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第02話:『KIRARA』の加工と素材化
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映見はスマートフォンの画面をタップし、画像の明るさをプラス十五、彩度をプラス十に調整した。
画面の中で、コンビニで買った三百円のカップケーキが、まるで高級ホテルのラウンジで提供されるスイーツのように輝き出す。
背景に映り込んだ生活感のあるゴミ箱は、AI消しゴム機能で丁寧に抹消済みだ。
「よし、完璧」
彼女は『送信』ボタンを押した。
アカウント名は『KIRARA』。フォロワー数は五万人を超える。
プロフィール欄には「丁寧な暮らし」「美容」「カフェ巡り」といった、耳障りの良い単語が並んでいる。
『午後のティータイム。自分へのご褒美に、お気に入りのパティスリーへ来ています』
嘘だった。
ここは築四十年の木造アパートの一室だ。
六畳の部屋は、足の踏み場もないほど散らかっている。脱ぎ捨てられた服、飲みかけのペットボトル、撮影用に買ってタグだけ残したブランドの紙袋。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、映見は膝を抱え、通知が来るのを待った。
ブブッ。
すぐに反応があった。
『KIRARAさんのセンス憧れます!』
『私もそこ行きたいです~』
『今日も可愛いですね!』
承認の電子音が鳴るたびに、脳内で何かが麻痺していくような快感を覚える。
これが私の価値だ。
この数字こそが、私という人間の全てだ。
ふと、スマートフォンの画面が暗転し、自分の顔が映り込んだ。
そこには、ボサボサの髪にすっぴん、目の下にクマを作った、冴えない女がいた。
「……見たくない」
映見は舌打ちをして、急いで画面を点灯させた。
現実の自分なんてゴミだ。
加工アプリを通さないと、鏡を見ることもできない。
彼女は逃げるようにタイムラインをスクロールした。
他人のキラキラした投稿が流れてくる。
海外旅行、高級ディナー、プレゼント。
胸がざわつく。
こいつの鼻の形、整形じゃない? このバッグ、レンタルじゃない?
疑心暗鬼と嫉妬が渦巻く。私の方がセンスはあるのに。私の方が、もっと見られるべきなのに。
その時、指先が止まった。
見慣れない広告が、タイムラインの間に挟まっていた。
『一生懸命書きました。アナタの人生「あなた」の幸せがココに詰まっています。』
黒地に白文字。デザイン性のかけらもない、素人がパワーポイントで作ったようなバナーだった。
普段なら「ダサい」と一蹴してスルーするはずだった。
だが、その不気味なほどの素朴さが、嘘で塗り固められた彼女の目に、妙に異質なものとして映った。
「アナタの人生、ねぇ……」
暇つぶしにはなるかもしれない。
映見は軽い気持ちでタップした。
サイト名は『カタルシス』。
『【完結保証】アナタの人生「あなた」が主人公の物語』
作者名:サイフォン
あらすじには、こう書かれていた。
『アナタの人生「あなた」が主人公の物語です。もし、お気に召したら★5をお願いします。』
物語の主人公の名前は「キララ」だった。
王国の公爵令嬢。
生まれながらにして絶世の美貌を持ち、肌は白磁のように滑らかで、瞳は宝石のように輝いている。
もちろん、加工なんて必要ない。
朝起きた瞬間から、彼女は世界一美しかった。
(……なによこれ。ベタな設定)
鼻で笑いながら読み進める。
物語の中のキララは、何もしない。
ただ微笑むだけで、王子が求婚してくる。
ただ座っているだけで、絵画のようだと称賛される。
努力も、演出も、画角の調整もいらない。
彼女が存在するだけで、世界中が「いいね」を押しているようなものだった。
悔しかった。
画面を握る手に力がこもる。
私は毎日、必死に光を探して、角度を研究して、何十分もかけて加工しているのに。
この主人公は、ただ「ある」だけで愛されている。
物語は、キララが国一番の聖女として崇められ、永遠の美を約束されるハッピーエンドで幕を閉じた。
読了後、映見の頬には涙が伝っていた。
羨ましい。
これが私だったら。
加工アプリの中だけの虚像じゃなくて、これが本当の私だったら。
画面最下部に、評価ボタンが現れる。
『面白かったら★5評価をお願いします』
「……面白くはないわよ。都合が良すぎて、リアリティがない」
独り言をつぶやく。
だが、指は動いた。
この世界が欲しい。
この「キララ」になりたい。
現実の薄汚い部屋で、コンビニスイーツを撮影するだけの人生なんて、もううんざりだ。
(あげるわよ、★5くらい。どうせ誰も見てない過疎サイトでしょ)
それは、自分への嘘だった。
本当は、この物語に縋り付きたかった。
彼女は震える指で、一番右の星をタップした。
ザザッ。
不快なノイズが走り、画面が歪んだ。
アプリが落ちたのかと思った直後、液晶の奥から「手」が伸びてきた。
白い手袋を嵌めた、紳士の手だ。
「きゃあぁぁっ!?」
映見はスマートフォンを放り投げた。
だが、手は画面の枠を掴み、強引に身体を引きずり出してきた。
シルクハットにモノクル。
時代錯誤な燕尾服を着た男が、散らかった六畳間に音もなく着地する。
「おやおや、そんなに驚かないでくださいよ」
男は服の埃を払う仕草を見せ、優雅に微笑んだ。
「今時、幽霊だってモニターから出てくる時代じゃないですか。なら、悪魔が出てきたって何の不思議もありませんよ……くっくっく」
「あ、悪魔……? な、なんなのよアンタ! 不法侵入で警察呼ぶわよ!」
映見は後ずさりながら叫んだ。
だが、男――サイフォンは、部屋の惨状を見回して、皮肉げに眉を上げた。
「警察ですか。それは困りますねぇ。SNSでは『丁寧な暮らし』をしているはずのKIRARA様が、こんなゴミ溜めにお住まいだとバレてしまいますよ?」
「っ……!」
痛いところを突かれ、言葉に詰まる。
「はじめまして。わたくし、小説家のサイフォンと申します。先ほどは『稚作』への高評価、誠にありがとうございました」
「か、帰って……!」
「お礼に、貴方の嫌いな人を小説で殺して差し上げましょう。さあ、誰ですか? 貴方よりフォロワーの多いライバルですか? アンチコメントを送ってくる暇人ですか?」
殺す。
サイフォンの口から出た言葉の冷たさに、背筋が凍る。
誰かを消したいと思ったことはある。
自分より可愛くて、金持ちで、幸せそうな女たち全員がいなくなればいいと。
でも、一人を選べと言われても、顔も浮かばない。
私が本当に憎いのは――。
「……いない? おや、殺したい相手がいないとおっしゃる」
サイフォンは、映見の顔を覗き込んだ。モノクルの奥の瞳が、彼女の心の底まで見透かすように細められる。
「安心してください。そんな時は、『嫌いな現実』を生きるアナタ自身を殺してしまえばいいのですよ」
「私を……殺す……?」
「ええ。貴方はもう、現実のご自分になど興味がないでしょう? 鏡を見るのも嫌だ。加工アプリを通した『KIRARA』だけが本物だと思っている」
サイフォンが、床に落ちたスマートフォンを拾い上げた。
画面には、過剰に加工された映見の自撮りが映っている。
「推敲しましょう。今の惨めな人生を、物語の人生で上書きするのです。嘘も加工も必要ない、本物の『キララ』に」
悪魔の囁きだった。
だが、それは映見にとって、どんな救いの言葉よりも甘美に響いた。
この汚い部屋も、借金も、すっぴんの自分も、全部消してくれると言うのか。
「……なれるの? あの小説の主人公に」
「ええ。貴方が★5を押して契約した通りに」
サイフォンが指を鳴らした。
世界が粒子のレベルで分解され、再構築されていく。
カビ臭い空気は花の香りに変わり、薄汚れた壁紙は大理石の柱になった。
映見が着ていたジャージは、最高級のシルクのドレスへと変化する。
窓の外には、美しい庭園が広がっていた。
鳥がさえずり、噴水が輝いている。
通りかかった召使いが、映見を見て頬を染め、跪いた。
「おはようございます、キララ様。今日も世界でお一番お美しい」
「あ……」
映見は恐る恐る、近くにあった姿見を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、加工アプリの中の自分よりも、さらに完璧な美女だった。
肌は陶器のように白く、目は大きく、ウエストは信じられないほど細い。
修正なんていらない。
フィルターもいらない。
私が、本物のキララだ。
「すごい……これが、私……」
彼女は鏡の前でポーズを取った。
どの角度から見ても完璧だ。死角がない。
これなら、どんなインフルエンサーにも負けない。私が一番だ。
サイフォンの姿はもうなかった。
映見は歓喜のままにバルコニーへ出た。
眼下には大勢の民衆が集まっていた。彼らは一斉に彼女を見上げ、ため息を漏らす。
「美しい……」
「聖女様だ……」
視線が心地よい。
もっと見て。もっと私を称賛して。
映見は手すりに手をかけ、優雅に微笑んだ。
カメラのレンズなどない。この世界のすべてが、私を映す瞳なのだ。
最高の気分だった。人生で一番の「いいね」を浴びている気分だ。
――だが。
その幸福は、唐突に違和感へと変わった。
動けない。
バルコニーの手すりに置いた手が、離れないのだ。
いや、手だけではない。足も、首も、視線さえも。
まるで空気が透明な樹脂に変わってしまったかのように、ピクリとも動かせない。
(え? なに? どうなってるの?)
焦って叫ぼうとしたが、唇も動かなかった。
ただ、優雅に微笑んだままの表情で固定されている。
視界の隅に、空中に浮かぶ文字が見えた。
『画像データ統合中……レイヤーを結合しました』
無機質なシステムログと共に、空間にあの男が現れた。
サイフォンは、空中に浮かべた巨大なモニターを操作していた。そこには、バルコニーで微笑む「キララ」の画像が表示されている。
「おやおや、どうかしましたか? そんなに硬くなって」
サイフォンは楽しげに、動けない映見の頬をペチペチと叩いた。
感触がない。
自分の肌が、人間の肉体ではなく、硬質な「素材」に変わってしまったかのようだ。
「貴女は望んでいましたよね? ただ『在る』だけで愛されたいと。行動も、努力も、言葉さえもいらない。ただ美しい外見だけを称賛されたいと」
サイフォンは手元のペンタブレットで、映見の画像をさらに拡大した。
「小説において、何もせずにただそこにいて、場面を華やかにするためだけの存在……それを我々は『背景(書き割り)』と呼びます」
(背景……!? 嘘でしょ、やめて!)
心の中で叫ぶが、声にはならない。
彼女はもう、人間ではなかった。
この世界を彩るための、高解像度のテクスチャデータに過ぎないのだ。
「素晴らしい。完璧な造形です。これなら読者も、貴女という美しい『置物』を見て満足するでしょう」
サイフォンは満足げに頷き、最後の仕上げとばかりに操作パネルを叩いた。
「保存形式は……そうですね、劣化しないように書き込み禁止(ロック)をかけておきましょう。
これで貴女は、永遠に歳を取ることもなく、動くこともなく、誰かに見られ続けることができますよ。おめでとうございます」
視界が固定される。
民衆たちの視線が、永遠に彼女に注がれる。
だが、それは人間に対する眼差しではない。
美術館の絵画や、ショーケースのマネキンを見る目だ。
瞬きさえ許されない瞳に、サイフォンの顔が近づく。
彼は画面の向こう側の「あなた」に向かって、恭しく一礼した。
「さて、これにて第二話『聖女のいる風景』は完結です。
……読者の皆様、この美しい背景素材がお気に召しましたら、スクショと★5評価をお願いしますね」
サイフォンの指が、虚空のスイッチを切る。
映見の意識は、永遠に微笑む彫像の中に閉じ込められたまま、暗転した。
画面の中で、コンビニで買った三百円のカップケーキが、まるで高級ホテルのラウンジで提供されるスイーツのように輝き出す。
背景に映り込んだ生活感のあるゴミ箱は、AI消しゴム機能で丁寧に抹消済みだ。
「よし、完璧」
彼女は『送信』ボタンを押した。
アカウント名は『KIRARA』。フォロワー数は五万人を超える。
プロフィール欄には「丁寧な暮らし」「美容」「カフェ巡り」といった、耳障りの良い単語が並んでいる。
『午後のティータイム。自分へのご褒美に、お気に入りのパティスリーへ来ています』
嘘だった。
ここは築四十年の木造アパートの一室だ。
六畳の部屋は、足の踏み場もないほど散らかっている。脱ぎ捨てられた服、飲みかけのペットボトル、撮影用に買ってタグだけ残したブランドの紙袋。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、映見は膝を抱え、通知が来るのを待った。
ブブッ。
すぐに反応があった。
『KIRARAさんのセンス憧れます!』
『私もそこ行きたいです~』
『今日も可愛いですね!』
承認の電子音が鳴るたびに、脳内で何かが麻痺していくような快感を覚える。
これが私の価値だ。
この数字こそが、私という人間の全てだ。
ふと、スマートフォンの画面が暗転し、自分の顔が映り込んだ。
そこには、ボサボサの髪にすっぴん、目の下にクマを作った、冴えない女がいた。
「……見たくない」
映見は舌打ちをして、急いで画面を点灯させた。
現実の自分なんてゴミだ。
加工アプリを通さないと、鏡を見ることもできない。
彼女は逃げるようにタイムラインをスクロールした。
他人のキラキラした投稿が流れてくる。
海外旅行、高級ディナー、プレゼント。
胸がざわつく。
こいつの鼻の形、整形じゃない? このバッグ、レンタルじゃない?
疑心暗鬼と嫉妬が渦巻く。私の方がセンスはあるのに。私の方が、もっと見られるべきなのに。
その時、指先が止まった。
見慣れない広告が、タイムラインの間に挟まっていた。
『一生懸命書きました。アナタの人生「あなた」の幸せがココに詰まっています。』
黒地に白文字。デザイン性のかけらもない、素人がパワーポイントで作ったようなバナーだった。
普段なら「ダサい」と一蹴してスルーするはずだった。
だが、その不気味なほどの素朴さが、嘘で塗り固められた彼女の目に、妙に異質なものとして映った。
「アナタの人生、ねぇ……」
暇つぶしにはなるかもしれない。
映見は軽い気持ちでタップした。
サイト名は『カタルシス』。
『【完結保証】アナタの人生「あなた」が主人公の物語』
作者名:サイフォン
あらすじには、こう書かれていた。
『アナタの人生「あなた」が主人公の物語です。もし、お気に召したら★5をお願いします。』
物語の主人公の名前は「キララ」だった。
王国の公爵令嬢。
生まれながらにして絶世の美貌を持ち、肌は白磁のように滑らかで、瞳は宝石のように輝いている。
もちろん、加工なんて必要ない。
朝起きた瞬間から、彼女は世界一美しかった。
(……なによこれ。ベタな設定)
鼻で笑いながら読み進める。
物語の中のキララは、何もしない。
ただ微笑むだけで、王子が求婚してくる。
ただ座っているだけで、絵画のようだと称賛される。
努力も、演出も、画角の調整もいらない。
彼女が存在するだけで、世界中が「いいね」を押しているようなものだった。
悔しかった。
画面を握る手に力がこもる。
私は毎日、必死に光を探して、角度を研究して、何十分もかけて加工しているのに。
この主人公は、ただ「ある」だけで愛されている。
物語は、キララが国一番の聖女として崇められ、永遠の美を約束されるハッピーエンドで幕を閉じた。
読了後、映見の頬には涙が伝っていた。
羨ましい。
これが私だったら。
加工アプリの中だけの虚像じゃなくて、これが本当の私だったら。
画面最下部に、評価ボタンが現れる。
『面白かったら★5評価をお願いします』
「……面白くはないわよ。都合が良すぎて、リアリティがない」
独り言をつぶやく。
だが、指は動いた。
この世界が欲しい。
この「キララ」になりたい。
現実の薄汚い部屋で、コンビニスイーツを撮影するだけの人生なんて、もううんざりだ。
(あげるわよ、★5くらい。どうせ誰も見てない過疎サイトでしょ)
それは、自分への嘘だった。
本当は、この物語に縋り付きたかった。
彼女は震える指で、一番右の星をタップした。
ザザッ。
不快なノイズが走り、画面が歪んだ。
アプリが落ちたのかと思った直後、液晶の奥から「手」が伸びてきた。
白い手袋を嵌めた、紳士の手だ。
「きゃあぁぁっ!?」
映見はスマートフォンを放り投げた。
だが、手は画面の枠を掴み、強引に身体を引きずり出してきた。
シルクハットにモノクル。
時代錯誤な燕尾服を着た男が、散らかった六畳間に音もなく着地する。
「おやおや、そんなに驚かないでくださいよ」
男は服の埃を払う仕草を見せ、優雅に微笑んだ。
「今時、幽霊だってモニターから出てくる時代じゃないですか。なら、悪魔が出てきたって何の不思議もありませんよ……くっくっく」
「あ、悪魔……? な、なんなのよアンタ! 不法侵入で警察呼ぶわよ!」
映見は後ずさりながら叫んだ。
だが、男――サイフォンは、部屋の惨状を見回して、皮肉げに眉を上げた。
「警察ですか。それは困りますねぇ。SNSでは『丁寧な暮らし』をしているはずのKIRARA様が、こんなゴミ溜めにお住まいだとバレてしまいますよ?」
「っ……!」
痛いところを突かれ、言葉に詰まる。
「はじめまして。わたくし、小説家のサイフォンと申します。先ほどは『稚作』への高評価、誠にありがとうございました」
「か、帰って……!」
「お礼に、貴方の嫌いな人を小説で殺して差し上げましょう。さあ、誰ですか? 貴方よりフォロワーの多いライバルですか? アンチコメントを送ってくる暇人ですか?」
殺す。
サイフォンの口から出た言葉の冷たさに、背筋が凍る。
誰かを消したいと思ったことはある。
自分より可愛くて、金持ちで、幸せそうな女たち全員がいなくなればいいと。
でも、一人を選べと言われても、顔も浮かばない。
私が本当に憎いのは――。
「……いない? おや、殺したい相手がいないとおっしゃる」
サイフォンは、映見の顔を覗き込んだ。モノクルの奥の瞳が、彼女の心の底まで見透かすように細められる。
「安心してください。そんな時は、『嫌いな現実』を生きるアナタ自身を殺してしまえばいいのですよ」
「私を……殺す……?」
「ええ。貴方はもう、現実のご自分になど興味がないでしょう? 鏡を見るのも嫌だ。加工アプリを通した『KIRARA』だけが本物だと思っている」
サイフォンが、床に落ちたスマートフォンを拾い上げた。
画面には、過剰に加工された映見の自撮りが映っている。
「推敲しましょう。今の惨めな人生を、物語の人生で上書きするのです。嘘も加工も必要ない、本物の『キララ』に」
悪魔の囁きだった。
だが、それは映見にとって、どんな救いの言葉よりも甘美に響いた。
この汚い部屋も、借金も、すっぴんの自分も、全部消してくれると言うのか。
「……なれるの? あの小説の主人公に」
「ええ。貴方が★5を押して契約した通りに」
サイフォンが指を鳴らした。
世界が粒子のレベルで分解され、再構築されていく。
カビ臭い空気は花の香りに変わり、薄汚れた壁紙は大理石の柱になった。
映見が着ていたジャージは、最高級のシルクのドレスへと変化する。
窓の外には、美しい庭園が広がっていた。
鳥がさえずり、噴水が輝いている。
通りかかった召使いが、映見を見て頬を染め、跪いた。
「おはようございます、キララ様。今日も世界でお一番お美しい」
「あ……」
映見は恐る恐る、近くにあった姿見を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、加工アプリの中の自分よりも、さらに完璧な美女だった。
肌は陶器のように白く、目は大きく、ウエストは信じられないほど細い。
修正なんていらない。
フィルターもいらない。
私が、本物のキララだ。
「すごい……これが、私……」
彼女は鏡の前でポーズを取った。
どの角度から見ても完璧だ。死角がない。
これなら、どんなインフルエンサーにも負けない。私が一番だ。
サイフォンの姿はもうなかった。
映見は歓喜のままにバルコニーへ出た。
眼下には大勢の民衆が集まっていた。彼らは一斉に彼女を見上げ、ため息を漏らす。
「美しい……」
「聖女様だ……」
視線が心地よい。
もっと見て。もっと私を称賛して。
映見は手すりに手をかけ、優雅に微笑んだ。
カメラのレンズなどない。この世界のすべてが、私を映す瞳なのだ。
最高の気分だった。人生で一番の「いいね」を浴びている気分だ。
――だが。
その幸福は、唐突に違和感へと変わった。
動けない。
バルコニーの手すりに置いた手が、離れないのだ。
いや、手だけではない。足も、首も、視線さえも。
まるで空気が透明な樹脂に変わってしまったかのように、ピクリとも動かせない。
(え? なに? どうなってるの?)
焦って叫ぼうとしたが、唇も動かなかった。
ただ、優雅に微笑んだままの表情で固定されている。
視界の隅に、空中に浮かぶ文字が見えた。
『画像データ統合中……レイヤーを結合しました』
無機質なシステムログと共に、空間にあの男が現れた。
サイフォンは、空中に浮かべた巨大なモニターを操作していた。そこには、バルコニーで微笑む「キララ」の画像が表示されている。
「おやおや、どうかしましたか? そんなに硬くなって」
サイフォンは楽しげに、動けない映見の頬をペチペチと叩いた。
感触がない。
自分の肌が、人間の肉体ではなく、硬質な「素材」に変わってしまったかのようだ。
「貴女は望んでいましたよね? ただ『在る』だけで愛されたいと。行動も、努力も、言葉さえもいらない。ただ美しい外見だけを称賛されたいと」
サイフォンは手元のペンタブレットで、映見の画像をさらに拡大した。
「小説において、何もせずにただそこにいて、場面を華やかにするためだけの存在……それを我々は『背景(書き割り)』と呼びます」
(背景……!? 嘘でしょ、やめて!)
心の中で叫ぶが、声にはならない。
彼女はもう、人間ではなかった。
この世界を彩るための、高解像度のテクスチャデータに過ぎないのだ。
「素晴らしい。完璧な造形です。これなら読者も、貴女という美しい『置物』を見て満足するでしょう」
サイフォンは満足げに頷き、最後の仕上げとばかりに操作パネルを叩いた。
「保存形式は……そうですね、劣化しないように書き込み禁止(ロック)をかけておきましょう。
これで貴女は、永遠に歳を取ることもなく、動くこともなく、誰かに見られ続けることができますよ。おめでとうございます」
視界が固定される。
民衆たちの視線が、永遠に彼女に注がれる。
だが、それは人間に対する眼差しではない。
美術館の絵画や、ショーケースのマネキンを見る目だ。
瞬きさえ許されない瞳に、サイフォンの顔が近づく。
彼は画面の向こう側の「あなた」に向かって、恭しく一礼した。
「さて、これにて第二話『聖女のいる風景』は完結です。
……読者の皆様、この美しい背景素材がお気に召しましたら、スクショと★5評価をお願いしますね」
サイフォンの指が、虚空のスイッチを切る。
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