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第01話:『ゴッド・アイ』の批評と削除
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深夜二時。安普請のアパートの自室は、カーテンの隙間から漏れる街灯の光と、スマートフォンのブルーライトだけが光源だった。
評道健は、脂ぎった親指で画面を激しくタップしていた。爪の先には、コンビニ弁当の鶏肉のカスが挟まっている。
「……また設定矛盾かよ。これだから素人は」
彼は鼻で笑い、勢いよく『送信』ボタンを押した。
画面には、彼が投稿したばかりのコメントが表示される。
『一章で「魔法は詠唱必須」と書いてあるのに、三章で無詠唱で発動してますよね? ご都合主義もいい加減にしてください。設定資料集からやり直すことをお勧めします』
アカウント名は『ゴッド・アイ』。
フォロワー数は三桁にも満たないが、彼のプロフィール欄には「辛口評論家。真の傑作しか認めない」と書かれている。
健は三十代半ばの派遣社員だ。昼間は倉庫で段ボールを仕分ける単純作業に従事し、上司からは名前すらまともに呼ばれない。
だが、この六インチの画面の中だけでは違う。彼は神の視点を持つ審判者であり、未熟な作家たちを断罪する処刑人になれるのだ。
「次、次だ」
彼は獲物を探す獣の目で、Web小説投稿サイトのランキングをスクロールした。
どいつもこいつも、似たり寄ったりのタイトルばかりだ。異世界、転生、追放、ざまぁ……。
流行りに乗っかっただけの粗製乱造。吐き気がする。俺ならもっとうまく書ける。書かないだけだ。まだ本気を出していないだけだ。
その時だった。
スクロールする指が、奇妙なバナー広告で止まった。
極めてシンプルな、黒地に白文字だけのバナー。
派手なイラストも、煽情的なキャッチコピーもない。ただ、明朝体でこう書かれていた。
『一生懸命書きました。アナタの人生「あなた」の幸せがココに詰まっています。』
健は眉をひそめた。
Web広告のセオリーを無視したデザインだ。クリック率など端から考えていないような、不気味なほどの素朴さ。
だが、その「一生懸命」という言葉が、妙に神経を逆撫でした。
一生懸命なら評価されるとでも? 甘えるな。結果が全てだ。
「……見てやるよ。どんな稚作か」
彼は嘲笑を浮かべ、バナーをタップした。
画面が遷移する。
サイト名は『カタルシス』。聞いたことのない投稿サイトだ。
掲載作品は一つだけ。
『【完結保証】アナタの人生「あなた」が主人公の物語』
作者名:サイフォン
あらすじも簡素だった。
『アナタの人生「あなた」が主人公の物語です。もし、お気に召したら★5をお願いします。』
「なんだこれ。ナメてんのか」
健は毒づきながらも、第一話を読み始めた。
冒頭の描写からして、稚拙だった。
主人公の名前は「ケン」。
年齢は三十四歳。倉庫作業員。趣味はネットサーフィン。
描写されるアパートの間取りも、散らかった部屋の様子も、まるで健の今の状況を盗撮したかのように酷似している。
「……ハッ、俺をモデルにしたつもりか? リアリティだけはあるな」
偶然の一致にしては出来すぎているが、健の興味は「作品の粗探し」に向いていたため、その異常性を「作者の悪趣味なリサーチ」程度にしか捉えなかった。
読み進めると、物語は急展開を迎える。
主人公のケンが、通勤途中に異世界へと召喚されるのだ。ここまではよくある展開だ。
だが、そこからが違った。
異世界の人々は、ケンの「批評眼」を絶賛したのだ。
彼が魔法体系の矛盾を指摘すると、王宮魔導士長が土下座して教えを乞うた。
彼が騎士団の作戦の甘さを嘲笑すると、王女が「貴方こそ真の軍師」と抱きついてきた。
彼が酒場の飯の味を批判すると、店主が涙を流して感謝し、最高級の料理をタダで振る舞った。
「…………は?」
健の口から、乾いた声が漏れた。
なんだ、この小説は。
ご都合主義どころの話ではない。作者の妄想を垂れ流しただけの、文字通りのゴミだ。
文章力は皆無。構成も破綻している。カタルシスの積み上げもなく、ただ主人公が全肯定されるだけの安っぽいポルノ。
つまらない。
つまらないはずだった。
なのに、指が止まらない。
スクロールするたびに、画面の中の「ケン」は称賛され、富と名声を手に入れていく。
現実の健が、倉庫の片隅で誰にも認められずに腐らせていた「俺は正しい」という自尊心を、物語の中の世界は全力で肯定してくれる。
(馬鹿馬鹿しい。こんなの、俺が書いたほうがマシだ)
思考とは裏腹に、健の心拍数は上がっていた。
悔しかった。
こんな稚拙な文章の主人公が、なぜこんなに幸せなんだ。
俺は今、コンビニ弁当の残骸に囲まれて、誰からも必要とされていないのに。
この「ケン」は俺だ。俺と同じスペックだ。なら、どうして俺は今、王女に抱きしめられていない?
最終話まで一気に読了していた。
物語の最後、ケンは「審美眼の英雄」として銅像を建てられ、ハーレムに囲まれて余生を過ごす。
画面の最下部には、評価システムが表示されていた。
『面白かったら★5評価をお願いします』
星は五段階。現在は評価ゼロ。
健は震える指を画面にかざした。
「……駄作だ。プロットもキャラも崩壊してる。0点でもいいくらいだ」
口ではそう呟いた。
だが、胸の奥底でドス黒い感情が渦巻いていた。
羨ましい。
妬ましい。
このふざけた物語が、もし俺の現実だったら。
(……★5をつけてやるよ。憐れみだ。こんなクソ小説、俺以外に誰も評価しねぇだろうからな)
それは言い訳だった。
本当は、認めたかったのだ。この都合の良い世界を。
たったワンクリックで、この「肯定感」と繋がっていたかった。
健の指先が、一番右の星に触れた。
カチリ、と音がした気がした。
その瞬間。
スマートフォンの画面が、砂嵐のようなノイズに覆われた。
「うわっ!?」
健は慌ててスマホを取り落とした。
画面が激しく明滅する。ウイルスか? 変なサイトを踏んだせいか?
バチバチという異音と共に、液晶画面から黒い液体のようなものが滲み出してきた。
インクだ。
黒いインクが、重力に逆らって立ち上がり、人の形を成していく。
シルクハット。モノクル。仕立ての良い燕尾服。
六インチの画面から這い出してきたのは、奇妙な紳士だった。
「ひ、ひぃ……ッ!?」
健は腰を抜かし、背中で床を擦って後ずさった。
幻覚だ。疲れすぎているんだ。
紳士は空中に浮遊したまま、慇懃無礼な笑みを浮かべて健を見下ろした。
「おやおや、そんなに驚かないでくださいよ」
紳士の声は、耳ではなく脳に直接響くようだった。
「今時、幽霊だってモニターから出てくる時代じゃないですか。なら、悪魔が出てきたって何の不思議もありませんよ……くっくっく」
「あ、悪魔……?」
「左様。わたくし、小説家のサイフォンと申します。以後、お見知り置きを」
サイフォンと名乗った怪異は、優雅に一礼した。
健は呼吸を忘れて彼を凝視する。恐怖で歯の根が合わない。
「稚作を読んで下さる貴方は神様です。……して、先ほどの評価、誠にありがとうございました。★5つ、しかと頂戴いたしました」
「あ、あれは、間違いで……! 手が滑っただけで……!」
健は必死に弁解した。こんな化け物に目をつけられたくない。
だが、サイフォンは聞く耳を持たず、嬉しそうに続ける。
「お礼に、貴方の嫌いな人を小説で殺して差し上げましょう。さあ、誰が憎いですか? 職場の上司ですか? 貴方のコメントに反論してきた作家ですか?」
殺す。
物騒な単語に、健の思考が停止する。
だが、サイフォンは健の顔を覗き込み、大げさに首を傾げた。
「おや? 殺したい相手がいないとおっしゃる?」
「い、いない! 俺は誰も殺したくなんて……!」
「嘘はいけませんねぇ。評論家なら、ご自分の心をもっと客観的に分析なさい」
サイフォンのモノクルが怪しく光った。
「安心してください。そんな時は、『嫌いな現実』を生きるアナタ自身を殺してしまえばいいのですよ」
「……は?」
「貴方は憎んでいるはずだ。才能がないと決めつけられ、誰にも認められず、暗い部屋で他人を叩くことしかできない、この『評道健』という男を。違いますか?」
図星だった。
健が誰よりも軽蔑し、直視したくないもの。それは鏡に映る自分自身だ。
「推敲しましょう。今の人生を、物語の人生で上書きするのです。貴方が★5をつけた、あの素晴らしい物語の通りにね」
サイフォンが指を鳴らした。
世界が反転した。
腐った弁当の臭いが消えた。
薄汚れた壁紙が、白亜の壁に変わる。
硬いフローリングの感触が、ふかふかの絨毯に変わる。
健が着ていたヨレヨレのトレーナーは、いつの間にか豪奢なローブになっていた。
「こ、これは……」
窓の外を見ると、見慣れた電信柱ではなく、中世ファンタジー風の城下町が広がっていた。
部屋の扉が開く。
美しい金髪の女性が入ってきた。あの小説に出てきた王女だ。
「ケン様! ああん、探しましたわ!」
王女は健に駆け寄り、その腕に抱きついた。
温かい。柔らかい。甘い香りがする。
夢じゃない。
現実だ。俺は、あの小説の主人公になったんだ。
「あ、あ……」
健の目から涙が溢れた。
これだ。俺が求めていたのはこれだ。
倉庫での単純作業も、ネットでの罵り合いも、すべては悪夢だったんだ。
俺は選ばれたんだ。俺の審美眼が、正当に評価される世界に来たんだ。
サイフォンの姿はもうどこにもなかった。
悪魔との契約なんてどうでもいい。
健は王女を抱きしめ返し、歓喜の声を上げた。
幸せだ。最高だ。この物語は傑作だ!
――それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
健はこの世界を謳歌していた。
何気ない一言が称賛され、指図するだけで国が動く。
苦労も努力もいらない。ただ「そこにいる」だけで、彼は英雄だった。
至福の絶頂。
王宮のバルコニーで、民衆の歓声を浴びていた時だ。
『ピロン』
聞き慣れた電子音が響いた。
空を見上げる。
青空に、巨大な半透明のウィンドウが浮かんでいた。
『今の演説、キャラブレてない? 一人称が「私」から「俺」になってるんだけど』
コメントだった。
Web小説の感想欄のような文字列が、空に焼き付いている。
「な、なんだこれは……?」
健が狼狽えていると、さらに通知音が重なる。
ピロン、ピロン、ピロン。
『英雄なのにオドオドしすぎ。見ててイライラする』
『ご都合主義乙。なんで民衆はこんな奴支持してんの?』
『作者の願望垂れ流しでキモい』
無数のコメントが、雨のように降り注ぐ。
その内容は、かつて健が新人作家たちに投げつけた罵倒そのものだった。
民衆たちの顔が変わっていく。
称賛の笑顔ではない。冷ややかな、値踏みするような目。
彼らの口が、コメントと同じ言葉を紡ぎ出す。
「設定が甘いですね」
「矛盾してますよ」
「やり直したらどうですか?」
「や、やめろ! 俺は英雄だ! ゴッド・アイだぞ!」
健は耳を塞いで叫んだ。だが、声は空からのコメントにかき消される。
『発狂展開とか寒い。もっとマシなリアクションできないの?』
『ハイ、ここで評価下げまーす』
『★1』『★1』『★1』
空間に亀裂が入る。
バルコニーの隅に、あの紳士が立っていた。
サイフォンは、手元の分厚い原稿用紙に、赤いペンで無慈悲にバツ印をつけていた。
「おやおや、読者様の反応が芳しくありませんねぇ」
「た、助けてくれ! これは何だ! 約束が違う!」
健はサイフォンに縋り付こうとした。
だが、体が動かない。指先から徐々に、黒い文字の羅列に変わっていく。
「約束? 私は『物語の人生で上書きする』と申し上げました。
貴方のような『評論家気取りの主人公』が、どういう結末を迎えるのが一番エンターテイメントとして面白いか……。
推敲を重ねた結果、こうなりました」
サイフォンは冷酷な編集者の目で、健を見下ろした。
「貴方はこれから永遠に、この世界で『クソリプ』を浴び続けてください。
それが、貴方という登場人物に相応しい役割(ロール)です」
「いやだ! やめろ! 消さないでくれぇぇ!!」
健の絶叫は、文字に変換されて空に吸い込まれた。
体も、意識も、すべてがテキストデータに分解されていく。
「さて、これにて第一話『審美眼の英雄』は完結です。
……読者の皆様、お気に召しましたら、チャンネル登録と★5評価をお願いしますね」
サイフォンは画面の向こう側の「あなた」に向かってウィンクを投げると、プツンと映像を切るように暗転させた。
後には、ただ無機質なエラーメッセージだけが残された。
『404 Not Found 指定されたユーザーは削除されました』
評道健は、脂ぎった親指で画面を激しくタップしていた。爪の先には、コンビニ弁当の鶏肉のカスが挟まっている。
「……また設定矛盾かよ。これだから素人は」
彼は鼻で笑い、勢いよく『送信』ボタンを押した。
画面には、彼が投稿したばかりのコメントが表示される。
『一章で「魔法は詠唱必須」と書いてあるのに、三章で無詠唱で発動してますよね? ご都合主義もいい加減にしてください。設定資料集からやり直すことをお勧めします』
アカウント名は『ゴッド・アイ』。
フォロワー数は三桁にも満たないが、彼のプロフィール欄には「辛口評論家。真の傑作しか認めない」と書かれている。
健は三十代半ばの派遣社員だ。昼間は倉庫で段ボールを仕分ける単純作業に従事し、上司からは名前すらまともに呼ばれない。
だが、この六インチの画面の中だけでは違う。彼は神の視点を持つ審判者であり、未熟な作家たちを断罪する処刑人になれるのだ。
「次、次だ」
彼は獲物を探す獣の目で、Web小説投稿サイトのランキングをスクロールした。
どいつもこいつも、似たり寄ったりのタイトルばかりだ。異世界、転生、追放、ざまぁ……。
流行りに乗っかっただけの粗製乱造。吐き気がする。俺ならもっとうまく書ける。書かないだけだ。まだ本気を出していないだけだ。
その時だった。
スクロールする指が、奇妙なバナー広告で止まった。
極めてシンプルな、黒地に白文字だけのバナー。
派手なイラストも、煽情的なキャッチコピーもない。ただ、明朝体でこう書かれていた。
『一生懸命書きました。アナタの人生「あなた」の幸せがココに詰まっています。』
健は眉をひそめた。
Web広告のセオリーを無視したデザインだ。クリック率など端から考えていないような、不気味なほどの素朴さ。
だが、その「一生懸命」という言葉が、妙に神経を逆撫でした。
一生懸命なら評価されるとでも? 甘えるな。結果が全てだ。
「……見てやるよ。どんな稚作か」
彼は嘲笑を浮かべ、バナーをタップした。
画面が遷移する。
サイト名は『カタルシス』。聞いたことのない投稿サイトだ。
掲載作品は一つだけ。
『【完結保証】アナタの人生「あなた」が主人公の物語』
作者名:サイフォン
あらすじも簡素だった。
『アナタの人生「あなた」が主人公の物語です。もし、お気に召したら★5をお願いします。』
「なんだこれ。ナメてんのか」
健は毒づきながらも、第一話を読み始めた。
冒頭の描写からして、稚拙だった。
主人公の名前は「ケン」。
年齢は三十四歳。倉庫作業員。趣味はネットサーフィン。
描写されるアパートの間取りも、散らかった部屋の様子も、まるで健の今の状況を盗撮したかのように酷似している。
「……ハッ、俺をモデルにしたつもりか? リアリティだけはあるな」
偶然の一致にしては出来すぎているが、健の興味は「作品の粗探し」に向いていたため、その異常性を「作者の悪趣味なリサーチ」程度にしか捉えなかった。
読み進めると、物語は急展開を迎える。
主人公のケンが、通勤途中に異世界へと召喚されるのだ。ここまではよくある展開だ。
だが、そこからが違った。
異世界の人々は、ケンの「批評眼」を絶賛したのだ。
彼が魔法体系の矛盾を指摘すると、王宮魔導士長が土下座して教えを乞うた。
彼が騎士団の作戦の甘さを嘲笑すると、王女が「貴方こそ真の軍師」と抱きついてきた。
彼が酒場の飯の味を批判すると、店主が涙を流して感謝し、最高級の料理をタダで振る舞った。
「…………は?」
健の口から、乾いた声が漏れた。
なんだ、この小説は。
ご都合主義どころの話ではない。作者の妄想を垂れ流しただけの、文字通りのゴミだ。
文章力は皆無。構成も破綻している。カタルシスの積み上げもなく、ただ主人公が全肯定されるだけの安っぽいポルノ。
つまらない。
つまらないはずだった。
なのに、指が止まらない。
スクロールするたびに、画面の中の「ケン」は称賛され、富と名声を手に入れていく。
現実の健が、倉庫の片隅で誰にも認められずに腐らせていた「俺は正しい」という自尊心を、物語の中の世界は全力で肯定してくれる。
(馬鹿馬鹿しい。こんなの、俺が書いたほうがマシだ)
思考とは裏腹に、健の心拍数は上がっていた。
悔しかった。
こんな稚拙な文章の主人公が、なぜこんなに幸せなんだ。
俺は今、コンビニ弁当の残骸に囲まれて、誰からも必要とされていないのに。
この「ケン」は俺だ。俺と同じスペックだ。なら、どうして俺は今、王女に抱きしめられていない?
最終話まで一気に読了していた。
物語の最後、ケンは「審美眼の英雄」として銅像を建てられ、ハーレムに囲まれて余生を過ごす。
画面の最下部には、評価システムが表示されていた。
『面白かったら★5評価をお願いします』
星は五段階。現在は評価ゼロ。
健は震える指を画面にかざした。
「……駄作だ。プロットもキャラも崩壊してる。0点でもいいくらいだ」
口ではそう呟いた。
だが、胸の奥底でドス黒い感情が渦巻いていた。
羨ましい。
妬ましい。
このふざけた物語が、もし俺の現実だったら。
(……★5をつけてやるよ。憐れみだ。こんなクソ小説、俺以外に誰も評価しねぇだろうからな)
それは言い訳だった。
本当は、認めたかったのだ。この都合の良い世界を。
たったワンクリックで、この「肯定感」と繋がっていたかった。
健の指先が、一番右の星に触れた。
カチリ、と音がした気がした。
その瞬間。
スマートフォンの画面が、砂嵐のようなノイズに覆われた。
「うわっ!?」
健は慌ててスマホを取り落とした。
画面が激しく明滅する。ウイルスか? 変なサイトを踏んだせいか?
バチバチという異音と共に、液晶画面から黒い液体のようなものが滲み出してきた。
インクだ。
黒いインクが、重力に逆らって立ち上がり、人の形を成していく。
シルクハット。モノクル。仕立ての良い燕尾服。
六インチの画面から這い出してきたのは、奇妙な紳士だった。
「ひ、ひぃ……ッ!?」
健は腰を抜かし、背中で床を擦って後ずさった。
幻覚だ。疲れすぎているんだ。
紳士は空中に浮遊したまま、慇懃無礼な笑みを浮かべて健を見下ろした。
「おやおや、そんなに驚かないでくださいよ」
紳士の声は、耳ではなく脳に直接響くようだった。
「今時、幽霊だってモニターから出てくる時代じゃないですか。なら、悪魔が出てきたって何の不思議もありませんよ……くっくっく」
「あ、悪魔……?」
「左様。わたくし、小説家のサイフォンと申します。以後、お見知り置きを」
サイフォンと名乗った怪異は、優雅に一礼した。
健は呼吸を忘れて彼を凝視する。恐怖で歯の根が合わない。
「稚作を読んで下さる貴方は神様です。……して、先ほどの評価、誠にありがとうございました。★5つ、しかと頂戴いたしました」
「あ、あれは、間違いで……! 手が滑っただけで……!」
健は必死に弁解した。こんな化け物に目をつけられたくない。
だが、サイフォンは聞く耳を持たず、嬉しそうに続ける。
「お礼に、貴方の嫌いな人を小説で殺して差し上げましょう。さあ、誰が憎いですか? 職場の上司ですか? 貴方のコメントに反論してきた作家ですか?」
殺す。
物騒な単語に、健の思考が停止する。
だが、サイフォンは健の顔を覗き込み、大げさに首を傾げた。
「おや? 殺したい相手がいないとおっしゃる?」
「い、いない! 俺は誰も殺したくなんて……!」
「嘘はいけませんねぇ。評論家なら、ご自分の心をもっと客観的に分析なさい」
サイフォンのモノクルが怪しく光った。
「安心してください。そんな時は、『嫌いな現実』を生きるアナタ自身を殺してしまえばいいのですよ」
「……は?」
「貴方は憎んでいるはずだ。才能がないと決めつけられ、誰にも認められず、暗い部屋で他人を叩くことしかできない、この『評道健』という男を。違いますか?」
図星だった。
健が誰よりも軽蔑し、直視したくないもの。それは鏡に映る自分自身だ。
「推敲しましょう。今の人生を、物語の人生で上書きするのです。貴方が★5をつけた、あの素晴らしい物語の通りにね」
サイフォンが指を鳴らした。
世界が反転した。
腐った弁当の臭いが消えた。
薄汚れた壁紙が、白亜の壁に変わる。
硬いフローリングの感触が、ふかふかの絨毯に変わる。
健が着ていたヨレヨレのトレーナーは、いつの間にか豪奢なローブになっていた。
「こ、これは……」
窓の外を見ると、見慣れた電信柱ではなく、中世ファンタジー風の城下町が広がっていた。
部屋の扉が開く。
美しい金髪の女性が入ってきた。あの小説に出てきた王女だ。
「ケン様! ああん、探しましたわ!」
王女は健に駆け寄り、その腕に抱きついた。
温かい。柔らかい。甘い香りがする。
夢じゃない。
現実だ。俺は、あの小説の主人公になったんだ。
「あ、あ……」
健の目から涙が溢れた。
これだ。俺が求めていたのはこれだ。
倉庫での単純作業も、ネットでの罵り合いも、すべては悪夢だったんだ。
俺は選ばれたんだ。俺の審美眼が、正当に評価される世界に来たんだ。
サイフォンの姿はもうどこにもなかった。
悪魔との契約なんてどうでもいい。
健は王女を抱きしめ返し、歓喜の声を上げた。
幸せだ。最高だ。この物語は傑作だ!
――それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
健はこの世界を謳歌していた。
何気ない一言が称賛され、指図するだけで国が動く。
苦労も努力もいらない。ただ「そこにいる」だけで、彼は英雄だった。
至福の絶頂。
王宮のバルコニーで、民衆の歓声を浴びていた時だ。
『ピロン』
聞き慣れた電子音が響いた。
空を見上げる。
青空に、巨大な半透明のウィンドウが浮かんでいた。
『今の演説、キャラブレてない? 一人称が「私」から「俺」になってるんだけど』
コメントだった。
Web小説の感想欄のような文字列が、空に焼き付いている。
「な、なんだこれは……?」
健が狼狽えていると、さらに通知音が重なる。
ピロン、ピロン、ピロン。
『英雄なのにオドオドしすぎ。見ててイライラする』
『ご都合主義乙。なんで民衆はこんな奴支持してんの?』
『作者の願望垂れ流しでキモい』
無数のコメントが、雨のように降り注ぐ。
その内容は、かつて健が新人作家たちに投げつけた罵倒そのものだった。
民衆たちの顔が変わっていく。
称賛の笑顔ではない。冷ややかな、値踏みするような目。
彼らの口が、コメントと同じ言葉を紡ぎ出す。
「設定が甘いですね」
「矛盾してますよ」
「やり直したらどうですか?」
「や、やめろ! 俺は英雄だ! ゴッド・アイだぞ!」
健は耳を塞いで叫んだ。だが、声は空からのコメントにかき消される。
『発狂展開とか寒い。もっとマシなリアクションできないの?』
『ハイ、ここで評価下げまーす』
『★1』『★1』『★1』
空間に亀裂が入る。
バルコニーの隅に、あの紳士が立っていた。
サイフォンは、手元の分厚い原稿用紙に、赤いペンで無慈悲にバツ印をつけていた。
「おやおや、読者様の反応が芳しくありませんねぇ」
「た、助けてくれ! これは何だ! 約束が違う!」
健はサイフォンに縋り付こうとした。
だが、体が動かない。指先から徐々に、黒い文字の羅列に変わっていく。
「約束? 私は『物語の人生で上書きする』と申し上げました。
貴方のような『評論家気取りの主人公』が、どういう結末を迎えるのが一番エンターテイメントとして面白いか……。
推敲を重ねた結果、こうなりました」
サイフォンは冷酷な編集者の目で、健を見下ろした。
「貴方はこれから永遠に、この世界で『クソリプ』を浴び続けてください。
それが、貴方という登場人物に相応しい役割(ロール)です」
「いやだ! やめろ! 消さないでくれぇぇ!!」
健の絶叫は、文字に変換されて空に吸い込まれた。
体も、意識も、すべてがテキストデータに分解されていく。
「さて、これにて第一話『審美眼の英雄』は完結です。
……読者の皆様、お気に召しましたら、チャンネル登録と★5評価をお願いしますね」
サイフォンは画面の向こう側の「あなた」に向かってウィンクを投げると、プツンと映像を切るように暗転させた。
後には、ただ無機質なエラーメッセージだけが残された。
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「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」
「そんな!リカルド酷い!」
マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している
この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ
タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」
「まってくれタバサ!誤解なんだ」
リカルドを置いて、タバサは席を立った
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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