20 / 25
20 大事な人形を取り上げられては……
しおりを挟む
ここまで進めば、しめたものである。
期待で胸が高鳴った。
「……で、ございまして……寺社方よりの差し止めの御沙汰が……」
辰五郎の言葉が続く。
あくまで、さりげなく、雑談っぽい口調を装っている。
「余が、人形を作るならば……」
慶喜は、辰五郎の話が聞こえているのか、聞く気が一切ないのか。
目は、ずっと、黛人形の頭にある。
あらゆる角度から、子細に観察し続けている。
喜三郎は、焦れた。
だが、口を挟む空気ではない。
気がつけば、辰五郎も、途中で口を噤んでしまった。
「ふうむ」
慶喜は、自分の作った人形が、興行で飾られるさまでも思い浮かべているのだろうか。
人形の頭を見詰める眼差しは、熱く、真剣である。
咳払いすら憚られるような沈黙が、広い庭に満ちる。
慶喜は、いくら経っても次の動きに出ない。
人形の頭と、慶喜の目は、糸どころか、針金でしっかりと結びつけられている。
刻ばかりが、空しく経っていく。
平岡も、人形になったかのように、動かない。
辰五郎も、黙ったまま、慶喜を見詰めるばかりである。
目元が微笑んでいるのは、愛想笑いだろう。
頼りにする、辰五郎が、いつになく、小さく見える。
不安が、ますます募った。
「あ、あの……」
喜三郎が、遠慮がちに語りかけたときだった。
「よし。じじい。もう下がってよいぞ。大儀であった」
よく通る声が、的場に響いた。
慶喜は、当然のように、袴捌きも颯爽と、歩み去ろうとする。
黛の人形の頭を手にしたまま。
「お、お待ちください」
喜三郎は堪らず、呼び止めた。
「そ、その人形は……。み、見本でございます」
喜三郎は、必死に訴えた。
願いの儀は無視された上に、大事な人形だけ取り上げられては堪らない。
「その黛の人形には、特に思い入れがございまして……。お召し上げは、ご容赦を。他の人形ならば、すぐさま、いくらでも届けさせていただきます」
これだけ言葉を発しただけで、息が上がり、脈が躍る。
慶喜は、足を止めたものの、喜三郎を見ようともしない。
「余はこれから、この頭を開いて、内側の作りようを、子細に調べるのじゃ。ふふ。すこぶる楽しみじゃ」
まるで喜三郎の話を聞いていない。
目の前の、珍品への興味しかないらしい。
「じゃ、お調べになった後は、お返しくださるのですか」
言葉を換えて、聞き直した。
「何を申しておる。無礼な」
平岡が、威嚇するように、大声で遮った。
喜三郎の横で、辰五郎までもが、顔を顰める。
「卿が、お気に召されただけで、光栄と思わんか。それを、返せなどと、不埒千万。この平岡が許さん」
平岡は、万事が万事、慶喜の側に立った、状況しか見えていない。
「この材質は、桐であろうかのお……」
慶喜は、一人で完璧に自分の世界に入り込んでいる。
心の扉は、内側から、しっかり閉ざされてしまった。
慶喜は、周り廊下の階を上り、悠然と屋敷の内に姿を消そうとする。
「のお」
突然、くるりと振り向いた。
目は、誰もいない方角にあった。
「見世物などというものが、流行って、下々の者が、存分に楽しめる。それが、天下泰平というものじゃ。長く続けばよいのお」
呟きだった。
だが、稟とした響きは、喜三郎の耳にも、はっきりと聞こえた。
「ありがとうございます」
喜三郎は、その場で、土下座し、額を地面につけた。
慶喜の背中が、暗い屋内に消える。
小柄な後ろ姿は、周囲からの期待と重圧に耐え、先行きを憂うようにも、逃避しようとあがいているようにも見えた。
「卿のお心がわからんか」
平岡が叱るように言った。
よく見れば、目が笑っている。
「な、喜三郎。最初っから、言ってただろがよお」
辰五郎の大きな手が、喜三郎の肩を、強く叩いた。
「では、案内つかまつろうか」
平岡が、また、もと来た道を案内する。
「上からの威光で、なんでも押さえつければよいとは言えぬからのお」
前を歩きながら、平岡は言葉を続けた。
「不安な黒雲が、足下から、湧き起こってくる、こんな御時世じゃ。だからこそ、このような、庶民の楽しみに肩入れしたいと、卿は、お思いなのじゃ。卿のご厚意を有難く受け止めるようにな」
平岡は、恩着せがましい性格なのだろうか。少し、くどかった。
「我らは、卿を担いで、なんとしても、この世の中の泰平を守る。お互い、それぞれ、課せられた本分を全うしようぞ」
平岡は、恰好をつけて、締め括った。
若さゆえの覇気が、漲っている。
俺っちの人形が、いつまでも興行できるような世の中であって欲しいもんでえ。
国が乱れれば、見世物など、真っ先に吹っ飛ばされる、軽い存在でしかない。
見世物を庶民がゆったりと笑いながら、感心しながら、同時に、いんちきに騙されながら、楽しめるゆとりがある世相こそが、素晴らしい。
喜三郎も、祈らずにはいられなかった。
期待で胸が高鳴った。
「……で、ございまして……寺社方よりの差し止めの御沙汰が……」
辰五郎の言葉が続く。
あくまで、さりげなく、雑談っぽい口調を装っている。
「余が、人形を作るならば……」
慶喜は、辰五郎の話が聞こえているのか、聞く気が一切ないのか。
目は、ずっと、黛人形の頭にある。
あらゆる角度から、子細に観察し続けている。
喜三郎は、焦れた。
だが、口を挟む空気ではない。
気がつけば、辰五郎も、途中で口を噤んでしまった。
「ふうむ」
慶喜は、自分の作った人形が、興行で飾られるさまでも思い浮かべているのだろうか。
人形の頭を見詰める眼差しは、熱く、真剣である。
咳払いすら憚られるような沈黙が、広い庭に満ちる。
慶喜は、いくら経っても次の動きに出ない。
人形の頭と、慶喜の目は、糸どころか、針金でしっかりと結びつけられている。
刻ばかりが、空しく経っていく。
平岡も、人形になったかのように、動かない。
辰五郎も、黙ったまま、慶喜を見詰めるばかりである。
目元が微笑んでいるのは、愛想笑いだろう。
頼りにする、辰五郎が、いつになく、小さく見える。
不安が、ますます募った。
「あ、あの……」
喜三郎が、遠慮がちに語りかけたときだった。
「よし。じじい。もう下がってよいぞ。大儀であった」
よく通る声が、的場に響いた。
慶喜は、当然のように、袴捌きも颯爽と、歩み去ろうとする。
黛の人形の頭を手にしたまま。
「お、お待ちください」
喜三郎は堪らず、呼び止めた。
「そ、その人形は……。み、見本でございます」
喜三郎は、必死に訴えた。
願いの儀は無視された上に、大事な人形だけ取り上げられては堪らない。
「その黛の人形には、特に思い入れがございまして……。お召し上げは、ご容赦を。他の人形ならば、すぐさま、いくらでも届けさせていただきます」
これだけ言葉を発しただけで、息が上がり、脈が躍る。
慶喜は、足を止めたものの、喜三郎を見ようともしない。
「余はこれから、この頭を開いて、内側の作りようを、子細に調べるのじゃ。ふふ。すこぶる楽しみじゃ」
まるで喜三郎の話を聞いていない。
目の前の、珍品への興味しかないらしい。
「じゃ、お調べになった後は、お返しくださるのですか」
言葉を換えて、聞き直した。
「何を申しておる。無礼な」
平岡が、威嚇するように、大声で遮った。
喜三郎の横で、辰五郎までもが、顔を顰める。
「卿が、お気に召されただけで、光栄と思わんか。それを、返せなどと、不埒千万。この平岡が許さん」
平岡は、万事が万事、慶喜の側に立った、状況しか見えていない。
「この材質は、桐であろうかのお……」
慶喜は、一人で完璧に自分の世界に入り込んでいる。
心の扉は、内側から、しっかり閉ざされてしまった。
慶喜は、周り廊下の階を上り、悠然と屋敷の内に姿を消そうとする。
「のお」
突然、くるりと振り向いた。
目は、誰もいない方角にあった。
「見世物などというものが、流行って、下々の者が、存分に楽しめる。それが、天下泰平というものじゃ。長く続けばよいのお」
呟きだった。
だが、稟とした響きは、喜三郎の耳にも、はっきりと聞こえた。
「ありがとうございます」
喜三郎は、その場で、土下座し、額を地面につけた。
慶喜の背中が、暗い屋内に消える。
小柄な後ろ姿は、周囲からの期待と重圧に耐え、先行きを憂うようにも、逃避しようとあがいているようにも見えた。
「卿のお心がわからんか」
平岡が叱るように言った。
よく見れば、目が笑っている。
「な、喜三郎。最初っから、言ってただろがよお」
辰五郎の大きな手が、喜三郎の肩を、強く叩いた。
「では、案内つかまつろうか」
平岡が、また、もと来た道を案内する。
「上からの威光で、なんでも押さえつければよいとは言えぬからのお」
前を歩きながら、平岡は言葉を続けた。
「不安な黒雲が、足下から、湧き起こってくる、こんな御時世じゃ。だからこそ、このような、庶民の楽しみに肩入れしたいと、卿は、お思いなのじゃ。卿のご厚意を有難く受け止めるようにな」
平岡は、恩着せがましい性格なのだろうか。少し、くどかった。
「我らは、卿を担いで、なんとしても、この世の中の泰平を守る。お互い、それぞれ、課せられた本分を全うしようぞ」
平岡は、恰好をつけて、締め括った。
若さゆえの覇気が、漲っている。
俺っちの人形が、いつまでも興行できるような世の中であって欲しいもんでえ。
国が乱れれば、見世物など、真っ先に吹っ飛ばされる、軽い存在でしかない。
見世物を庶民がゆったりと笑いながら、感心しながら、同時に、いんちきに騙されながら、楽しめるゆとりがある世相こそが、素晴らしい。
喜三郎も、祈らずにはいられなかった。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる