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十 健気な美少年蔵地真吾と痴呆の祖父
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まだ宵の口で、園絵が寝入ってしまうにはまだまだ間があった。
「ついつい屋敷を出てきたものの、どこで刻を潰せばよいのやら……」
愚痴りながらぷらぷら歩いていると、浅草御門前で善次郎に声をかけられた。
「池之端に馴染みの小料理屋がある。美味くて安い店だ。いまからどうだ」
まさに渡りに舟だった。
「喜んでお供します」
崎十郎は即答した。
長く続く柳原土手を右手に見ながら、神田川沿いを西に向かった。
「実は、女将があだっぽい女子でな。なんでも昔は永代寺の巫女だったらしい。なかなかおもしろい素性だろ。で、女将の腹違いの妹ってえのがまた……」
女の話題ばかりでうんざりするものの、ひとりでうろつくよりは、ましだった。
「ありゃあなんだ」
善次郎が道の先を指差した。
通りの彼方でなにやら騒動が起きている。
「行ってみるか、崎十郎」
善次郎が野次馬根性丸出しで近づいていった。
北斎やお栄と同じく、善次郎も好奇心が人一倍強い。
なんでも貪欲に目に焼き付けて画に取り込むらしい。
「はいはい」
崎十郎もゆっくりと騒ぎの渦に向かったが、もとよりかかわり合いになるつもりはなかった。
他人前で裏剣客としての実力を発揮できないから君子危うきに近寄らずである。
小間物屋の店先で、数人の男たちが、ひとりの老人を取り囲んでいた。
男たちは町火消らしく、も組と染め抜かれたそろいの半纏を着ている。
白髪で貧弱な髷を結った老人は、武家の隠居といった風体で、小袖や羽織はひどく古ぼけていたが、かつては良い品だったと思われた。
老人は脇差を抜いて振りまわしている。
着崩しかたが尋常ではなかった。
奇声を発しながら、むやみやたらに脇差を振り回している。
火消人足たちが恐れていない様子から察するに、刀は竹光か刃引きのようだった。
小間物屋の主が、憮然とした表情で成り行きを見守っている。
「も組といえば仏の忠兵衛親分の子分たちだ。おかしな爺さんが誰かは知らんがな」
「あの老人には見覚えがある気がするのですが……」
喉元まで出てきて、どうにも思い出せない。
崎十郎は首を捻った。
「なんでも、あの爺さんが店先の櫛を黙って持ち去ろうとしたんだそうだよ」
青物屋の小僧が、お使いの途中といった小女と話をしている。
老人が息切れしてきた。
老人を取り巻く火消人足たちの輪が縮まった。
「刃引きなんぞ怖くねえや」
ひとりが暴れる老人の背後にまわって背中に蹴りを入れた。
枯れ木のように痩せこけた老人の身体は前に吹っ飛んで、へしゃげた蛙のように地面に突っ伏した。
盗んだ櫛が大事なのか、背中を丸めて両腕で胸のあたりを抱きながら地面にうずくまった。
「ふてえやつだ」
「老いぼれでも、盗人は容赦しねえぞ」
火消人足たちが殴る蹴るの乱暴を働き始めた。
「老人相手に、やり過ぎだ。取り押さえるだけでよいではないか」
崎十郎と善次郎が顔を見合わせたときだった。
「お待ちください。祖父を許してやってください」
画から抜け出したような美少年が、老人と火消人足たちの間に割って入った。
蔵地真吾だった。
「夜中のうちに行方知れずとなり、一日中、市中を探しまわっておりました。なにをいたしたか存じませぬが、この通り、ことの是非もわからぬありさまです。わたくしが償わせていただきますゆえ、どうかどうか、ひらにご容赦を」
真吾は必死の形相で火消人足たちに詫びた。
(老人は、蔵地家の先々代の当主、由蔵殿であったか)
近頃、とんと見かけることはなく、かくしゃくとした由蔵しか記憶になかったため、どろんと濁った目をして、だらしなく口を半開きにした老人が由蔵であるとは思いもしなかった。
「真吾から、病がちの祖父の世話で苦労していると聞かされていたが、こういうわけだったのかい」
善次郎が気の毒そうに大きく息を吐き出した。
「祖父の監督不行届は、わたくしの責。祖父を許せぬと仰せなら、このわたくしを存分になさってください」
真吾は、火消人足たちに土下座して謝った。
火消人足――鳶の者は気が荒い。
「おう、この小僧を叩きのめしちまえ」
無抵抗な真吾に殴る蹴るの狼藉を働きだした。
「やめぬか」
たまらなくなった崎十郎は、腹に力を籠めて大声で制した。
一瞬、場が止まって皆が崎十郎に顔を向けた。
「崎十郎殿。英泉先生も……」
真吾の顔に生気が蘇った。
だが、すぐに頬から血の気が引いていく。
「お恥ずかしいところをお見せいたしました。すべてわたくしが悪いのです。祖父が屋敷の外に出ぬよう、兄からきつく申し渡されておりましたものを……。つい油断しておりましたゆえの騒動。どうか、お忘れください」
真吾の卑屈さが可哀想になった。
「お武家さん、関係ねえことに首を突っ込むと巻き添えを食いますぜ」
一番、大柄な火消人足が、つかつかと歩み寄ってきた。
「わっちは、も組の梯子持ちで孫一ってんだ。悪いことは言わねえ。口出しは無用に願いますぜ。へへへ」
孫一は崎十郎の頭のてっぺんから爪先まで値踏みしながら凄んだ。
喧嘩慣れした輩は、武士など恐れていない。
「おい、崎十郎、ここは堪えてくれ」
気まずそうな顔をした善次郎が、崎十郎の背中をつついた。
「忠兵衛親分さんに世話になっているから、悶着はまずいんだ」
崎十郎が裏剣客の実力を発揮せぬかと案じているらしい。
「わかっております」
ひとつ大きく息を吸い込んだあと、猛り立った火消人足に向き直って、へらへら笑いをしてみせた。
「いやなに、拙者は穏やかに話し合えぬかと申しておるだけだ」
腰抜け侍を装って、おどおどした素振りで、
「銭は、さしてもってはおらぬ。だが、ご老人が店に迷惑をかけたと申すなら、その損料を弁償しよう。なあ、孫一とやら」
なけなしの銭が入った財布を懐から取り出そうとしたが……。
「銭の問題じゃねえや」
孫一がいきなり殴りかかってきた。
「わわっ」
崎十郎は頓狂な悲鳴を上げながら間一髪でかわした。
まぐれでかわしたとみられねばならない。
かわしたあと、わざとくさくよろけてみせた。
「無関係な崎十郎殿になにをいたす」
立ち上がった真吾が、崎十郎をかばって孫一との間に割って入った。
「やっちまえ」
火消人足たちが真吾と崎十郎に襲いかかってきた。
「こいつも連れだぞ」
ついでに善次郎も巻き込まれた。
「だから言わねえこっちゃねえ」
善次郎は、棒切れで殴りかかってきた火消人足を体さばきでかわすや、
「降りかかる火の粉でえ。もうやけくそだ」
火消人足のみぞおちに蹴りを入れた。
大乱闘が始まった。
真吾も加わる。
なにごとにも真面目な真吾は武芸にも励んでいるから腕が立つ。
「いいぞ、どちらも頑張れ」
気づけば、野次馬の数は途方もなく膨れ上がっていた。
「背の高けえお武家さまだけ見かけ倒しかよ」
「町人とお稚児さんは凄げえのによ」
拳や蹴りから無様に逃げ回る崎十郎を揶揄し、嘲笑する声が、あちこちから聞こえてくる。
(むふふふ、拙者が本気を出せば……。くくく、拙者は裏剣客なのだ)
崎十郎は、むずむずするような心地よさを覚えながら、ひょいひょいと身軽に逃げ回った。
「ついつい屋敷を出てきたものの、どこで刻を潰せばよいのやら……」
愚痴りながらぷらぷら歩いていると、浅草御門前で善次郎に声をかけられた。
「池之端に馴染みの小料理屋がある。美味くて安い店だ。いまからどうだ」
まさに渡りに舟だった。
「喜んでお供します」
崎十郎は即答した。
長く続く柳原土手を右手に見ながら、神田川沿いを西に向かった。
「実は、女将があだっぽい女子でな。なんでも昔は永代寺の巫女だったらしい。なかなかおもしろい素性だろ。で、女将の腹違いの妹ってえのがまた……」
女の話題ばかりでうんざりするものの、ひとりでうろつくよりは、ましだった。
「ありゃあなんだ」
善次郎が道の先を指差した。
通りの彼方でなにやら騒動が起きている。
「行ってみるか、崎十郎」
善次郎が野次馬根性丸出しで近づいていった。
北斎やお栄と同じく、善次郎も好奇心が人一倍強い。
なんでも貪欲に目に焼き付けて画に取り込むらしい。
「はいはい」
崎十郎もゆっくりと騒ぎの渦に向かったが、もとよりかかわり合いになるつもりはなかった。
他人前で裏剣客としての実力を発揮できないから君子危うきに近寄らずである。
小間物屋の店先で、数人の男たちが、ひとりの老人を取り囲んでいた。
男たちは町火消らしく、も組と染め抜かれたそろいの半纏を着ている。
白髪で貧弱な髷を結った老人は、武家の隠居といった風体で、小袖や羽織はひどく古ぼけていたが、かつては良い品だったと思われた。
老人は脇差を抜いて振りまわしている。
着崩しかたが尋常ではなかった。
奇声を発しながら、むやみやたらに脇差を振り回している。
火消人足たちが恐れていない様子から察するに、刀は竹光か刃引きのようだった。
小間物屋の主が、憮然とした表情で成り行きを見守っている。
「も組といえば仏の忠兵衛親分の子分たちだ。おかしな爺さんが誰かは知らんがな」
「あの老人には見覚えがある気がするのですが……」
喉元まで出てきて、どうにも思い出せない。
崎十郎は首を捻った。
「なんでも、あの爺さんが店先の櫛を黙って持ち去ろうとしたんだそうだよ」
青物屋の小僧が、お使いの途中といった小女と話をしている。
老人が息切れしてきた。
老人を取り巻く火消人足たちの輪が縮まった。
「刃引きなんぞ怖くねえや」
ひとりが暴れる老人の背後にまわって背中に蹴りを入れた。
枯れ木のように痩せこけた老人の身体は前に吹っ飛んで、へしゃげた蛙のように地面に突っ伏した。
盗んだ櫛が大事なのか、背中を丸めて両腕で胸のあたりを抱きながら地面にうずくまった。
「ふてえやつだ」
「老いぼれでも、盗人は容赦しねえぞ」
火消人足たちが殴る蹴るの乱暴を働き始めた。
「老人相手に、やり過ぎだ。取り押さえるだけでよいではないか」
崎十郎と善次郎が顔を見合わせたときだった。
「お待ちください。祖父を許してやってください」
画から抜け出したような美少年が、老人と火消人足たちの間に割って入った。
蔵地真吾だった。
「夜中のうちに行方知れずとなり、一日中、市中を探しまわっておりました。なにをいたしたか存じませぬが、この通り、ことの是非もわからぬありさまです。わたくしが償わせていただきますゆえ、どうかどうか、ひらにご容赦を」
真吾は必死の形相で火消人足たちに詫びた。
(老人は、蔵地家の先々代の当主、由蔵殿であったか)
近頃、とんと見かけることはなく、かくしゃくとした由蔵しか記憶になかったため、どろんと濁った目をして、だらしなく口を半開きにした老人が由蔵であるとは思いもしなかった。
「真吾から、病がちの祖父の世話で苦労していると聞かされていたが、こういうわけだったのかい」
善次郎が気の毒そうに大きく息を吐き出した。
「祖父の監督不行届は、わたくしの責。祖父を許せぬと仰せなら、このわたくしを存分になさってください」
真吾は、火消人足たちに土下座して謝った。
火消人足――鳶の者は気が荒い。
「おう、この小僧を叩きのめしちまえ」
無抵抗な真吾に殴る蹴るの狼藉を働きだした。
「やめぬか」
たまらなくなった崎十郎は、腹に力を籠めて大声で制した。
一瞬、場が止まって皆が崎十郎に顔を向けた。
「崎十郎殿。英泉先生も……」
真吾の顔に生気が蘇った。
だが、すぐに頬から血の気が引いていく。
「お恥ずかしいところをお見せいたしました。すべてわたくしが悪いのです。祖父が屋敷の外に出ぬよう、兄からきつく申し渡されておりましたものを……。つい油断しておりましたゆえの騒動。どうか、お忘れください」
真吾の卑屈さが可哀想になった。
「お武家さん、関係ねえことに首を突っ込むと巻き添えを食いますぜ」
一番、大柄な火消人足が、つかつかと歩み寄ってきた。
「わっちは、も組の梯子持ちで孫一ってんだ。悪いことは言わねえ。口出しは無用に願いますぜ。へへへ」
孫一は崎十郎の頭のてっぺんから爪先まで値踏みしながら凄んだ。
喧嘩慣れした輩は、武士など恐れていない。
「おい、崎十郎、ここは堪えてくれ」
気まずそうな顔をした善次郎が、崎十郎の背中をつついた。
「忠兵衛親分さんに世話になっているから、悶着はまずいんだ」
崎十郎が裏剣客の実力を発揮せぬかと案じているらしい。
「わかっております」
ひとつ大きく息を吸い込んだあと、猛り立った火消人足に向き直って、へらへら笑いをしてみせた。
「いやなに、拙者は穏やかに話し合えぬかと申しておるだけだ」
腰抜け侍を装って、おどおどした素振りで、
「銭は、さしてもってはおらぬ。だが、ご老人が店に迷惑をかけたと申すなら、その損料を弁償しよう。なあ、孫一とやら」
なけなしの銭が入った財布を懐から取り出そうとしたが……。
「銭の問題じゃねえや」
孫一がいきなり殴りかかってきた。
「わわっ」
崎十郎は頓狂な悲鳴を上げながら間一髪でかわした。
まぐれでかわしたとみられねばならない。
かわしたあと、わざとくさくよろけてみせた。
「無関係な崎十郎殿になにをいたす」
立ち上がった真吾が、崎十郎をかばって孫一との間に割って入った。
「やっちまえ」
火消人足たちが真吾と崎十郎に襲いかかってきた。
「こいつも連れだぞ」
ついでに善次郎も巻き込まれた。
「だから言わねえこっちゃねえ」
善次郎は、棒切れで殴りかかってきた火消人足を体さばきでかわすや、
「降りかかる火の粉でえ。もうやけくそだ」
火消人足のみぞおちに蹴りを入れた。
大乱闘が始まった。
真吾も加わる。
なにごとにも真面目な真吾は武芸にも励んでいるから腕が立つ。
「いいぞ、どちらも頑張れ」
気づけば、野次馬の数は途方もなく膨れ上がっていた。
「背の高けえお武家さまだけ見かけ倒しかよ」
「町人とお稚児さんは凄げえのによ」
拳や蹴りから無様に逃げ回る崎十郎を揶揄し、嘲笑する声が、あちこちから聞こえてくる。
(むふふふ、拙者が本気を出せば……。くくく、拙者は裏剣客なのだ)
崎十郎は、むずむずするような心地よさを覚えながら、ひょいひょいと身軽に逃げ回った。
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