1 / 8
海へ帰った人魚の話
しおりを挟む
人魚。
かつては伝説の生き物であったそれらが展示物となったのは、確かどこぞの国の漁獲網にひっかかったことが始まりだった、と思う。少なくとも私が子供の時分には人魚は水族館の水槽にいて、美しい声で歌うショーをするくらいには人気の展示物だった。
つまりは、人魚も人間に飼育される生き物になった、ということ。伝説が日常の1部に侵食してきたってわけだ。それでも熱帯魚やクラゲのように家庭用の小さな水槽で飼えるような生き物ではない。彼らの扱いは海獣と同じだ。
人魚は人を海へ引きずり込む。その美しい声と、容姿で人を魅了する。だから人魚の世話をする飼育員にはダイバーのライセンスが必須だし、必要以上に人魚やその水槽に近づいてはいけない決まりがある。どれだけ人に近い生き物に見えたとしても、彼らと私たちは全く違う生き物なのだ。
ちょうど水面から顔を出した人魚に、私は笑みを浮かべた。
「こんにちは、サフィ」
うちの水槽には男の人魚が1人だけ。先月までは女の人魚がいたのだが、死んでしまったらしい。拒食症を発症していたのだそうだ。前の飼育員はそれを病んでやめてしまったとか。まあ、そのお陰で私は職にありつけたわけだけれど。前の職場でも人魚担当だったことが好印象だったらしい。人魚は今となってはイルカやペンギンといった生き物に次ぐ水族館の花形だが、その飼育にはかなり複雑なプロセスがあるのだ。ちなみに私の前の勤め先の水族館は経営難で潰れた。その水族館にいた人魚たちは別の水族館に移された。別れ際、行かないで、一緒のところへ来てよと泣かれてしまったが、こればかりはどうにもならないのだ。移動先はすでに人員が足りていたし、他に雇う予定もないとのこと。二度と会えないわけじゃないから、生きていたら会いましょうと言うだけで精一杯だった。
サフィは水槽生まれ水槽育ちの人魚で、海育ちの人魚たちに比べて人間とコミュニケーションが取りやすい。というのも、人魚は基本的にイルカのような鳴き声でコミュニケーションをとる。しかし、サフィのような水槽生まれの人魚は、生まれて直ぐに親から離され、小柄なうちは飼育員の手によって育てられるため、私たち飼育員の言葉を覚えるのだ。だからショーに出るのは専ら水槽育ち、海育ちの人魚は保護された人魚か、繁殖用として育てられていることが多い。最も水槽育ちでもある程度大きくなれば両親と同じ水槽に戻すので、海育ちの人魚ともコミュニケーションをとる事ができる。人間でいうなら、バイリンガルというやつ。
「……あなたは、誰?」
見知らぬ顔に警戒している。思っている以上に流暢に話すので驚いた。けれどもそれは押し隠し、私は微笑みを返した。
「初めまして、私はナオミ。貴方の新しい担当です。よろしくね」
「前の人はどうしたの?」
「彼は……彼なりの理由があって、退職したの」
「……そう」
まるで興味が無さそうだ。
彼にとっては食事を持ってくる人間が変わっただけのことなのだろう。それとも他に理由があるのか。私には分からない。
「食事の時間は変わらないわ。できるだけ、前の人と同じような食事を用意するつもり。他に要望は?」
「ショーは?」
「1人でもやりたいなら企画書を作るけど?」
サフィは眉間に皺を寄せた。
「嫌なら嫌とおっしゃい」
「……面倒くさいから、嫌だな」
「OK。しばらくお休みよ。ゆっくり休んで」
胡乱気な眼差しにウィンクして私は立ちあがった。
「定期的に来るけど、用がある時は水面を叩くわ。それから水槽の掃除をする時もね。貴方も用があればいつでも教えて」
とぷん。
返事代わりに水音残して、彼は住処へ戻っていった。
人魚は気難しい生き物である。なまじコミュニケーションが取れるだけ、その言葉の裏を探らなければならない。人間相手以上に気を使う。彼らは時折体調不良ですら、押し隠すのだから、困ったものだ。
まずは私に慣れてもらうべく、私はなるべく多くの時間をサフィと過ごすことにした。まだ正式に雇われたわけではないのだが、引き継ぎは早めに済ませて置いた方が良いに決まっている。人魚の飼育員とは、そういうものだ。
「こんにちは、サフィ」
「……勝手に置いていけばいいのに」
「貴方の健康管理も私の仕事なの」
「俺は病気じゃない」
「そうね、今のところは健康そうだわ。でもね、私はいつだって貴方のことを心配しているし、把握している必要があるの。食べる様子だとかね。それとも、体調不良を起こしたら私を呼んでくれるの?」
私が家にいる時はどうするつもり?なんて肩を竦めるとサフィは眉間に皺を寄せた。初めは私がいる時には食事──通常人魚は水草を食べるが、水族館ではキャベツやレタス、カボチャなどを与えている──を口にすることはなかったが、段々と慣れてきたのか食べるようになった。そして好き嫌いを言うようになった。彼はカボチャが好きではない。
水槽の掃除をする時が1番危ない。人魚の方がじゃれているつもりでも、人間側からすれば死の危機だ。不機嫌な時なら、沈められることだってある。ボンベを壊されたら、足を捕まれたら。私たちにはもうどうしようもないのだ。
私は彼の機嫌が比較的良い時を見計らってボンベを背負い、ゆっくりと着水した。
ごぼ、と息を吐き出し水槽をスポンジで擦る。前の水族館では若い人魚たちが私から掃除道具をとって勝手に手伝いをしたり遊べと構ってきたりしたが、サフィは大人しかった。歳と性格のせいだろう。
そうしているうちに、ジワジワとサフィは私のことを信用してくれるようになった。前の飼育員の話や、死んでしまった人魚のこと、家族のことを話すようになった。事前にサフィについては資料をもらっていたので知っていたことが大半だったが、私は黙ってそれらを聞いていた。
「ナオミ」
「ん?」
「明日もくる?」
「来るよ」
「……またね」
「おやすみ、サフィ」
「ショーは嫌い」
「どうして?」
「……俺は歌が上手くないから」
「そう。なら、歌いたくなったら教えて」
「ナオミはなんで俺に歌えって言わない?」
「やりたいひとがやればいいと思うから」
「……やりたがるひと、いるの」
「いたよ、前の水族館にはいっぱいね」
「前の」
「うん」
「ナオミ」
「なぁに」
「呼んだだけ」
「そう」
「うん、そう」
飼育員の仕事、というのは担当の生き物の世話の他、水槽の管理、ショー運営、それから園内ガイド。来場者への水槽の生き物の紹介も、私たちの仕事だ。
「皆さん、こんにちは。これから人魚、サフィのお話をします」
サフィの水槽はかなり大きい作りをしていて、上のフロアには軽い舞台と砂浜があるのが見える。私たちがいるフロアは水槽の下の方がよく見える構造で、底に城の模型や海藻がある作りをしているのがよく見えた。
ぱたぱたと子供たちが駆け寄ってくるのを見ながら、私は、口を開く。
「この水槽には、人魚が住んでいます。サフィ、という名前の男の子です。水族館で生まれた人魚は、私たちの話す言葉と、人魚の言葉、両方を話すことができます。サフィはとってもお喋りが上手なんですよ。今は……どこにいるのかな。ちょっと呼んでみましょう。気が向いたら来てくれるかもしれません」
私は水槽内のスピーカーと繋がっているマイクのスイッチを押した。
「せーの、と言ったら、サフィ~!と名前を読んでみましょうね。せーの!」
さふぃー、と子供たちの高い声が彼を呼ぶ。
サフィは素直に子供たちの声に応じて姿を表した。そして、高い声で挨拶をする。水中だから鳴き声だ。自在に尾びれと腕で水をかき分け、器用に息を吐き出し、水泡でリングを作る。
彼は比較的、サービス精神旺盛な人魚だ。初めてあった時はそうでもなさそうだったけれど、案外人間には興味があるらしい。閉館後に会いにいくと、あの人間は面白かった、驚かせてやった、と楽しそうに話をする。
子供たちが順番にサフィに話しかける。綺麗、カッコイイ、そんな言葉が彼に伝えられると、サフィは困ったように微笑んだ。
「にんぎょさんはどこで生まれたの~?」
女の子が私に問う。
私は膝を追って視線を合わせた。
「サフィは別の水族館で生まれて、ここへ来たんだよ」
「うみじゃないの!?」
「サフィは水族館生まれなの。別のところには、海で生まれて育った人魚もいるよ」
「じゃあ、このにんぎょさんは海をしらないの?」
「そうだね。サフィは海のことをあんまり知らないかも」
「かわいそう」
だん、と硬い音がした。水槽とヒレがぶつかった音だ。
振り返るとサフィが物陰に隠れてしまっていた。長い青いヒレだけが、ゆらゆらと水に揺れている。
「にんぎょさんかくれんぼー?」
傍から見ればそうかも知れない。けれども私は、それが彼の不機嫌のアピールであることを知っている。
ここで威嚇でもされたらたまったものではない。私はすぐにマイクのスイッチを切った。
これ以上彼の機嫌を損ねても仕方ない。後で少し話をしないと。
閉館後、館内の清掃とスタッフミーティングを終え、私はサフィの水槽へ向かった。
場所は昼間、園内ガイドをした場所。サフィの水槽の前。マイクのスイッチをいれる。
「サフィ。私と話をしよう」
サフィは水槽の真ん中辺りで中途半端に浮いている。知らない人が見たら死んでいるのと勘違いするかもしれない。
「サフィ」
コンコン、と水槽をノックするとこちらに目を向ける。
どこか虚ろな目がゆっくりと瞬きして、逸らされた。
様子がおかしい。
「話をしよう。私は、貴方が快適に過ごせる環境を作りたいの」
緩慢な動作でサフィが私に近寄る。そして上を指さす。
陸で話をしたいらしい。
不機嫌な人魚と顔を見合わせて、まして1人で話すのは危険だ。水に引きずり込まれでもしたら、この深さでは助からない。水中の人魚の力を舐めてはいけない。まして、サフィはもう立派な大人なのだから。
……私は足早にフロアを移動した。
珍しく、彼は砂の上に体を半分投げ出して、尾びれをユラユラさせながら待っている。
「こんにちは、サフィ」
「うん……」
ぼう、と天井を眺める姿ですら絵画のようだ。人魚は総じて美しい。金糸のような髪も、青い宝石みたいな瞳も。すらりとした肢体、光を弾く鱗のついた尾びれ。まだサフィが若い人魚であるからだろうか、張りのあるその体はまるで彫刻のようだった。彼が手を伸ばしても届かない距離、水辺から離れた砂の上に私は腰を下ろした。
「……ナオミ」
「なぁに」
「俺はかわいそう?」
「……」
零された言葉に私は口を噤んだ。
「俺はかわいそう?」
「……サフィは、どう思うの?」
「……わからない」
サフィは白い手で顔を覆った。
「俺……かわいそう、なんて考えたことなかった」
「うん」
「……海のことを知らない人魚は、かわいそう?」
「……私は」
どう答えるべきか迷った。
人魚は本来、こんな狭い水槽ではなく、あの大海原で生きるものである。海ではサメに襲われることも、同族争いもあるだろう。食事に困ることだってあるかも知れない。水族館にいれば、そんなことはない。完全な自由はなくとも、ここには安全がある。どこにいることを幸せとするか。それは本当に、個人の価値観でしかない。まして、サフィは人魚だ。自分の意思を語る声を持っている彼に、私の持つ人魚の幸福観を話すことは気が咎めた。
「……私は、サフィの幸せを決められない。でも、私にとっては人魚と関わる仕事をすることが幸せ、だから」
しあわせ、とオウム返しに呟いてサフィは寝返りをうった。砂に肘をつけて、組んだ手の上に顎を載せた。
「ナオミは幸せ?」
「幸せだよ、サフィと居られるからね」
砂を掬って落とす。
「ナオミは、うれしい?」
「サフィといられると?うん、嬉しいよ」
「じゃあ」
サフィは薄い唇の端を釣り上げる。
「俺もうれしい」
「……そう」
どれだけ人に近いように見えても。
私たちは同じ生き物では、ない。
「ナオミ、俺、歌の練習がしたい」
「え?」
掃除をしているとサフィが急にそんなことを言った。
「うまくなったら、ナオミは嬉しい?」
「まあ……そりゃあ、嬉しいけど。無理をしてない?どうして、急に」
「えーと……なんとなく?気が変わった、ってやつだよ」
何だか目が泳いでいるような気がした。首を這うエラがぴこぴこ動いている。じ、と見つめるたサフィはきまり悪げに視線を逸らして、だめ?と首を傾けた。私はため息を返す。
「ダメってことはないわ。わかった、できる限りサポートする」
やりたいなら、やらせてやるべきだ。それがどんな結果になるとしても。
翌日、私は水槽にギターを持ち込んだ。アコースティックギター。弦楽器は人魚と相性がいいし、何より話しながら訓練ができるので便利だ。人魚の調教にはよく使われる。多いのはギター、ピアノ辺りだろうか。この辺りは調教する側の音楽経験がものを言う。私の場合は完全に趣味のギターだが、仕事の役に立つならなんの問題もない。
「よいせっ……と」
椅子を持ち込んで砂浜に置く。水辺から離れたところへ。サフィは浜辺に腰掛けるように座り、尾びれを水に遊ばせる。私は弦を弾いて調律した。前の水族館でも同じようなことをしていたのを思い出す。随分昔の事のように思えて、懐かしい。それが、少し悲しい。
「それじゃあサフィ、歌ってみて」
「……わかった」
サフィが息を吸う。そしてその綺麗な声がとんでもなく音を外していくのに頭を抱えた。思っている以上に酷い。これは……ショーを企画しなくて正解だった。これまでどうしてたのかと聞いたら前は別の人魚がいたから参加していなかったのだとけろりとしている。が、わずかに顔が赤いのは恥ずかしさゆえだろうか。
「基礎からやらないとダメね……」
「……はぁい」
「まずは音を合わせるところから始めましょう」
弦を弾く。
「アー、でいいから声を出して合わせて」
ポロン。
「アー……」
何度もそれを繰り返す。繰り返し、繰り返し。次に音を続けて、覚えさせる。2音から3音……。音を外す度に最初から、もう一度。
「!」
「お」
「ナオミ!俺、今!」
「うん、歌えた」
1曲にも満たない、ワンフレーズ。それでも大きな成長だ。
「やったあ!」
閉館、掃除終わりの1時間。それが私たちの新しい習慣になった。
飼育員は、人魚の水槽に近寄りたがらない。当然といえば、当然だった。知識があるものは人魚を恐れる。いくら友好的に見えようと、彼らは人魚。水の中で人間は無防備な赤子同然なのだから。
水槽の上部、陸地のエリアを掃除する。この当たりは来館者には見えにくいとはいえ、汚れていては醜いし、何よりサフィが嫌がる。
サフィが歌っている。それを聴きながら手を動かした。前よりずっと上達した。ところどころ音を外すのはご愛嬌だ。
どこの歌なのだろう。何の歌なんだろう。聞いた事がない言葉や旋律だな、なんて考えていたせいかも知れない。足が、段差を踏み外した。体が投げ出される、重力を一瞬、忘れたような感覚。
「……!」
どぷ、と音がした。
耳元で水泡が弾ける音がする。
足がつかない。
息が出来ない。
落ちる、落ちる。
サフィの水槽の深さの数字が頭を過ぎる。
何メートルだっけ。確か──
もがいても水が、服が、体にまとわりついて動かない。
救命胴衣の紐を引く。途中でぶつりと切れた。
……は?
整備不良!?嘘でしょう!?よりによって今……!
慌ててはいけない。息を吐き出してもいけない。早く浮上しなくては。
思っている以上に深く、暗い。閉館して照明が落ちているせいもあるのだろう。
水槽の中に酸素をいれる装置の出す飛沫に流されて上下感覚が消えた。指先が水をかいてもどこへもいけない。
こういう場合、明かりを頼りに方向感覚を掴むのだが、その明かりがないため、パニックに拍車がかかる。
潜っているのか、浮上しているのか。
気持ちだけが空回りして、冷静でいようとする頭が燃えるように熱い。
脇の下に、腕が差し込まれた。何もしていないのに体がどこかへ向かっていく。顔が水面を突き破る。
「ゲホッ!……ひゅ、……はぁ……っ!」
砂浜に上半身を預け、這うようにして水辺から距離を摂る。肺に入った水を吐き出すために喉に口を突っ込み、水と一緒に胃液を吐き出した。
その間何か冷たいものが背中を撫でていて、呼吸を落ち着けた頃に、それがサフィの手だったことを知った。水かきのついた手が、私の頬を撫でる。
「ナオミ、大丈夫?」
不安げな瞳が揺れている。
「だい、じょうぶ……だよ。ありがとう、サフィ」
私はサフィの手から逃げるように後ろへ下がる。
人魚とはいえ、魚の仲間だ。水に落ちて濡れても、人間の平熱はは36度近くあるのだから、水温よりずっと熱い。火傷をして手が爛れたら可哀想。
「……ナオミ、」
「ごめん、掃除、続けるから。サフィは遊んでていいよ」
ブラシとバケツを握り直して、私は水辺から離れる。
人魚の歌が、人を惑わせることを失念していた。
忘れてはいけない。
どれだけ言葉を重ね、信頼関係を築こうと、人魚は人魚。
私を助けてくれたのはサフィだ。
けれども、私を水へ導いたのもサフィなのだ。
いつもなら絶対、あんな、水槽に落ちるなんて真似はしなかった。理由はシンプル。疲労による注意散漫。
何故か?答えもまたシンプルだ。人魚の担当が私しかいないから。人魚は水族館としては良い展示物だが、世話をするには大きな危険が伴う。シャチやイルカの比ではない。かといって、私が休みを取れば誰がサフィの世話をするのか?誰もやりたがらないだろう。誰も彼も、自分の担当でいっぱいいっぱいなのだから。残業なんて当たり前、それでも複数人でルーティンが組めるだけまだマシだろうが。
バックヤードで遅めの昼食を食べていると、さりげなく同僚が横に座った。
「ナオミ、水槽に落ちたって?大丈夫なのか?」
「ああ……ケイ。大丈夫よ。どこも打ってないし、サフィが助けてくれたしね」
「サフィが?へぇ……運が良かったな」
「かもね。それで?なんの用かしら」
「つれないね、ナオミ。人魚担当の話を聞いてみたいだけだよ」
ケイはシャチの担当者だ。よくショーをやっている。彼らは比較的温厚だが、機嫌が悪い時はとんでもなく危険だから、尊敬する。まあ、どの担当であれ尊敬するポイントは多々ある。私たちは、命を預かり育て、守ることが仕事だ。
「人魚ね……サフィについてなら、あなたの方が詳しそうだけど」
「まぁね、君より長い付き合いだ」
ケイは私より少し年上の飼育員で、前の担当が不在の間、彼はサフィの世話もしていたと聞く。最も、サフィには嫌われていて、本当に最低限の関わりしか持たなかったらしい。
「海を知らない人魚。どう思う?」
「またその話?する価値もないわ」
近頃新聞やワイドショーを賑わせるその話題は、サフィを困惑させたものでもある。そして、来館者に何度も何度も聞かれた問だ。険しい顔をするとケイは軽やかに笑う。
「飼育員としてではなく、ナオミとしての意見が聞きたいなって」
「はぁ……あのね。他の魚と同じよ。私たちと同じ言葉を話すから、メディアが過剰反応してるだけ。半分とはいえ、人と同じような作りをしている所もあるしね。海を知らない人魚がいるから、なに?じゃああの子たちを海へ戻す?サメから逃げる方法も知らないわ、水草の取り方も。可哀想だと言うんなら、最初から展示物にしてはいけないの。動物園も水族館も、作っちゃいけなかった、そういう話になるじゃない?イルカは?サメは?くらげは?あの子たちだって海を知らないのに、あの子たちには可哀想って言わないのよ。おかしな話だわ。鯨は食べていいのに、イルカは食べちゃだめだって言う人たちみたい」
まくし立てると、ケイは怯んで愛想笑いを浮かべた。そんな顔をするくらいなら、話しかけないでほしい。まるで私が悪いことをしたみたいじゃないか。
「おっと……思いのほか、君は、なんだ……熱情を持ってるんだね」
「普通よ。見せる必要が無いから見せないだけ。話は終わりかしら」
返事も待たず、私は食べかけのサンドイッチをカバンにしまってバックヤードを出た。気分が悪いことこの上ない。
「ナオミ、怒ってる?」
「怒ってないわ、サフィには」
「俺じゃない誰かに怒ってるんだ。当ててあげようか」
鋭い子だ。にやっと笑ってサフィは砂浜に肘をつけた。
「ケイでしょう?」
「……どうして分かったの?」
「匂いがしたから。変な匂いがするんだ、あいつ」
そういえば、ケイは喫煙者だった。……ああ、だからサフィはケイを嫌がったのか。
人魚の鼻は鋭いらしい。それでも、サメほどではないのだろうが。
……この子は、外に出て、生きていけるのだろうか。
海を知らない人魚。
鳥籠の、鳥。
「サフィ、」
海に行きたい?
そう言いかけて私は慌てて口を閉じた。Noと言われればまだいい。
でも、もし。
もしも、Yesと言われたら?私は彼に何をしてやれる?何も出来ないくせに、こんなことを言うべきではない。
「ナオミ?」
「……なんでも、ないわ。今日はどんな1日だったの、サフィ」
「今日?いつもと変わんないよ」
尾びれで水を弾いて、サフィは言う。
「毎日同じ日の繰り返しだもの」
退屈で死にそう。
そしてサフィはへらりと笑った。
「でも俺はしあわせだよ、ここにいる限りは、死なずにすむもの。死なないことはしあわせだって、前に海の人魚が言ってた」
ライトの光を人工の海水の雫が弾く。
「でも、もし、叶うならさ。1度でいいから、海に行きたい」
人工物の中で息をする自然が、彼が、美しかった。
本当の空も、海も、光も。何も知らない彼が何よりも綺麗だった。
「……どういうことですか?」
その日、私はスタッフミーティングで館長から放たれた言葉に心臓が飛び出るかと思った。
「新しい人魚を買うことになったんだよ。君にはその担当についてもらう。貴重な人魚担当経験者を手放すのは惜しいし、何より人魚のショーは人気だしね。人魚調教の経験は?」
「あります、前の職場ではショーの運営をしていました。でもそれとサフィを施設に送ることになんの関係があるんですか?サフィを残して、新しい人魚も飼う。それじゃあダメなんですか?」
頭が痛い。耳鳴りがする。潮騒に似た、耳鳴り。
「サフィはそりゃあ、確かに綺麗な人魚だけどね。君も知ってるだろう、サフィは歌が下手だ。我々も慈善事業じゃないんだから、コストパフォーマンスのことを考えなくては」
「サフィは歌の練習をしてます、彼は確実に上達してます!あと少し時間をください、ショーを企画して、定期的に行えるくらいにはなります!」
館長は私に紙束を押し付けた。
「来館者アンケートだ」
震える手でそれをめくる。
「今すぐ、が望まれているんだ。サフィではそれに応えられない」
歌えない人魚に、価値はない。価値のない展示物を養う余裕はない。
「……っ」
何も間違ってない。館長は正しい。間違ってるのは私の方だ。
分かってる、分かっているけれど。
納得なんて、出来なかった。
ぽん、と肩に手が乗る。
「君はよくやってくれている。でもね、どうにもならないことはあるんだよ」
ぎり、と歯噛みすることしか出来ない。私は一飼育員で、相手は館長で。決定権は館長にあり、私にあるのは意見を述べる権利だけ。それですら、一蹴されてしまえばそれまでなのだ。
「2週間後、引取りに来てもらうことになる。別れには十分過ぎる期間だ。新しく来る人魚たちはパフォーマンス慣れしている。君にショー運営を一任するから、企画書を出すように」
彼を引き取ることもできない。イルカやシャチを自宅で飼えないように。来館者アンケートを握り込み、私は絞り出した声で分かりました、と首を縦に振った。
「あの気難しい人魚ですら手懐けたんだ、期待しているよ。こちらへ人魚たちが来る前に顔合わせをして、すぐにでもショーが行えるようにしておいてくれ」
どんな顔でサフィに会えばいいのか分からなかった。
とにかく青い顔をしていたのだと思う。サフィに近寄りたがらない同僚たちが、食事を渡すくらいならできるから、と代わりを申し出るくらいには。
「大丈夫よ、ありがとう……ありがとう。でも本当に、大丈夫だから」
「ナオミ、でも」
「……お願い、今は放っておいて」
心配げな同僚たちにも仕事はある。ちらりと私を気にしながらバックヤードを出る彼らを見送り、一人きりになったところで私は思い切り壁を叩いて崩れ落ちた。
「……クソッ……クソッ……!」
喉が焼けるように熱くて、鼻がつんとした。
涙は流れてこなかった。
壁に当たり散らして気持ちを落ち着けて、私は仕事をした。いつも通りだったと思う。
閉館後、掃除のあとの歌の練習のためのギターを持っていかなかったことだけを除いて。
「ナオミ!」
水から顔を出して、弾ける笑顔のサフィを見ることが辛かった。
「昨日練習したんだ、聞い……ナオミ?」
「……」
何か言わなくちゃ。それなのに言葉になる前に溶けてしまう。
サフィ、あのね。それだけなんとか絞り出したとき、頬を熱いものが落ちた。
「うう……うう……!」
泣くな。泣く権利なんか、私にはない。
ごめんね、サフィ。
それだけで彼は全てを察したらしかった。
「……俺、いらない子になっちゃったんだね」
「ごめん……ごめん……!私がもっと、早く……」
「ナオミのせいじゃないよ。……あのね、俺、知ってたよ。前に館長が話してるの、聞いちゃったんだ」
「え」
顔をあげるとサフィが眉を八の字にへらりと笑った。
「俺ね、ナオミがすきだよ。ナオミと一緒にいたかったから、歌を頑張ろうと思ったんだけど……遅かった。ごめん」
心臓がぎゅっと掴まれたような感覚だった。
「ごめんね……」
散々、良いように使って。見世物にして。勝手に価値を決めつけて。そうして、最後は。
「行ったら最後……俺、出られないよね」
サフィは水族館から捨てられるのだ。本来ならば年老いたり病気になったりした人魚が送られ、余生を過ごす施設へ送られる。まだ若く健康な人魚、サフィ。歌がダメだった、そんな理由で。施設へは出向いたことがある。穏やかに暮らすことはできるだろう。無碍には扱われないだろう。けれども彼はまだ長いその生の中で、どれだけの同族の死を見続けることになるのか。想像するだけで苦しくて、涙が止まらなかった。
「ナオミ、泣かないで」
水かきのついた指が涙を拭う。人魚とて魚の仲間、人間の平熱は灼熱に等しい。火傷をして、痛いだろうにサフィは私の頬を両手で包んだ。
「新しい子達と、仲良くしてあげて」
考える時間は十分にあった。馬鹿なことを考えている自覚もあった。
それでも、私はこれが正しいと思った。
思ったから、やるのだ。
それが私の経歴に傷をつけるのだとしても。
「サフィ、起きて」
引取りの前日。私は1人、水族館で泊まり込みの残業をしていた。館長も若干の負い目があったのだろう、宿泊の許可はあっさり降りた。そして、全員が帰宅したのを確認して私はサフィの水槽へ来たのだ。移動用のカートと水槽を持って、マリンスーツで。
「サフィ!」
水面を叩いても、ぐっすり寝入っているサフィの反応はない。直接起こすしかない。私はボンベと頭につけたライトが光るのを確認して、水槽に飛び込んだ。水泡がぱちぱちと体の周りで弾けていく。
ゆっくりと降下して、サフィを探す。
岩場のところで丸くなっているサフィを見つけ、私は頬をぺちぺちと叩く。
きゅう、と高い鳴き声がして、ぱちりとサフィが目を開けた。驚いている様子の彼に上を指さし、浮上する。
「ぷはっ」
「ナオミ?何してるの?」
「選んで、サフィ。これが最初で最後のチャンスよ」
「チャンス……?」
寝起きで戸惑うサフィには悪いと思うが、本当にこのタイミングしかないのだ。二者択一、時間制限つき。クーリングオフはできない。
「今すぐ私と一緒に海に行くか、それとも明日施設に行くか」
「……は?え?急すぎない?え、あ」
「海で長生きできるとは限らないわ。もしかしたらサメに襲われて死ぬかも。でも、施設でいくつもの同族の死体を数えるのと、どっちがいい?」
「でも、俺を海にやったらナオミが、」
「私のことはいい!サフィはどうしたいの」
「……ほんとうに、いいの?」
サフィの震える手が、移動用の水槽の縁を掴む。
「俺……施設に行きたくない……!」
綺麗な顔が泣きそうに歪んでいた。
私はサフィの尾びれを掴んで移動用の水槽へ押し込む。そしてカートをガラガラ押して、水族館の裏、移送用の車のトランクにサフィの入った水槽を移す。カートは畳んで横へ。
「ごめん、少し揺れるけど……海はすぐだから」
「うん」
マリンスーツの上に飼育員のジャケットを羽織って運転席に乗り込み、エンジンをふかす。そして、アクセルを踏み込んだ。
時間帯もあって車も人も少なかった。海辺まで、あと少し。
車を走らせること2時間。海が見えた。駐車場に車を適当につけて、トランクを開ける。
水が半分くらいに減っていた。
「すごく揺れた」
「ごめん」
カートを組み立てて、水槽を載せようとして、その余りの重さに絶句した。どうしよう。これをカートに載せるのはかなりきついのでは……?と思って硬直したら、サフィが水槽から身を乗り出してカートに飛び乗った。
「サフィ?」
「ちょっとくらい乾いても平気。それに、海……近いんでしょ?」
「……うん。近いよ。もう目の前」
私は上着を水槽に突っ込み、それで尾びれを包んだ。
がらがらと、車輪の擦れる音がする。それと同じように、さざなみの音も。
「……海?」
「そう、海」
「……すごい。壁がないや」
当たり前のことではある。でもそれを知らないのは当然だった。日が登り初めていた。白く光る太陽が、黒々とした海を照らしてキラキラと反射した。
浅瀬では尾びれがひっかかるだろうから、それなりの深さのところまでサフィを届けなければ。
カートは途中で無くした。サフィをちょうど横抱きするように抱えて、私は海を歩く。
時折来る高波に溺れかけてかなりの海水を飲んだ。
もう少し……あと少し。遊泳ロープを超えた。
あと、少し。
「あっ」
足が岩場を踏み外した。
潮の流れが強い。サフィが腕から消えていく。ああ、まだちゃんとしたお別れも言ってないのに。
「さ、ふぃ……!」
ごぼ、と吐いた息は言葉にならない。
最後に私が見たのは、目を爛々と輝かせ歓喜を叫ぶ、自由を手に入れた人魚の姿だった。
ああ、サフィ。さようなら。
どうか、幸せに。
目が覚めるとそこは病院のベッドだった。
医者の話では、私は海のど真ん中でプカプカ浮いていたところ、たまたま通りかかった漁師たちに助けられたらしい。。普通ならそれはもう水死体ではなかろうか、と思うが、私を助けてくれた漁師の話では近くに大きな魚の影があったそうだ。イルカかも知れねぇな、と言う漁師たちの言葉に私は首を振る。
サフィだ、間違いない。
だって、と私は手のひらを見る。青い鱗が1枚、手のひらに乗っている。
……サフィのものだと、確信があった。私が彼の痕跡を見間違うはずが無い。鱗は加工して、ネックレスにした。
サフィを海へ逃がしたことに対しかなりのお叱りを受けはしたが解雇はされなかった。人魚を担当できる飼育員をまた探すことが面倒だったのだろう。そして恐らく、サフィの処遇について負い目があったのだろう。私のしでかしたことは内々で処理され、私はわずかばかりの減給をもって職場に復帰した。同僚たちは私を気遣う素振りを見せていたが、内心はどう思っているのかよく分からない。
新しく来た人魚たちはそれはもうやんちゃだった。人間で例えるなら12、3歳。男と女の2人で、しょっちゅう喧嘩をしている。
男の方は赤っぽく、女の方は黄色っぽい人魚だ。
よくカボチャを取り合って喧嘩をしている。けれどもショーになると息ぴったりで、やはり人魚のというのは華があるなぁ、と思わずには居られない。
サフィはカボチャが好きじゃなかったな、なんて思いながら次の彼らの食事を用意していると、館長が私を呼んだ。
保護人魚、だそうだ。怪我をしているところを保護されたらしい。完治するまで預かりたいそうで、彼らの水槽にいれても大丈夫か?という確認だった。
「広さ的には問題ありません、が」
海育ちの人魚と果たして仲良くなれるかどうかはまた別問題である。人魚はその生態的にもまだまだナゾが多い。縄張り意識ひとつでも、個体差が大きいのだ。
しばらくは残業だな……と思いつつ、浜辺に置いた移動用の水槽から顔を出す保護人魚と話をしてみることにする。まあ、ろくに通じることはないのだが。保護人魚が、私の首に下げたネックレスを注視した。鱗……同族のものだと、わかるのだろうか。
ぴょこ、と水面から顔を出す人魚たちに、新入りだよ、と教えてやると明らかに嬉しそうな顔をする。
ピィ、と保護人魚が鳴いた。
それに応じるように、うちの人魚たちが鳴く。
なんだ?と、思って首を傾けると、女の人魚が言う。
「ナオミ、サフィってだあれ?」
「この人魚さん、サフィの鱗って言ってるよ」
サフィの、鱗。
……この人魚は、サフィを知っている。
それは、つまり──。
私は今夜、祝杯をあげることを決めた。
かつては伝説の生き物であったそれらが展示物となったのは、確かどこぞの国の漁獲網にひっかかったことが始まりだった、と思う。少なくとも私が子供の時分には人魚は水族館の水槽にいて、美しい声で歌うショーをするくらいには人気の展示物だった。
つまりは、人魚も人間に飼育される生き物になった、ということ。伝説が日常の1部に侵食してきたってわけだ。それでも熱帯魚やクラゲのように家庭用の小さな水槽で飼えるような生き物ではない。彼らの扱いは海獣と同じだ。
人魚は人を海へ引きずり込む。その美しい声と、容姿で人を魅了する。だから人魚の世話をする飼育員にはダイバーのライセンスが必須だし、必要以上に人魚やその水槽に近づいてはいけない決まりがある。どれだけ人に近い生き物に見えたとしても、彼らと私たちは全く違う生き物なのだ。
ちょうど水面から顔を出した人魚に、私は笑みを浮かべた。
「こんにちは、サフィ」
うちの水槽には男の人魚が1人だけ。先月までは女の人魚がいたのだが、死んでしまったらしい。拒食症を発症していたのだそうだ。前の飼育員はそれを病んでやめてしまったとか。まあ、そのお陰で私は職にありつけたわけだけれど。前の職場でも人魚担当だったことが好印象だったらしい。人魚は今となってはイルカやペンギンといった生き物に次ぐ水族館の花形だが、その飼育にはかなり複雑なプロセスがあるのだ。ちなみに私の前の勤め先の水族館は経営難で潰れた。その水族館にいた人魚たちは別の水族館に移された。別れ際、行かないで、一緒のところへ来てよと泣かれてしまったが、こればかりはどうにもならないのだ。移動先はすでに人員が足りていたし、他に雇う予定もないとのこと。二度と会えないわけじゃないから、生きていたら会いましょうと言うだけで精一杯だった。
サフィは水槽生まれ水槽育ちの人魚で、海育ちの人魚たちに比べて人間とコミュニケーションが取りやすい。というのも、人魚は基本的にイルカのような鳴き声でコミュニケーションをとる。しかし、サフィのような水槽生まれの人魚は、生まれて直ぐに親から離され、小柄なうちは飼育員の手によって育てられるため、私たち飼育員の言葉を覚えるのだ。だからショーに出るのは専ら水槽育ち、海育ちの人魚は保護された人魚か、繁殖用として育てられていることが多い。最も水槽育ちでもある程度大きくなれば両親と同じ水槽に戻すので、海育ちの人魚ともコミュニケーションをとる事ができる。人間でいうなら、バイリンガルというやつ。
「……あなたは、誰?」
見知らぬ顔に警戒している。思っている以上に流暢に話すので驚いた。けれどもそれは押し隠し、私は微笑みを返した。
「初めまして、私はナオミ。貴方の新しい担当です。よろしくね」
「前の人はどうしたの?」
「彼は……彼なりの理由があって、退職したの」
「……そう」
まるで興味が無さそうだ。
彼にとっては食事を持ってくる人間が変わっただけのことなのだろう。それとも他に理由があるのか。私には分からない。
「食事の時間は変わらないわ。できるだけ、前の人と同じような食事を用意するつもり。他に要望は?」
「ショーは?」
「1人でもやりたいなら企画書を作るけど?」
サフィは眉間に皺を寄せた。
「嫌なら嫌とおっしゃい」
「……面倒くさいから、嫌だな」
「OK。しばらくお休みよ。ゆっくり休んで」
胡乱気な眼差しにウィンクして私は立ちあがった。
「定期的に来るけど、用がある時は水面を叩くわ。それから水槽の掃除をする時もね。貴方も用があればいつでも教えて」
とぷん。
返事代わりに水音残して、彼は住処へ戻っていった。
人魚は気難しい生き物である。なまじコミュニケーションが取れるだけ、その言葉の裏を探らなければならない。人間相手以上に気を使う。彼らは時折体調不良ですら、押し隠すのだから、困ったものだ。
まずは私に慣れてもらうべく、私はなるべく多くの時間をサフィと過ごすことにした。まだ正式に雇われたわけではないのだが、引き継ぎは早めに済ませて置いた方が良いに決まっている。人魚の飼育員とは、そういうものだ。
「こんにちは、サフィ」
「……勝手に置いていけばいいのに」
「貴方の健康管理も私の仕事なの」
「俺は病気じゃない」
「そうね、今のところは健康そうだわ。でもね、私はいつだって貴方のことを心配しているし、把握している必要があるの。食べる様子だとかね。それとも、体調不良を起こしたら私を呼んでくれるの?」
私が家にいる時はどうするつもり?なんて肩を竦めるとサフィは眉間に皺を寄せた。初めは私がいる時には食事──通常人魚は水草を食べるが、水族館ではキャベツやレタス、カボチャなどを与えている──を口にすることはなかったが、段々と慣れてきたのか食べるようになった。そして好き嫌いを言うようになった。彼はカボチャが好きではない。
水槽の掃除をする時が1番危ない。人魚の方がじゃれているつもりでも、人間側からすれば死の危機だ。不機嫌な時なら、沈められることだってある。ボンベを壊されたら、足を捕まれたら。私たちにはもうどうしようもないのだ。
私は彼の機嫌が比較的良い時を見計らってボンベを背負い、ゆっくりと着水した。
ごぼ、と息を吐き出し水槽をスポンジで擦る。前の水族館では若い人魚たちが私から掃除道具をとって勝手に手伝いをしたり遊べと構ってきたりしたが、サフィは大人しかった。歳と性格のせいだろう。
そうしているうちに、ジワジワとサフィは私のことを信用してくれるようになった。前の飼育員の話や、死んでしまった人魚のこと、家族のことを話すようになった。事前にサフィについては資料をもらっていたので知っていたことが大半だったが、私は黙ってそれらを聞いていた。
「ナオミ」
「ん?」
「明日もくる?」
「来るよ」
「……またね」
「おやすみ、サフィ」
「ショーは嫌い」
「どうして?」
「……俺は歌が上手くないから」
「そう。なら、歌いたくなったら教えて」
「ナオミはなんで俺に歌えって言わない?」
「やりたいひとがやればいいと思うから」
「……やりたがるひと、いるの」
「いたよ、前の水族館にはいっぱいね」
「前の」
「うん」
「ナオミ」
「なぁに」
「呼んだだけ」
「そう」
「うん、そう」
飼育員の仕事、というのは担当の生き物の世話の他、水槽の管理、ショー運営、それから園内ガイド。来場者への水槽の生き物の紹介も、私たちの仕事だ。
「皆さん、こんにちは。これから人魚、サフィのお話をします」
サフィの水槽はかなり大きい作りをしていて、上のフロアには軽い舞台と砂浜があるのが見える。私たちがいるフロアは水槽の下の方がよく見える構造で、底に城の模型や海藻がある作りをしているのがよく見えた。
ぱたぱたと子供たちが駆け寄ってくるのを見ながら、私は、口を開く。
「この水槽には、人魚が住んでいます。サフィ、という名前の男の子です。水族館で生まれた人魚は、私たちの話す言葉と、人魚の言葉、両方を話すことができます。サフィはとってもお喋りが上手なんですよ。今は……どこにいるのかな。ちょっと呼んでみましょう。気が向いたら来てくれるかもしれません」
私は水槽内のスピーカーと繋がっているマイクのスイッチを押した。
「せーの、と言ったら、サフィ~!と名前を読んでみましょうね。せーの!」
さふぃー、と子供たちの高い声が彼を呼ぶ。
サフィは素直に子供たちの声に応じて姿を表した。そして、高い声で挨拶をする。水中だから鳴き声だ。自在に尾びれと腕で水をかき分け、器用に息を吐き出し、水泡でリングを作る。
彼は比較的、サービス精神旺盛な人魚だ。初めてあった時はそうでもなさそうだったけれど、案外人間には興味があるらしい。閉館後に会いにいくと、あの人間は面白かった、驚かせてやった、と楽しそうに話をする。
子供たちが順番にサフィに話しかける。綺麗、カッコイイ、そんな言葉が彼に伝えられると、サフィは困ったように微笑んだ。
「にんぎょさんはどこで生まれたの~?」
女の子が私に問う。
私は膝を追って視線を合わせた。
「サフィは別の水族館で生まれて、ここへ来たんだよ」
「うみじゃないの!?」
「サフィは水族館生まれなの。別のところには、海で生まれて育った人魚もいるよ」
「じゃあ、このにんぎょさんは海をしらないの?」
「そうだね。サフィは海のことをあんまり知らないかも」
「かわいそう」
だん、と硬い音がした。水槽とヒレがぶつかった音だ。
振り返るとサフィが物陰に隠れてしまっていた。長い青いヒレだけが、ゆらゆらと水に揺れている。
「にんぎょさんかくれんぼー?」
傍から見ればそうかも知れない。けれども私は、それが彼の不機嫌のアピールであることを知っている。
ここで威嚇でもされたらたまったものではない。私はすぐにマイクのスイッチを切った。
これ以上彼の機嫌を損ねても仕方ない。後で少し話をしないと。
閉館後、館内の清掃とスタッフミーティングを終え、私はサフィの水槽へ向かった。
場所は昼間、園内ガイドをした場所。サフィの水槽の前。マイクのスイッチをいれる。
「サフィ。私と話をしよう」
サフィは水槽の真ん中辺りで中途半端に浮いている。知らない人が見たら死んでいるのと勘違いするかもしれない。
「サフィ」
コンコン、と水槽をノックするとこちらに目を向ける。
どこか虚ろな目がゆっくりと瞬きして、逸らされた。
様子がおかしい。
「話をしよう。私は、貴方が快適に過ごせる環境を作りたいの」
緩慢な動作でサフィが私に近寄る。そして上を指さす。
陸で話をしたいらしい。
不機嫌な人魚と顔を見合わせて、まして1人で話すのは危険だ。水に引きずり込まれでもしたら、この深さでは助からない。水中の人魚の力を舐めてはいけない。まして、サフィはもう立派な大人なのだから。
……私は足早にフロアを移動した。
珍しく、彼は砂の上に体を半分投げ出して、尾びれをユラユラさせながら待っている。
「こんにちは、サフィ」
「うん……」
ぼう、と天井を眺める姿ですら絵画のようだ。人魚は総じて美しい。金糸のような髪も、青い宝石みたいな瞳も。すらりとした肢体、光を弾く鱗のついた尾びれ。まだサフィが若い人魚であるからだろうか、張りのあるその体はまるで彫刻のようだった。彼が手を伸ばしても届かない距離、水辺から離れた砂の上に私は腰を下ろした。
「……ナオミ」
「なぁに」
「俺はかわいそう?」
「……」
零された言葉に私は口を噤んだ。
「俺はかわいそう?」
「……サフィは、どう思うの?」
「……わからない」
サフィは白い手で顔を覆った。
「俺……かわいそう、なんて考えたことなかった」
「うん」
「……海のことを知らない人魚は、かわいそう?」
「……私は」
どう答えるべきか迷った。
人魚は本来、こんな狭い水槽ではなく、あの大海原で生きるものである。海ではサメに襲われることも、同族争いもあるだろう。食事に困ることだってあるかも知れない。水族館にいれば、そんなことはない。完全な自由はなくとも、ここには安全がある。どこにいることを幸せとするか。それは本当に、個人の価値観でしかない。まして、サフィは人魚だ。自分の意思を語る声を持っている彼に、私の持つ人魚の幸福観を話すことは気が咎めた。
「……私は、サフィの幸せを決められない。でも、私にとっては人魚と関わる仕事をすることが幸せ、だから」
しあわせ、とオウム返しに呟いてサフィは寝返りをうった。砂に肘をつけて、組んだ手の上に顎を載せた。
「ナオミは幸せ?」
「幸せだよ、サフィと居られるからね」
砂を掬って落とす。
「ナオミは、うれしい?」
「サフィといられると?うん、嬉しいよ」
「じゃあ」
サフィは薄い唇の端を釣り上げる。
「俺もうれしい」
「……そう」
どれだけ人に近いように見えても。
私たちは同じ生き物では、ない。
「ナオミ、俺、歌の練習がしたい」
「え?」
掃除をしているとサフィが急にそんなことを言った。
「うまくなったら、ナオミは嬉しい?」
「まあ……そりゃあ、嬉しいけど。無理をしてない?どうして、急に」
「えーと……なんとなく?気が変わった、ってやつだよ」
何だか目が泳いでいるような気がした。首を這うエラがぴこぴこ動いている。じ、と見つめるたサフィはきまり悪げに視線を逸らして、だめ?と首を傾けた。私はため息を返す。
「ダメってことはないわ。わかった、できる限りサポートする」
やりたいなら、やらせてやるべきだ。それがどんな結果になるとしても。
翌日、私は水槽にギターを持ち込んだ。アコースティックギター。弦楽器は人魚と相性がいいし、何より話しながら訓練ができるので便利だ。人魚の調教にはよく使われる。多いのはギター、ピアノ辺りだろうか。この辺りは調教する側の音楽経験がものを言う。私の場合は完全に趣味のギターだが、仕事の役に立つならなんの問題もない。
「よいせっ……と」
椅子を持ち込んで砂浜に置く。水辺から離れたところへ。サフィは浜辺に腰掛けるように座り、尾びれを水に遊ばせる。私は弦を弾いて調律した。前の水族館でも同じようなことをしていたのを思い出す。随分昔の事のように思えて、懐かしい。それが、少し悲しい。
「それじゃあサフィ、歌ってみて」
「……わかった」
サフィが息を吸う。そしてその綺麗な声がとんでもなく音を外していくのに頭を抱えた。思っている以上に酷い。これは……ショーを企画しなくて正解だった。これまでどうしてたのかと聞いたら前は別の人魚がいたから参加していなかったのだとけろりとしている。が、わずかに顔が赤いのは恥ずかしさゆえだろうか。
「基礎からやらないとダメね……」
「……はぁい」
「まずは音を合わせるところから始めましょう」
弦を弾く。
「アー、でいいから声を出して合わせて」
ポロン。
「アー……」
何度もそれを繰り返す。繰り返し、繰り返し。次に音を続けて、覚えさせる。2音から3音……。音を外す度に最初から、もう一度。
「!」
「お」
「ナオミ!俺、今!」
「うん、歌えた」
1曲にも満たない、ワンフレーズ。それでも大きな成長だ。
「やったあ!」
閉館、掃除終わりの1時間。それが私たちの新しい習慣になった。
飼育員は、人魚の水槽に近寄りたがらない。当然といえば、当然だった。知識があるものは人魚を恐れる。いくら友好的に見えようと、彼らは人魚。水の中で人間は無防備な赤子同然なのだから。
水槽の上部、陸地のエリアを掃除する。この当たりは来館者には見えにくいとはいえ、汚れていては醜いし、何よりサフィが嫌がる。
サフィが歌っている。それを聴きながら手を動かした。前よりずっと上達した。ところどころ音を外すのはご愛嬌だ。
どこの歌なのだろう。何の歌なんだろう。聞いた事がない言葉や旋律だな、なんて考えていたせいかも知れない。足が、段差を踏み外した。体が投げ出される、重力を一瞬、忘れたような感覚。
「……!」
どぷ、と音がした。
耳元で水泡が弾ける音がする。
足がつかない。
息が出来ない。
落ちる、落ちる。
サフィの水槽の深さの数字が頭を過ぎる。
何メートルだっけ。確か──
もがいても水が、服が、体にまとわりついて動かない。
救命胴衣の紐を引く。途中でぶつりと切れた。
……は?
整備不良!?嘘でしょう!?よりによって今……!
慌ててはいけない。息を吐き出してもいけない。早く浮上しなくては。
思っている以上に深く、暗い。閉館して照明が落ちているせいもあるのだろう。
水槽の中に酸素をいれる装置の出す飛沫に流されて上下感覚が消えた。指先が水をかいてもどこへもいけない。
こういう場合、明かりを頼りに方向感覚を掴むのだが、その明かりがないため、パニックに拍車がかかる。
潜っているのか、浮上しているのか。
気持ちだけが空回りして、冷静でいようとする頭が燃えるように熱い。
脇の下に、腕が差し込まれた。何もしていないのに体がどこかへ向かっていく。顔が水面を突き破る。
「ゲホッ!……ひゅ、……はぁ……っ!」
砂浜に上半身を預け、這うようにして水辺から距離を摂る。肺に入った水を吐き出すために喉に口を突っ込み、水と一緒に胃液を吐き出した。
その間何か冷たいものが背中を撫でていて、呼吸を落ち着けた頃に、それがサフィの手だったことを知った。水かきのついた手が、私の頬を撫でる。
「ナオミ、大丈夫?」
不安げな瞳が揺れている。
「だい、じょうぶ……だよ。ありがとう、サフィ」
私はサフィの手から逃げるように後ろへ下がる。
人魚とはいえ、魚の仲間だ。水に落ちて濡れても、人間の平熱はは36度近くあるのだから、水温よりずっと熱い。火傷をして手が爛れたら可哀想。
「……ナオミ、」
「ごめん、掃除、続けるから。サフィは遊んでていいよ」
ブラシとバケツを握り直して、私は水辺から離れる。
人魚の歌が、人を惑わせることを失念していた。
忘れてはいけない。
どれだけ言葉を重ね、信頼関係を築こうと、人魚は人魚。
私を助けてくれたのはサフィだ。
けれども、私を水へ導いたのもサフィなのだ。
いつもなら絶対、あんな、水槽に落ちるなんて真似はしなかった。理由はシンプル。疲労による注意散漫。
何故か?答えもまたシンプルだ。人魚の担当が私しかいないから。人魚は水族館としては良い展示物だが、世話をするには大きな危険が伴う。シャチやイルカの比ではない。かといって、私が休みを取れば誰がサフィの世話をするのか?誰もやりたがらないだろう。誰も彼も、自分の担当でいっぱいいっぱいなのだから。残業なんて当たり前、それでも複数人でルーティンが組めるだけまだマシだろうが。
バックヤードで遅めの昼食を食べていると、さりげなく同僚が横に座った。
「ナオミ、水槽に落ちたって?大丈夫なのか?」
「ああ……ケイ。大丈夫よ。どこも打ってないし、サフィが助けてくれたしね」
「サフィが?へぇ……運が良かったな」
「かもね。それで?なんの用かしら」
「つれないね、ナオミ。人魚担当の話を聞いてみたいだけだよ」
ケイはシャチの担当者だ。よくショーをやっている。彼らは比較的温厚だが、機嫌が悪い時はとんでもなく危険だから、尊敬する。まあ、どの担当であれ尊敬するポイントは多々ある。私たちは、命を預かり育て、守ることが仕事だ。
「人魚ね……サフィについてなら、あなたの方が詳しそうだけど」
「まぁね、君より長い付き合いだ」
ケイは私より少し年上の飼育員で、前の担当が不在の間、彼はサフィの世話もしていたと聞く。最も、サフィには嫌われていて、本当に最低限の関わりしか持たなかったらしい。
「海を知らない人魚。どう思う?」
「またその話?する価値もないわ」
近頃新聞やワイドショーを賑わせるその話題は、サフィを困惑させたものでもある。そして、来館者に何度も何度も聞かれた問だ。険しい顔をするとケイは軽やかに笑う。
「飼育員としてではなく、ナオミとしての意見が聞きたいなって」
「はぁ……あのね。他の魚と同じよ。私たちと同じ言葉を話すから、メディアが過剰反応してるだけ。半分とはいえ、人と同じような作りをしている所もあるしね。海を知らない人魚がいるから、なに?じゃああの子たちを海へ戻す?サメから逃げる方法も知らないわ、水草の取り方も。可哀想だと言うんなら、最初から展示物にしてはいけないの。動物園も水族館も、作っちゃいけなかった、そういう話になるじゃない?イルカは?サメは?くらげは?あの子たちだって海を知らないのに、あの子たちには可哀想って言わないのよ。おかしな話だわ。鯨は食べていいのに、イルカは食べちゃだめだって言う人たちみたい」
まくし立てると、ケイは怯んで愛想笑いを浮かべた。そんな顔をするくらいなら、話しかけないでほしい。まるで私が悪いことをしたみたいじゃないか。
「おっと……思いのほか、君は、なんだ……熱情を持ってるんだね」
「普通よ。見せる必要が無いから見せないだけ。話は終わりかしら」
返事も待たず、私は食べかけのサンドイッチをカバンにしまってバックヤードを出た。気分が悪いことこの上ない。
「ナオミ、怒ってる?」
「怒ってないわ、サフィには」
「俺じゃない誰かに怒ってるんだ。当ててあげようか」
鋭い子だ。にやっと笑ってサフィは砂浜に肘をつけた。
「ケイでしょう?」
「……どうして分かったの?」
「匂いがしたから。変な匂いがするんだ、あいつ」
そういえば、ケイは喫煙者だった。……ああ、だからサフィはケイを嫌がったのか。
人魚の鼻は鋭いらしい。それでも、サメほどではないのだろうが。
……この子は、外に出て、生きていけるのだろうか。
海を知らない人魚。
鳥籠の、鳥。
「サフィ、」
海に行きたい?
そう言いかけて私は慌てて口を閉じた。Noと言われればまだいい。
でも、もし。
もしも、Yesと言われたら?私は彼に何をしてやれる?何も出来ないくせに、こんなことを言うべきではない。
「ナオミ?」
「……なんでも、ないわ。今日はどんな1日だったの、サフィ」
「今日?いつもと変わんないよ」
尾びれで水を弾いて、サフィは言う。
「毎日同じ日の繰り返しだもの」
退屈で死にそう。
そしてサフィはへらりと笑った。
「でも俺はしあわせだよ、ここにいる限りは、死なずにすむもの。死なないことはしあわせだって、前に海の人魚が言ってた」
ライトの光を人工の海水の雫が弾く。
「でも、もし、叶うならさ。1度でいいから、海に行きたい」
人工物の中で息をする自然が、彼が、美しかった。
本当の空も、海も、光も。何も知らない彼が何よりも綺麗だった。
「……どういうことですか?」
その日、私はスタッフミーティングで館長から放たれた言葉に心臓が飛び出るかと思った。
「新しい人魚を買うことになったんだよ。君にはその担当についてもらう。貴重な人魚担当経験者を手放すのは惜しいし、何より人魚のショーは人気だしね。人魚調教の経験は?」
「あります、前の職場ではショーの運営をしていました。でもそれとサフィを施設に送ることになんの関係があるんですか?サフィを残して、新しい人魚も飼う。それじゃあダメなんですか?」
頭が痛い。耳鳴りがする。潮騒に似た、耳鳴り。
「サフィはそりゃあ、確かに綺麗な人魚だけどね。君も知ってるだろう、サフィは歌が下手だ。我々も慈善事業じゃないんだから、コストパフォーマンスのことを考えなくては」
「サフィは歌の練習をしてます、彼は確実に上達してます!あと少し時間をください、ショーを企画して、定期的に行えるくらいにはなります!」
館長は私に紙束を押し付けた。
「来館者アンケートだ」
震える手でそれをめくる。
「今すぐ、が望まれているんだ。サフィではそれに応えられない」
歌えない人魚に、価値はない。価値のない展示物を養う余裕はない。
「……っ」
何も間違ってない。館長は正しい。間違ってるのは私の方だ。
分かってる、分かっているけれど。
納得なんて、出来なかった。
ぽん、と肩に手が乗る。
「君はよくやってくれている。でもね、どうにもならないことはあるんだよ」
ぎり、と歯噛みすることしか出来ない。私は一飼育員で、相手は館長で。決定権は館長にあり、私にあるのは意見を述べる権利だけ。それですら、一蹴されてしまえばそれまでなのだ。
「2週間後、引取りに来てもらうことになる。別れには十分過ぎる期間だ。新しく来る人魚たちはパフォーマンス慣れしている。君にショー運営を一任するから、企画書を出すように」
彼を引き取ることもできない。イルカやシャチを自宅で飼えないように。来館者アンケートを握り込み、私は絞り出した声で分かりました、と首を縦に振った。
「あの気難しい人魚ですら手懐けたんだ、期待しているよ。こちらへ人魚たちが来る前に顔合わせをして、すぐにでもショーが行えるようにしておいてくれ」
どんな顔でサフィに会えばいいのか分からなかった。
とにかく青い顔をしていたのだと思う。サフィに近寄りたがらない同僚たちが、食事を渡すくらいならできるから、と代わりを申し出るくらいには。
「大丈夫よ、ありがとう……ありがとう。でも本当に、大丈夫だから」
「ナオミ、でも」
「……お願い、今は放っておいて」
心配げな同僚たちにも仕事はある。ちらりと私を気にしながらバックヤードを出る彼らを見送り、一人きりになったところで私は思い切り壁を叩いて崩れ落ちた。
「……クソッ……クソッ……!」
喉が焼けるように熱くて、鼻がつんとした。
涙は流れてこなかった。
壁に当たり散らして気持ちを落ち着けて、私は仕事をした。いつも通りだったと思う。
閉館後、掃除のあとの歌の練習のためのギターを持っていかなかったことだけを除いて。
「ナオミ!」
水から顔を出して、弾ける笑顔のサフィを見ることが辛かった。
「昨日練習したんだ、聞い……ナオミ?」
「……」
何か言わなくちゃ。それなのに言葉になる前に溶けてしまう。
サフィ、あのね。それだけなんとか絞り出したとき、頬を熱いものが落ちた。
「うう……うう……!」
泣くな。泣く権利なんか、私にはない。
ごめんね、サフィ。
それだけで彼は全てを察したらしかった。
「……俺、いらない子になっちゃったんだね」
「ごめん……ごめん……!私がもっと、早く……」
「ナオミのせいじゃないよ。……あのね、俺、知ってたよ。前に館長が話してるの、聞いちゃったんだ」
「え」
顔をあげるとサフィが眉を八の字にへらりと笑った。
「俺ね、ナオミがすきだよ。ナオミと一緒にいたかったから、歌を頑張ろうと思ったんだけど……遅かった。ごめん」
心臓がぎゅっと掴まれたような感覚だった。
「ごめんね……」
散々、良いように使って。見世物にして。勝手に価値を決めつけて。そうして、最後は。
「行ったら最後……俺、出られないよね」
サフィは水族館から捨てられるのだ。本来ならば年老いたり病気になったりした人魚が送られ、余生を過ごす施設へ送られる。まだ若く健康な人魚、サフィ。歌がダメだった、そんな理由で。施設へは出向いたことがある。穏やかに暮らすことはできるだろう。無碍には扱われないだろう。けれども彼はまだ長いその生の中で、どれだけの同族の死を見続けることになるのか。想像するだけで苦しくて、涙が止まらなかった。
「ナオミ、泣かないで」
水かきのついた指が涙を拭う。人魚とて魚の仲間、人間の平熱は灼熱に等しい。火傷をして、痛いだろうにサフィは私の頬を両手で包んだ。
「新しい子達と、仲良くしてあげて」
考える時間は十分にあった。馬鹿なことを考えている自覚もあった。
それでも、私はこれが正しいと思った。
思ったから、やるのだ。
それが私の経歴に傷をつけるのだとしても。
「サフィ、起きて」
引取りの前日。私は1人、水族館で泊まり込みの残業をしていた。館長も若干の負い目があったのだろう、宿泊の許可はあっさり降りた。そして、全員が帰宅したのを確認して私はサフィの水槽へ来たのだ。移動用のカートと水槽を持って、マリンスーツで。
「サフィ!」
水面を叩いても、ぐっすり寝入っているサフィの反応はない。直接起こすしかない。私はボンベと頭につけたライトが光るのを確認して、水槽に飛び込んだ。水泡がぱちぱちと体の周りで弾けていく。
ゆっくりと降下して、サフィを探す。
岩場のところで丸くなっているサフィを見つけ、私は頬をぺちぺちと叩く。
きゅう、と高い鳴き声がして、ぱちりとサフィが目を開けた。驚いている様子の彼に上を指さし、浮上する。
「ぷはっ」
「ナオミ?何してるの?」
「選んで、サフィ。これが最初で最後のチャンスよ」
「チャンス……?」
寝起きで戸惑うサフィには悪いと思うが、本当にこのタイミングしかないのだ。二者択一、時間制限つき。クーリングオフはできない。
「今すぐ私と一緒に海に行くか、それとも明日施設に行くか」
「……は?え?急すぎない?え、あ」
「海で長生きできるとは限らないわ。もしかしたらサメに襲われて死ぬかも。でも、施設でいくつもの同族の死体を数えるのと、どっちがいい?」
「でも、俺を海にやったらナオミが、」
「私のことはいい!サフィはどうしたいの」
「……ほんとうに、いいの?」
サフィの震える手が、移動用の水槽の縁を掴む。
「俺……施設に行きたくない……!」
綺麗な顔が泣きそうに歪んでいた。
私はサフィの尾びれを掴んで移動用の水槽へ押し込む。そしてカートをガラガラ押して、水族館の裏、移送用の車のトランクにサフィの入った水槽を移す。カートは畳んで横へ。
「ごめん、少し揺れるけど……海はすぐだから」
「うん」
マリンスーツの上に飼育員のジャケットを羽織って運転席に乗り込み、エンジンをふかす。そして、アクセルを踏み込んだ。
時間帯もあって車も人も少なかった。海辺まで、あと少し。
車を走らせること2時間。海が見えた。駐車場に車を適当につけて、トランクを開ける。
水が半分くらいに減っていた。
「すごく揺れた」
「ごめん」
カートを組み立てて、水槽を載せようとして、その余りの重さに絶句した。どうしよう。これをカートに載せるのはかなりきついのでは……?と思って硬直したら、サフィが水槽から身を乗り出してカートに飛び乗った。
「サフィ?」
「ちょっとくらい乾いても平気。それに、海……近いんでしょ?」
「……うん。近いよ。もう目の前」
私は上着を水槽に突っ込み、それで尾びれを包んだ。
がらがらと、車輪の擦れる音がする。それと同じように、さざなみの音も。
「……海?」
「そう、海」
「……すごい。壁がないや」
当たり前のことではある。でもそれを知らないのは当然だった。日が登り初めていた。白く光る太陽が、黒々とした海を照らしてキラキラと反射した。
浅瀬では尾びれがひっかかるだろうから、それなりの深さのところまでサフィを届けなければ。
カートは途中で無くした。サフィをちょうど横抱きするように抱えて、私は海を歩く。
時折来る高波に溺れかけてかなりの海水を飲んだ。
もう少し……あと少し。遊泳ロープを超えた。
あと、少し。
「あっ」
足が岩場を踏み外した。
潮の流れが強い。サフィが腕から消えていく。ああ、まだちゃんとしたお別れも言ってないのに。
「さ、ふぃ……!」
ごぼ、と吐いた息は言葉にならない。
最後に私が見たのは、目を爛々と輝かせ歓喜を叫ぶ、自由を手に入れた人魚の姿だった。
ああ、サフィ。さようなら。
どうか、幸せに。
目が覚めるとそこは病院のベッドだった。
医者の話では、私は海のど真ん中でプカプカ浮いていたところ、たまたま通りかかった漁師たちに助けられたらしい。。普通ならそれはもう水死体ではなかろうか、と思うが、私を助けてくれた漁師の話では近くに大きな魚の影があったそうだ。イルカかも知れねぇな、と言う漁師たちの言葉に私は首を振る。
サフィだ、間違いない。
だって、と私は手のひらを見る。青い鱗が1枚、手のひらに乗っている。
……サフィのものだと、確信があった。私が彼の痕跡を見間違うはずが無い。鱗は加工して、ネックレスにした。
サフィを海へ逃がしたことに対しかなりのお叱りを受けはしたが解雇はされなかった。人魚を担当できる飼育員をまた探すことが面倒だったのだろう。そして恐らく、サフィの処遇について負い目があったのだろう。私のしでかしたことは内々で処理され、私はわずかばかりの減給をもって職場に復帰した。同僚たちは私を気遣う素振りを見せていたが、内心はどう思っているのかよく分からない。
新しく来た人魚たちはそれはもうやんちゃだった。人間で例えるなら12、3歳。男と女の2人で、しょっちゅう喧嘩をしている。
男の方は赤っぽく、女の方は黄色っぽい人魚だ。
よくカボチャを取り合って喧嘩をしている。けれどもショーになると息ぴったりで、やはり人魚のというのは華があるなぁ、と思わずには居られない。
サフィはカボチャが好きじゃなかったな、なんて思いながら次の彼らの食事を用意していると、館長が私を呼んだ。
保護人魚、だそうだ。怪我をしているところを保護されたらしい。完治するまで預かりたいそうで、彼らの水槽にいれても大丈夫か?という確認だった。
「広さ的には問題ありません、が」
海育ちの人魚と果たして仲良くなれるかどうかはまた別問題である。人魚はその生態的にもまだまだナゾが多い。縄張り意識ひとつでも、個体差が大きいのだ。
しばらくは残業だな……と思いつつ、浜辺に置いた移動用の水槽から顔を出す保護人魚と話をしてみることにする。まあ、ろくに通じることはないのだが。保護人魚が、私の首に下げたネックレスを注視した。鱗……同族のものだと、わかるのだろうか。
ぴょこ、と水面から顔を出す人魚たちに、新入りだよ、と教えてやると明らかに嬉しそうな顔をする。
ピィ、と保護人魚が鳴いた。
それに応じるように、うちの人魚たちが鳴く。
なんだ?と、思って首を傾けると、女の人魚が言う。
「ナオミ、サフィってだあれ?」
「この人魚さん、サフィの鱗って言ってるよ」
サフィの、鱗。
……この人魚は、サフィを知っている。
それは、つまり──。
私は今夜、祝杯をあげることを決めた。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい
設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀
結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。
結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。
それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて
しなかった。
呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。
それなのに、私と別れたくないなんて信じられない
世迷言を言ってくる夫。
だめだめ、信用できないからね~。
さようなら。
*******.✿..✿.*******
◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才 会社員
◇ 日比野ひまり 32才
◇ 石田唯 29才 滉星の同僚
◇新堂冬也 25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社)
2025.4.11 完結 25649字
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる