K:火炎瓶の短編集

K:火炎瓶

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データの海から、最後に

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 彼女は少し変わった人だった。
 恐らく、彼女は僕たちとは違う視点でものを見て、感じていたのだと思う。
 彼女は紛れもない、天才だった。
 地に埋もれた、誰にも理解されない孤独の鬼才。
 子どものような無邪気な笑みで、自分の視点をそれは楽しそうに僕に話してくれた。
 僕は彼女の言うことの半分も理解出来ていなかったけれど、熱の籠った彼女の声が、あの表情がたまらなく好きだった。
 僕は彼女が好きだった。
 ずっと、守ってあげたかった。
 世間という、彼女を狂人だとせせら笑って爪弾きにした人たちから、彼女を守りたかった。
 心無い声に傷つく姿をみたくなった。
 僕は笑っていてほしかった。
 ただそれだけだった。
 彼女がある研究機関に招かれた時でさえ、僕には不安しかなかった。
 毎日楽しそうに研究に没頭する彼女を見て、僕は心底安堵したと同時に嫉妬した。
 僕よりも彼女を理解できたその存在が、あまりにも、憎くて羨ましかった。

 そして、あの日。

「こんなもの、作っちゃいけなかった」

 電話越しにそう言って、彼女は、首を──


 酷い夢を見た。
 実際にその光景を見たわけじゃないのにな、と僕は鏡に映る青白い顔に触れる。顔を洗って、トーストを焼いた。少し焼きすぎて焦げたそれにバターを乗せて齧り、珈琲をいれた。マグカップを2つ出したところで凍りつく。
 彼女はもういないのに。
 体はまだ彼女のことを覚えていて、無意識に2人分を用意している。僕の席の反対側、無傷のバタートーストが皿の上に乗っていた。
 涙が零れた。
 会いたくてたまらなかった。
 また訳の分からない楽しい話をして欲しかった。
 彼女はもうどこにもいない。
 頭では分かっている。
 それでもまたいつものようにひょっこり尋ねてきて、聞いてくれよ、新しい仮説を思いついたんだ、と笑ってくれるんじゃないかと期待してしまう。
 あのドアの後ろから顔を出して、にかっと快活に笑ってくれるんじゃないか。
 そんなこと、あるわけないのに。
 自分で自分の首を絞めている。
 いっそ死んだらどれだけ楽になれるだろうか。彼女のように、首を──


『人は2度死ぬ』
 どういうこと?
『1度目は君も知っているだろう?2度目は──忘却による死、だ』


「……死ねない」
 僕は両手で顔を覆って天井を仰ぐ。
 彼女を2度も死なせる訳にはいかない。
 は、と短く息を吐いて、僕は珈琲を飲んだ。
 僕は久しぶりに外へ出た。
 僕にとって何よりも、命よりも大切な人が死んだのに、街はいつも通り、なんてこともなかったみたいだ。
 実際、そうなんだろう。
 この瞬きの一瞬だって、僕の知らないところで知らない誰かが死んでいる。でも、僕にはそんなこと知る術もない。だから僕はそれを悲しむこともなく、ただ目の前の自分の悲しみを抱きしめて彼女を死へ追いやったものへの怒りに震えているのだ。
 彼女は馬鹿だった。
 頭は良かったが物を知らなかった。
 彼女は嫌いなものが多かった。
 トマトが嫌いだった。
 写真が嫌いだった。
 紙が嫌いだった。
 かさばるものが嫌いだった。
 嫌いなものも多かったが、好きなものも多かった。
 彼女は合理的なものが好きだった。
 ボードゲームが好きだった。
 単純明快なものが好きだった。
 複雑怪奇なものの仕組みを暴くことが好きだった。
 彼女は、
 ……
 …………
 ………………
 彼女の家の前で立ち止まる。焼け焦げた地面が晒されて、寒々しく花束が置いてある。
 彼女は自分という存在を消した。
 現場検証の結果では、家中に灯油をまいて火をつけて、その中で首を吊った、らしい。全焼だった。PCやスマホは復元もできないほどめちゃくちゃになっていた。
 彼女のもので、残っているものは何も無かった。
 あるとしたら、それこそ酷評された論文データくらいだろう。誰でも見ることが出来るインターネットの海を彷徨う文字列。

 電子データなんて、すぐに埋もれてしまうよ。だって毎日情報が発信されていくんだよ?

 そう言った僕に彼女は笑ってこう言った。

 でも、絶対に消えないよ。

 ……消えない。
 絶対、に?
 
 帰宅してすぐに僕はPCを起動した。
 彼女の痕跡を見つけるためだ。
 彼女の名前を検索すると、トップには彼女を狂人と笑う記事が出てきて、けれどもそれですら彼女を語る記録なのだから、吐き気と悲しみと喜びと複雑な気持ちに襲われる。
 そうして、最後までWebページを見ていったとき、僕は奇妙なものに気がついた。
 ひどい文字化けだ。
 ウイルスサイトかもしれない。
 けれども僕はそのサイトをクリックした。
 彼女に関係することならなんでも良かった。
 とにかく彼女を忘れたくなくて、彼女がいたことを証明する何かが欲しくてたまらなかった。電子データなんて形のないものでなく、触れることのできる何かがほしい。
 カチ、とマウスがリンクを踏む。
 パスワードを要求された。
 分からない。
 彼女の誕生日はエラーで弾かれた。
 好きだったものの名前を片端から入れてみる。
 何回弾かれたか数えるのを辞めて、思いつく単語、数字列をいれる。
 何千回とエラーを起こして、ようやく、認証された。
 はじめて僕と彼女が出会った日付だった。
 我ながらよく覚えていたものだと思う。忘れていたっておかしくなかったのに。
 サイトには、一つだけリンクがあった。
 クリックする。
 動画ファイルだ。
 ダウンロードした。
 僕はイヤホンを探して差し込んだ。震える手で耳にスピーカーを押し込んで、再生。
 映り出したのは、もう何回も見た彼女の部屋だった。 
 ものがないのに、床にはいつも何かしら落ちていた。
 肩口で切りそろえた色の薄い髪が揺れる。
 何度も何度も記憶でなぞった彼女の姿だった。
『やあ』
 彼女はそう言って、片手をあげた。
『ここにたどり着くなんて、やるじゃないか。君は機械がからきしだから、実は心配してたんだ』
『あたしは死ぬ』
 はっきりと、彼女はそう言った。
『これから、君に電話して、それから死ぬ』
 閉じようかと思った。
『あたしが作ったものはね、あたしのこれまでの評価をひっくり返すものだ。でもね、』
 彼女は泣きそうな顔で笑った。
『君が死んじゃうかもしれないもので、誰かに認められたいとは思わない』
 ……目頭が熱かった。
 彼女が作ったというものの説明はやっぱり分からなかった。ただ、それが表に出てきたら核戦争より酷いことになるかもしれない、と彼女が言うのだからそうなのだろう。
 ふ、と短く息を吐いて、彼女はそんなことより、と話題を変えた。
 彼女は訥々と、時おり思い出すようにして語る。楽しかった、面白かったよね、あれは。覚えてるよ、と。
 はじめてのデートも、くだらない喧嘩も、まるで昨日のことのように詳細に彼女は語った。
 頬を滑り落ちる涙を拭うこともしないで、僕は口を覆う、
 何も残ってはいなかった。
 彼女に触れることができるものは何一つ残ってはいなかった。
 でもそうじゃなかった。
 膨大なデータからすればきっと砂粒よりも小さい動画ファイル。
 けれども間違いなく彼女に触れることのできる、彼女が残してくれた僕への贈り物だった。

『あたしを見つけてくれて、ありがとう』

 彼女はそう言って、画面越しの僕にキスをした。
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