6 / 25
6 実の娘と〝床入り〟ってか?
しおりを挟む
出入りの貸本屋を囲んで、笑いさんざめく女郎たちの横を通り過ぎ、二階一番奥の部屋に通された。
「おお。来ましたな」
小日向屋は上機嫌だった。
「黛は、いま風呂です。今日が、月に一度の髪洗いの日とは、ついていましたな」
振袖新造に肩を揉ませている。
喜三郎は、黛の部屋を見渡した。
商家の造作を、取り急ぎ、妓院の形に改めたため、屏風が鴨居よりも高かったり、造作がちぐはぐである。
床の間に違い棚がなく、ろくに道具も置いていない味気なさだった。
全てが、見世物の籠細工のように、はりぼてだ。
もともと吉原自体が、虚飾の世界である。
仮宅になって、化けの皮が半分、剥がれている。
若い者が、小日向屋に向かって愛想笑いをして部屋を辞した。
「喜三郎さん。わたしは、黛のことが、可愛いてならん。できるものなら、身請けしてやりたいが、そうもいかん。だからね。せめて、贔屓にしてやりたいと思ってね」
花魁の身請けには、法外な大金が掛かる。
年季明けまでに、稼ぎ出す金子まで勘定に入るので、千両とも言われている。
大店の主でも、おいそれと出せる金額ではなかった。
小日向屋は番頭から女婿に入っているため、なおさら難しいだろう。
「札差が栄華を誇った、明和から天明の頃ならいざ知らず、このご時世、札差も楽じゃない。登楼の金の工面のためにも、興行を成功させないといけません」
小日向屋の言葉は、自分自身に対する決心、叱咤激励めいて聞こえた。
なんで、そんなにこの女にのめり込めるんでえ。
喜三郎は心の内で苦笑した。
「実は黙っていましたがね」
小日向屋が、喜三郎の近くに躙り寄ってきた。
振り袖新造をからかっている庄助に聞こえぬよう、声を落とす。
「黛は、わたしの〝落とし種〟なんですよ。つい去年、知ったのですがね。娘と分かれば、毎日でも会いに来たい。〝可愛がってやりたい〟のですよ」
「え」
喜三郎の頭に、かっと血が上った。
なんてえ、畜生なんでえ。
好き者にも、ほどがある。
呆れてものが言えない。
「それでも親かい」と、この場で殴りつけたくなった。
だが、私憤は我慢である。
「ほう。それはそれは……」
喜三郎は、揶揄する口調になった。
「黛の母親は、わたしが奉公人だった頃、贔屓にしていた、大鳥という、小見世の部屋持ちでしてね」
「けど、どうして、小日向屋さんの種だとわかるんですかい」
喜三郎の問いかけに、小日向屋は「なんてことを言うんだ」とでも言いたげに、眉根をきつく寄せた。
「わたしには、お美代という、ひとり娘がおったのですよ。七つになった年の春に、御役三病の痘瘡で、あっけなく亡くなりましたが」
小日向屋は、細い目に、一瞬、悲哀の色を浮かべた。
が、すぐさま、気を取り直したように、早口で捲し立てた。
「黛はね。お美代と、瓜二つなんですよ。これほどはっきりした証拠がありますか」
一つ感情を込めて、大きく息継ぎをする。
「お美代は、わたしには、これっぽっちも似てやしませんでしたよ。お美代は、器量よしで評判だった、わたしの母親にそっくりだったんですよ」
七つの幼女だの、年老いた母親だのと瓜二つと言われても、『はいさようで』とも承服できねえなあ。
喜三郎の表情に、おそらく『半信半疑』と出ていたのだろう。
「信じてもらわなくたっていい。我が子は我が子なんですよ」
小日向屋は、自分自身にも言い聞かせるつもりか、語気を強めた。
そのとき「お待たせなんし」と、痩せぎすの番頭新造が、障子を開けた。
番頭新造は、年季明け後も郭奉公を続ける新造なので、三十過ぎの心得顔の女である。
真冬でも足袋を履かぬ、黛の白い素足が、静かに敷居を跨ぐ。
廊下の向こうの光を背に受けて、一瞬、後光が差しているように見えた。
「う」
息が詰まった。心臓が跳ねる。
逆光になって、顔は見えない。
俺は、何を錯覚をしてんだ。なんで、後光なんぞ……。
我に返った喜三郎は、己の馬鹿馬鹿しさに苦笑いした。
「待っていたぞ。黛」
小日向屋が、転びそうな勢いで黛に駆け寄り、手を取って、自分の隣の上席に案内した。
ともかく、俺は、黛の似面絵を描きゃいいだけでえ。
雑念を振り解き、黛の姿を正視した。
黛は、横を向き、袂で顔を隠している。
洗い髪のままで、立兵庫髷に結っていなかった。
浴衣の上に、松の裾模様の寝巻き仕掛けを羽織っている。
こんなだったか。
喜三郎は声を失った。
黛の小ささ、頼りなさに、心が揺れる。
「黛の素の姿を見てもらおうと思ってね。嫌がるのを無理に、湯上がりのまま呼んでもらったのですよ」
小日向屋が、親らしい、慈愛溢れる眼差しで、黛を見やった。
「先だっては、ありがとうなんした」
黛が、ようやく顔を上げた。
喜三郎と目が合う。
「あ、あの……」
二の句が継げなかった。
目の前にいる黛は、地震の日に見た、仰々しい、人形のような女郎ではなかった。
大輪の牡丹のような徒花ではなく、純白で清楚な梅花空木の小花だった。
血の通った、生身の女だった。
不自然な白塗りよりも、透き通った素の肌のほうが、よほど輝いている。
この前は、ごてごてした〝仕掛け〟の豪華さ、花魁特有の髪や髪の飾りのあざとさばかりに、目を奪われていた。
一幅の絵を鑑賞するおりに、〝表装〟の派手派手しさばかり目について、肝心の絵を見ていなかったようなものだった。
早く、描き写したい。
この匂やかな肌を、人形に仕立てたい。
絵心と、人形師魂が激しく疼く。
「じゃ、庄助さん。場を外そうかね」
小日向屋は、振袖新造に目配せした。
振袖新造が、庄助の手を取って部屋を出る。
ようやく目を覚ました禿も、慌てて、ばたばたと後に続いた。
「では、存分に下絵を描いてくださいよ。暁七ツ(午前四時)まで、わたしが黛を買いきっていますからね。描き終えるまで、人払いしていますし、ごゆるりと」
小日向屋は、意味ありげな顔で、座敷を後にした。
長い廊下を、重い足音が、ゆっくり遠ざかる。
がらんとした広い座敷に、喜三郎と黛だけが取り残された。
障子のうちが、急に静まり返る。
笑いさざめく女郎たちの声も遠い。
外を行き交う棒手振の声も、雪のために密やかである。
黛は何も言わない。
「では、早速……」
喜三郎は、黙って矢立を取り出し、漉き返し紙を広げた。
一枚。また一枚。
筆が不思議なほど走った。
息をすることも忘れ、黛の顔を、漉き返し紙の上に写し取っていく。
描くことが楽しい。
嬉しい。
子供の頃に断念した、絵師になる夢が蘇る。
人形師ではなく、絵師になるべきだったのではないかとさえ思えてくる。
やはり、化粧の前の姿でなければいけなかったんだ。
小日向屋は、俺の生人形のことをよくわかっていないと思っていたが、俺の思い違いだった。
黒髪の流れ、生え際の美妙さ。
白いが、嫌味な白さではない肌。
伏し目がちにした睫毛の長さ。
ふとした仕草が、舞のように滑らかで美しい。
見る角度によって、表情が、幼くも、妖艶にも変化する。
「わっちは……」
黛が何か言いかけた。
が、喜三郎は無視した。
女郎の話に真実などない。
ましてや、実の父と思われる男と平気で睦み合う女の打ち明け話など、聞きたくもなかった。
うんと、扇情的な場面にしてやる。ただれた縁の親娘なら、むしろ喜ぶに違いない。
ふっと、意地悪い気持ちが膨らむ。
場面の構想が次々に浮かんだ。
「良い着想ができました。湯上がりに黛さんが、髪を結わせ、化粧をしながら、番頭さんと話す図です。番頭さんが『花魁。ほんとうに、髪の飾りを、かたに出して、ようござんすか』と、喫驚する場面です」
両肌脱ぎになり、胸も顕わになった、蓮っ葉な黛を作るつもりである。
そのためにゃ、黛の肌を、もっと見たいが……。
「脱いでくれ」とは言い出せなかった。
何かが怖かった。
何が恐ろしいのか、正体は心の奥底にある。
「身仕舞いの場なれば……」
黛は、すっくと立ち上がった。
仕掛けを脱ぎ、細い指で、衣桁に掛ける。
巻帯を、するすると解く。
浴衣が、はらりと畳の上に滑り落ちた。
喜三郎の前に立った黛は、男の手垢が染みついた身体とは、とうてい思えなかった。
上半身を反り身に控えて立つ姿は、気高さが匂い立っている。
空気が微かに揺らぎ、仄甘い香りがたゆたう。
こ、こりゃあ……。観音さまだ。
観音菩薩がこの世に現れたとすれば、このような姿に違いない。
目を細めれば、黛の姿が、白い象に乗った、神々しい観音菩薩の姿に見える。
いや、騙されちゃいけねえ。『外面如菩薩内心如夜叉』ってえ言葉もある。
女郎は女郎である。
惑わされては、ありのままを人形に写し取れないと、怖くなった。
けどよ……。
心が根元から揺れる。
観音さまは、三十三の姿に化身して、衆生を救うというじゃねえか。
観音さまは、あらゆる姿で現れなさる。
観音菩薩が、卑しい遊女の姿で現れてもおかしくはない。
湯上がりの黛の肢体が、僅かに上気している。
どこからか隙間風が冷たく水を差す。
「わっちは、お上から、銀二枚をいただいたなんし」
黛は、独り言のように話し始めた。
自慢話か。
喜三郎は黙って筆を動かす。
「けんど、褒められとうて、お救小屋に鍋を施したわけではないなんし」
「じゃあ、どういう了見で施しをなすったんで?」
筆を止め、黛の目を見た。
「あの地震で、実のととさん、かかさんは、何処でどうしていなさるかと、気になったなんし。施しをして、ひとの噂になりでもすりゃあ、『親から便りが来ぬとも限らねえ』と、生みの親に巡り会いたい一心ゆえなんし」
図らずも、黛本人の口から、真実が明らかになった。
黛は、大鳥の娘だなんて、いい加減な嘘をでっち上げて、小日向屋を惑わし、金蔓にしてやがるんだな。なんて奴でえ。
黛への反感が、大きく膨れ上がった。
女郎に嘘はつきもので、嘘を楽しむ男が群がる。
だが、目の前の黛は、汚れた手練手管など無縁のように見えた。
まあ、真相なんて、どうでもいい。
見たままの黛を、人形に写しゃあいい。
雑念を振り払った。
筆に、さらに力がこもる。
子細に観察して、姿を描き取れば、黛の心の内まで、透けて見えてくるに違いない。
絵に写し取ることは、心を写すことのはずだった。
だが、心は杳として見えなかった。
「おお。来ましたな」
小日向屋は上機嫌だった。
「黛は、いま風呂です。今日が、月に一度の髪洗いの日とは、ついていましたな」
振袖新造に肩を揉ませている。
喜三郎は、黛の部屋を見渡した。
商家の造作を、取り急ぎ、妓院の形に改めたため、屏風が鴨居よりも高かったり、造作がちぐはぐである。
床の間に違い棚がなく、ろくに道具も置いていない味気なさだった。
全てが、見世物の籠細工のように、はりぼてだ。
もともと吉原自体が、虚飾の世界である。
仮宅になって、化けの皮が半分、剥がれている。
若い者が、小日向屋に向かって愛想笑いをして部屋を辞した。
「喜三郎さん。わたしは、黛のことが、可愛いてならん。できるものなら、身請けしてやりたいが、そうもいかん。だからね。せめて、贔屓にしてやりたいと思ってね」
花魁の身請けには、法外な大金が掛かる。
年季明けまでに、稼ぎ出す金子まで勘定に入るので、千両とも言われている。
大店の主でも、おいそれと出せる金額ではなかった。
小日向屋は番頭から女婿に入っているため、なおさら難しいだろう。
「札差が栄華を誇った、明和から天明の頃ならいざ知らず、このご時世、札差も楽じゃない。登楼の金の工面のためにも、興行を成功させないといけません」
小日向屋の言葉は、自分自身に対する決心、叱咤激励めいて聞こえた。
なんで、そんなにこの女にのめり込めるんでえ。
喜三郎は心の内で苦笑した。
「実は黙っていましたがね」
小日向屋が、喜三郎の近くに躙り寄ってきた。
振り袖新造をからかっている庄助に聞こえぬよう、声を落とす。
「黛は、わたしの〝落とし種〟なんですよ。つい去年、知ったのですがね。娘と分かれば、毎日でも会いに来たい。〝可愛がってやりたい〟のですよ」
「え」
喜三郎の頭に、かっと血が上った。
なんてえ、畜生なんでえ。
好き者にも、ほどがある。
呆れてものが言えない。
「それでも親かい」と、この場で殴りつけたくなった。
だが、私憤は我慢である。
「ほう。それはそれは……」
喜三郎は、揶揄する口調になった。
「黛の母親は、わたしが奉公人だった頃、贔屓にしていた、大鳥という、小見世の部屋持ちでしてね」
「けど、どうして、小日向屋さんの種だとわかるんですかい」
喜三郎の問いかけに、小日向屋は「なんてことを言うんだ」とでも言いたげに、眉根をきつく寄せた。
「わたしには、お美代という、ひとり娘がおったのですよ。七つになった年の春に、御役三病の痘瘡で、あっけなく亡くなりましたが」
小日向屋は、細い目に、一瞬、悲哀の色を浮かべた。
が、すぐさま、気を取り直したように、早口で捲し立てた。
「黛はね。お美代と、瓜二つなんですよ。これほどはっきりした証拠がありますか」
一つ感情を込めて、大きく息継ぎをする。
「お美代は、わたしには、これっぽっちも似てやしませんでしたよ。お美代は、器量よしで評判だった、わたしの母親にそっくりだったんですよ」
七つの幼女だの、年老いた母親だのと瓜二つと言われても、『はいさようで』とも承服できねえなあ。
喜三郎の表情に、おそらく『半信半疑』と出ていたのだろう。
「信じてもらわなくたっていい。我が子は我が子なんですよ」
小日向屋は、自分自身にも言い聞かせるつもりか、語気を強めた。
そのとき「お待たせなんし」と、痩せぎすの番頭新造が、障子を開けた。
番頭新造は、年季明け後も郭奉公を続ける新造なので、三十過ぎの心得顔の女である。
真冬でも足袋を履かぬ、黛の白い素足が、静かに敷居を跨ぐ。
廊下の向こうの光を背に受けて、一瞬、後光が差しているように見えた。
「う」
息が詰まった。心臓が跳ねる。
逆光になって、顔は見えない。
俺は、何を錯覚をしてんだ。なんで、後光なんぞ……。
我に返った喜三郎は、己の馬鹿馬鹿しさに苦笑いした。
「待っていたぞ。黛」
小日向屋が、転びそうな勢いで黛に駆け寄り、手を取って、自分の隣の上席に案内した。
ともかく、俺は、黛の似面絵を描きゃいいだけでえ。
雑念を振り解き、黛の姿を正視した。
黛は、横を向き、袂で顔を隠している。
洗い髪のままで、立兵庫髷に結っていなかった。
浴衣の上に、松の裾模様の寝巻き仕掛けを羽織っている。
こんなだったか。
喜三郎は声を失った。
黛の小ささ、頼りなさに、心が揺れる。
「黛の素の姿を見てもらおうと思ってね。嫌がるのを無理に、湯上がりのまま呼んでもらったのですよ」
小日向屋が、親らしい、慈愛溢れる眼差しで、黛を見やった。
「先だっては、ありがとうなんした」
黛が、ようやく顔を上げた。
喜三郎と目が合う。
「あ、あの……」
二の句が継げなかった。
目の前にいる黛は、地震の日に見た、仰々しい、人形のような女郎ではなかった。
大輪の牡丹のような徒花ではなく、純白で清楚な梅花空木の小花だった。
血の通った、生身の女だった。
不自然な白塗りよりも、透き通った素の肌のほうが、よほど輝いている。
この前は、ごてごてした〝仕掛け〟の豪華さ、花魁特有の髪や髪の飾りのあざとさばかりに、目を奪われていた。
一幅の絵を鑑賞するおりに、〝表装〟の派手派手しさばかり目について、肝心の絵を見ていなかったようなものだった。
早く、描き写したい。
この匂やかな肌を、人形に仕立てたい。
絵心と、人形師魂が激しく疼く。
「じゃ、庄助さん。場を外そうかね」
小日向屋は、振袖新造に目配せした。
振袖新造が、庄助の手を取って部屋を出る。
ようやく目を覚ました禿も、慌てて、ばたばたと後に続いた。
「では、存分に下絵を描いてくださいよ。暁七ツ(午前四時)まで、わたしが黛を買いきっていますからね。描き終えるまで、人払いしていますし、ごゆるりと」
小日向屋は、意味ありげな顔で、座敷を後にした。
長い廊下を、重い足音が、ゆっくり遠ざかる。
がらんとした広い座敷に、喜三郎と黛だけが取り残された。
障子のうちが、急に静まり返る。
笑いさざめく女郎たちの声も遠い。
外を行き交う棒手振の声も、雪のために密やかである。
黛は何も言わない。
「では、早速……」
喜三郎は、黙って矢立を取り出し、漉き返し紙を広げた。
一枚。また一枚。
筆が不思議なほど走った。
息をすることも忘れ、黛の顔を、漉き返し紙の上に写し取っていく。
描くことが楽しい。
嬉しい。
子供の頃に断念した、絵師になる夢が蘇る。
人形師ではなく、絵師になるべきだったのではないかとさえ思えてくる。
やはり、化粧の前の姿でなければいけなかったんだ。
小日向屋は、俺の生人形のことをよくわかっていないと思っていたが、俺の思い違いだった。
黒髪の流れ、生え際の美妙さ。
白いが、嫌味な白さではない肌。
伏し目がちにした睫毛の長さ。
ふとした仕草が、舞のように滑らかで美しい。
見る角度によって、表情が、幼くも、妖艶にも変化する。
「わっちは……」
黛が何か言いかけた。
が、喜三郎は無視した。
女郎の話に真実などない。
ましてや、実の父と思われる男と平気で睦み合う女の打ち明け話など、聞きたくもなかった。
うんと、扇情的な場面にしてやる。ただれた縁の親娘なら、むしろ喜ぶに違いない。
ふっと、意地悪い気持ちが膨らむ。
場面の構想が次々に浮かんだ。
「良い着想ができました。湯上がりに黛さんが、髪を結わせ、化粧をしながら、番頭さんと話す図です。番頭さんが『花魁。ほんとうに、髪の飾りを、かたに出して、ようござんすか』と、喫驚する場面です」
両肌脱ぎになり、胸も顕わになった、蓮っ葉な黛を作るつもりである。
そのためにゃ、黛の肌を、もっと見たいが……。
「脱いでくれ」とは言い出せなかった。
何かが怖かった。
何が恐ろしいのか、正体は心の奥底にある。
「身仕舞いの場なれば……」
黛は、すっくと立ち上がった。
仕掛けを脱ぎ、細い指で、衣桁に掛ける。
巻帯を、するすると解く。
浴衣が、はらりと畳の上に滑り落ちた。
喜三郎の前に立った黛は、男の手垢が染みついた身体とは、とうてい思えなかった。
上半身を反り身に控えて立つ姿は、気高さが匂い立っている。
空気が微かに揺らぎ、仄甘い香りがたゆたう。
こ、こりゃあ……。観音さまだ。
観音菩薩がこの世に現れたとすれば、このような姿に違いない。
目を細めれば、黛の姿が、白い象に乗った、神々しい観音菩薩の姿に見える。
いや、騙されちゃいけねえ。『外面如菩薩内心如夜叉』ってえ言葉もある。
女郎は女郎である。
惑わされては、ありのままを人形に写し取れないと、怖くなった。
けどよ……。
心が根元から揺れる。
観音さまは、三十三の姿に化身して、衆生を救うというじゃねえか。
観音さまは、あらゆる姿で現れなさる。
観音菩薩が、卑しい遊女の姿で現れてもおかしくはない。
湯上がりの黛の肢体が、僅かに上気している。
どこからか隙間風が冷たく水を差す。
「わっちは、お上から、銀二枚をいただいたなんし」
黛は、独り言のように話し始めた。
自慢話か。
喜三郎は黙って筆を動かす。
「けんど、褒められとうて、お救小屋に鍋を施したわけではないなんし」
「じゃあ、どういう了見で施しをなすったんで?」
筆を止め、黛の目を見た。
「あの地震で、実のととさん、かかさんは、何処でどうしていなさるかと、気になったなんし。施しをして、ひとの噂になりでもすりゃあ、『親から便りが来ぬとも限らねえ』と、生みの親に巡り会いたい一心ゆえなんし」
図らずも、黛本人の口から、真実が明らかになった。
黛は、大鳥の娘だなんて、いい加減な嘘をでっち上げて、小日向屋を惑わし、金蔓にしてやがるんだな。なんて奴でえ。
黛への反感が、大きく膨れ上がった。
女郎に嘘はつきもので、嘘を楽しむ男が群がる。
だが、目の前の黛は、汚れた手練手管など無縁のように見えた。
まあ、真相なんて、どうでもいい。
見たままの黛を、人形に写しゃあいい。
雑念を振り払った。
筆に、さらに力がこもる。
子細に観察して、姿を描き取れば、黛の心の内まで、透けて見えてくるに違いない。
絵に写し取ることは、心を写すことのはずだった。
だが、心は杳として見えなかった。
0
あなたにおすすめの小説
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる