生人形師喜三郎が駆ける

CHIHARU

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18   徳川慶喜さまにお目通り

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 暦は、すぐに四月となった。

 一橋慶喜に目通りできるという。
 喜三郎は、辰五郎に伴われ、両国広小路を抜け南に歩いていた。
 一橋徳川家の下屋敷へ向かう途中である。

 喜三郎は、大事な荷物を、しっかりと抱えている。
 

「刑部卿さまにお目通りなんて。どんな顔して行きゃいいか……」
 暑くもないのに、額の汗を、手拭で何度も拭った。


 一橋徳川家の屋敷は、全部で十四もある。
 訪ねた下屋敷も、庭園、菜園、馬場などを備え、敷地は広大だった。

「わしらが伺うのは裏手の小門からって手筈にしてあるんでえ」
 辰五郎は迷うどころか、速い足取りで進んだ。   

「噂だけかと思ってましたが、辰五郎親方が、一橋のお殿様とご昵懇ってえのは、本当だってんですね」

「うちの刑部卿さまなら、ぜってえ、力になってくださるって」
 辰五郎は自信満々で、慶喜に頼む前から、承諾を信じている。

「そりゃ、刑部卿さまが御承諾くだされば、ことは上手く運ぶでしょうね」

「なんたって、刑部卿さまは、次期、公方様にもなろうってえおかただ」
 辰五郎は、得意げに、鼻の頭を親指で弾いた。

 首尾良く慶喜に頼めれば、御沙汰など、簡単に覆せるだろう。


  小ぶりな門が開かれ、質素だが、それなりの身なりの武士が顔を出した。 
 一見、粗野な目鼻立ちに、知性が垣間見える。

「卿は、裏庭じゃ」
 辰五郎と顔見知りらしい武士は、仏頂面で案内する。

「このお方はな」
 辰五郎が小声で話しかけてきた。

「水戸さまから差し向けられなすった御家来で、平岡円四郎さまでえ。平岡さまが、側近として来なすった当初はよ。何でも自分で器用にできなさる刑部卿さまに、逆に色々と教わってたってえ、笑える話も聞いたが。今じゃ、刑部卿さまを支えて、一橋家を切り盛りなすってる、切れ者でえ」
 したり顔で、説明した。

 喜三郎は、一言が多い辰五郎に、はらはらした。
 反面、親しい間柄ならばこそと思え、辰五郎が頼もしく見えてきた。

「こりゃ。辰五郎。申しておくがな」

 いきなり平岡に振り向かれ、喜三郎は、ぎょっとした。

「よいか。辰五郎。今は大切な時期じゃ。よく弁えるようにな。卿には、必ずや、御世子になっていただかねばならない。大事な大事な瀬戸際じゃ」

「刑部卿さまも、何かと気掛かりなことが多いのは、百も承知なんで、随分と迷ったんですが……」

「なんじゃと」
 硬骨が袴を穿いたような平岡の左眉が、ぴくりと跳ね上がった。

「久々のご機嫌伺いと聞き、通したのだが。まさか、卿のお手を煩わせる問題を、持ち込んで来たのではあるまいな」

 途端に、風向きが変わった。

「いえいえ。滅相もございませんや。わっちら、下々の者とお話なされば、刑部卿様の日頃の憂さも、少しは晴れようかと……」
 辰五郎は、平然と、矛先を躱した。

「しかと、さようか。ふふ。身どもも、気付かぬうちに、気が立っておったようだな。詰まらぬ揚げ足取りで、すまぬ」
 質朴そうな平岡は、あっさりと納得した。

 辰五郎は、悪戯っぽく、喜三郎に目配せした。

 屋敷は広い。
 だが、見渡しても人影はなかった。

 長く続いた植え込みの影を曲がり、生け垣の木戸を開き、裏庭に通された。

 だだっぴろい庭は、弓の稽古に打ってつけらしく、的が彼方に見える。
 若い武士が一人、片肌脱ぎになって、弓の稽古に励んでいる。
 質素な身なりだが、常人にない輝きを纏っていた。

「よう。じじい。よう来たな」
 人の気配に、慶喜は弓を置いて振り向いた。

 このお方が……。

 背は低い。
 だが、筋骨は鍛え抜かれ、逞しい。

 噂に違わぬ傑物ぶりは、隠しようもなかった。

 辰五郎は、戸惑う喜三郎を尻目に、大股で慶喜に歩み寄った。
 平岡が、辰五郎の不作法な動きを制することもない。

 暗黙のうちに、身分差を感じられない、親しさに溢れた空間が広がっていた。

「何歳におなりでしたかな」
 辰五郎は、孫ほど歳の違う慶喜に、好々爺然と話しかけた。

「十九じゃ。去年の暮には、美香をもろうたところじゃ」
 慶喜は、誇らしげに答えた。

「ところで、じじい。今日は一人ではなかったのか」

 慶喜の言葉に、風呂敷包みを脇に置き、正座して、額を地面につけた。

「この場は、無礼講じゃ。気にせず、近う参れ」
 慶喜の、凛とした声は、若さと力強さに溢れていた。
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