服のなかでまさぐろうとしていた腕が離れる。

「髪、ちゃんと乾かしてきな」

タオルから手を離し、鼻の頭へと唇を落とす。
少し明るい栗色の瞳と視線が交わる。顔に赤みが残っていた。湯上がりだけが原因じゃないんだろうな。

「は~ズル。俺めっちゃ我慢してるのに」
「ふっ、俺も我慢してるからお揃いだな」
「…乗ってくれないじゃん」
「食べたらいいって言ってるだろう。おっさんでも腹は減るんだよ」
「篤志さんはまだまだ若いから!」

飛び出すように脱衣所に戻っていく姿を見る。
陽大は知らないだろうけどあの後ろ姿がどうしようもなく好きだった。
言うつもりのない言葉を飲み込んで、コンロの火をつけ直して残りの飯を作り始めた。



「うっま!」
「確かに。今年の秋刀魚は、脂も乗ってて身も多くて上手いな」
「去年あんまりだったもんね」
「その割には高かったしな」

そこから無言が続く。食事中はあまり話さない。
受けてきた教育もあるだろうが、意外とこの食事のする音しかしないというのは心地がよかった。
誰かと一緒に食事をしているというのにぽっかりと空いた寂しさしかない食事を覚えているから。

食事するスピードは陽大のが遅い。よく噛み食べる。俺は何度言われても早く食べるのをやめれなかったので、いつも先に食べ終わる。もぐもぐと黙って旨そうに食べるその姿を見つめる。
この空間が離れがたいほど愛おしかった。


「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」

とは言え今日は少しだけ食べるのが早かった。食器を片付け洗い始める後ろ姿。そわそわと手早く進めている様に笑いが溢れる。


あの土地から唯一持ってきたライターを取り出す。
着ていた服もなにもかも、徐々に捨てたというのにこれだけは何故か捨てられなかった。

開けた窓の窓台に座り、外を眺めながら煙草に火をつけた。
あの頃よりも随分吸う量が減った。いつ死んでもいいと思っていたのに、死にたくないと…なるべく置いていく期間は短くしてやりたいと思うようになった。まあ完全には止められないから、たまに吸ってしまうが…一箱で一年は持つのだ。これくらいは許して欲しい。

秋風が顔を撫でる。ここは冬になっても雪が降らない。埋め尽くすような雪も音が響かない空間もここにはないものだ。

「吸ってるの珍しいね」
「まあ……なんかな」

洗い物が終わったのか手を拭きながら窓に近づいてくる。

「秋はなんか感傷な気持ちになる」
「冬じゃないんだ」
「……冬が来る前なのに、ここは全然冬を感じないから」
「あそこはこの時期には寒くなりはじめてたもんね」
「俺はそれが嬉しかった」

あともう少しで冬なのだと。年甲斐もなく、少女のように指を数えて積もる雪を待つあの日々。

「俺も嬉しかった…けど」

上にある顔を見ればよく分からない表情をしている。

「でもなんで冬しかダメなんだろうってずっと思ってた。くだらないって。大人はみんな嫌いだった。くだらない因縁も無駄な諍いも…全部、全部捨てればいいのにそう思って……でもなにも出来なくて」
「俺は別に後悔してないよ」
「知ってる。俺もしてない。…ただ捨てがたいこの日々は夢で、実はまだあの寒い土地にいるんじゃないかって思うときがある」

くゆる煙が消えていく。捨てたというのに振り返ってしまう。それはきっとお互い様なのだろう。
腕を触り、軽く引っ張る。目線が合う。
ゆらゆらと子供のように揺れている。危うい決意に満ちていたあの日とは真逆だ。

ふーと煙を吹き掛ける。

「な、なに?」
「感覚あるだろ?ならここは夢じゃない。大体逃げてからの苦労を夢で済まされたらたまったもんじゃない」
「……その節はご迷惑を…」

大したものは持たずに出ていったのだ。それなりの苦労があった。俺だって年上というだけであの土地でずっと暮らしていて、お互い世間知らずだった。

「お互い様だろ。でも今はようやく落ち着いて…こうやって過ごせてる。それじゃ足りないか?」

二人とも飯の炊き方すらよく知らなかったところからここまで来たのだ。

「そんなわけない」
「じゃあいいだろう」

顔の形を確かめるように触れられる。一呼吸。

「…ごめん、俺のがセンチメンタルになっちゃった」
「誰だってそういうことあるだろ」
「…篤志さんと話しているとなんでも許される気がするね」
「ダメなところはケツ叩いているだろ」

主に料理中。あと金銭感覚。

「そうじゃなくてもっと根本的なところ。だから好きなんだろうな」
「……俺はママになったつもりはないが?」
「ママにはこんな気持ちにならないでしょ」

揺らいでた瞳には熱が籠っている。それが何を意味するのか分からないわけではなかった。

「いい?」
「……腹も満たされたからな。後は陽大だけだ」

鼻を軽く噛む。日本人の癖に妙に高い鼻。俺の鼻はキスしても当たらないのに陽大の鼻は当たるのだ。
少し憎らしくてかわいい鼻だ。

窓を閉めて、煙草を消す。
既に引かれた布団へと引っ張られ乱雑に押し倒された。

「も~本当に…!明日も仕事なのに無茶させちゃう」
「…まあそこは陽大くんの腕の見せ所だろ」

無理でしょ!という声。
薄い布団。六畳一間のこのアパートでは物もろくに増やせない。
それでもここが捨てられずにいる。
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