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第01章:銀のコンパスの唄(全06話)
第05話:老婆より、リコへ
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西へ。
ペンダントに導かれ、リコとクロがたどり着いたのは、寂れた漁村だった。
潮の香りが、ひび割れた石畳の隙間から、物悲しく立ち上っている。
今回の配達先は、その村で一番古い、海風に白く灼けた一軒家だった。
リコが届けるのは、三日前に海で死んだ老漁師からの、最後の「手紙」。
受取人は、家に一人残された、その妻である。
「……お届けものです」
リコの差し出した手紙を、足の不自由な老婆は、訝しげな目つきで受け取った。
震える手で封を開き、そこに綴られた夫の最後の言葉に目を通す。
『お前を一人残していく。すまなかった。達者でな』
それは、不器用な男の、精一杯の愛情と後悔の言葉だった。
だが、老婆の反応は、リコの予想とは全く違うものだった。
「ふんっ! 何が『すまなかった』だい!」
老婆は、手紙をくしゃりと握りつぶすと、部屋の隅に投げ捨てた。
「勝手に死んじまって……あたしを一人ぼっちにしやがって! 子供たちも寄りつきゃしない。この足じゃ、ろくに歩けもしない。これから、どうやって生きてけって言うんだい!」
その瞳に浮かぶのは、悲しみよりも、深い孤独と、世界に対する憎悪に近い、ひねくれた感情だった。
老婆は、じろりとリコを見た。その目に、ずる賢い光が宿る。
「……あんただね、変な手紙をよこしたのは。ちょうどいい。あの人が死んだのも、あんたのせいみたいなもんだ。あんたが、あたしの面倒を見るんだよ。いいね?」
◇
その日から、リコの奇妙な一ヶ月が始まった。
老婆は、足が不自由なのをいいことに、リコを召使いのようにこき使った。
部屋の掃除、食事の支度、町への買い物。
そして、遠い町で暮らす息子夫婦への手紙を、来る日も来る日も書かせた。
その手紙に、返事が来ることは一度もなかった。
クロは「さっさとずらかろうぜ」と悪態をついたが、リコは何も言わず、ただ黙々と老婆の要求に応え続けた。
彼女の目には、老婆のひねくれた言葉の奥に、すがりつくような、か細い孤独の影が視えていたからだ。
一ヶ月が経つ頃、あれほど口うるさかった老婆が、急に口数が少なくなった。
まるで、燃え尽きる寸前の蝋燭のように、その生命の灯火が、急速に失われていくのが分かった。
ある嵐の夜、老婆は、ベッドの中から、か細い声でリコを呼んだ。
「……リコちゃん。もう、潮時みたいだね…」
その顔からは、いつもの険しさが消え、不思議なほど穏やかな表情をしていた。
「……あたしが死んだら、息子に、財産の処分のことだけ伝えておくれ。それから……あんたは、もう好きなところに行きな。長い間、すまなかったねぇ……」
それが、老婆の最後の言葉だった。
◇
リコは、約束通り、町に住む老婆の息子に、その死を伝えた。
息子は悲しそうな顔をしたが、その隣に立つ嫁は、安堵のため息を漏らした。
「ええ…。大変な方でしたから…。これで、私たちも、少し肩の荷が下りますわ」
その言葉に、リコの胸がちくりと痛んだ。
自分の荷物を取りに、誰もいなくなった老婆の家に戻る。
がらんとした部屋は、一ヶ月前よりも、さらに広く、冷たく感じられた。
リコが、自分の古びた鞄を手に取ろうとした、その時だった。
部屋の隅で、くしゃくしゃに丸められた紙切れが、彼女の目に留まった。
初日に、老婆が投げ捨てた、夫からの手紙だった。
リコがそれに近づくと、彼女の「目」には、驚くべき光景が映った。
そのしわくちゃの紙には、二つの魂の残滓が重なっていた。
一つは、もう消えかかっている夫の魂の、不器用な愛情の痕跡。
そしてもう一つは、今まさにこの部屋から旅立とうとしている、老婆の魂の、あまりにも温かい感謝の光。
老婆の魂は、去り際に、リコに気づいてほしかったのだ。
自らが最初に拒絶した「愛」の象徴を、最後の「感謝」を伝えるための媒体として使ってほしいと。
クロが、心得たとばかりにリコの肩に止まる。
「へっ、最後の最後で、爺さんの手紙を再利用かい。どこまで始末のいい婆さんなんだ」
リコは、くしゃくしゃの紙をそっと拾い上げ、両手で優しく広げた。
そして、その紙にそっと手を触れる。
すると、老婆の魂の光が、紙へと流れ込んでいく。
夫の不器用な文字が、光の中にすうっと溶けて消え、そして、その同じ場所に、今度は老婆からの、リコへの感謝の言葉が、震えるような、しかし温かい光を放つ文字となって、浮かび上がってきた。
その宛名は。
『リコちゃんへ』
リコは、息をのんだ。
配達人である自分が、手紙を受け取る。そんなことは、初めてだった。
震える手で、手紙を読む。
そこに綴られていたのは、老婆の、決して嘘偽りのない、魂の最後の言葉だった。
『リコちゃんへ。
一ヶ月、本当にありがとうね。
あんたをこき使って、意地悪ばっかり言っちまったけど、本当は、一日でも長く、あんたにここにいてほしかったんだよ。
息子たちにも見捨てられて、爺さんにも先に逝かれて、もう世界にあたしは一人ぼっちだと思ってた。でも、あんたが来てくれて、あたしの最後の毎日は、本当に、本当に楽しかった。
あの人が、最後に爺さんが、あんたを遣わしてくれたんだね。
あんたは、あたしにとっては、天使だったよ。ありがとう』
手紙が、涙で滲んで読めなくなった。
「大変な方」――息子の嫁の、棘のような言葉が蘇る。
違う。
この手紙に綴られた、あまりにも純粋な感謝の気持ち。
これこそが、あの人の魂の、たった一つの真実なのだ。
魂の手紙は、嘘をつけない。
リコは、その絶対的な法則を、今、自らの魂で理解した。
老婆の魂が、満足そうに微笑むのがリコには視えた。
魂は光の粒子となり、リコの胸のペンダントへと静かに吸い込まれていく。
ペンダントが、再び温かい光を放ち、新たな方角を指し示した。
リコは、初めて自分宛に届いたその手紙を、大切に、大切に鞄にしまった。
頬を伝う温かい涙を拭うと、彼女は次なる「唄われなかった想い」が待つ場所へ、静かに歩き出した。
◇
村を離れる道すがら、リコは大切にしまった手紙に、そっと鞄の上から触れた。
「……クロ」
「ん?」
「手紙をもらうのって……こんなに、温かいんだね」
その、あまりにも純粋な言葉に、クロは一瞬だけ黙った。
「へっ。当たり前だろ。お前が今まで配ってきたもんは、そういう代物なんだよ」
いつもの悪態の中に、ほんの少しだけ、照れ隠しのような響きが混じっていた。
リコは、小さく微笑んだ。
人の心は、見かけだけでは分からない。ひねくれた言葉の奥にも、温かい真実が眠っている。
そして、その真実に触れることは、何よりも尊いのだと。
それは、彼女の長い旅路における、最初の、そして何よりも大切な「報酬」だった。
ペンダントに導かれ、リコとクロがたどり着いたのは、寂れた漁村だった。
潮の香りが、ひび割れた石畳の隙間から、物悲しく立ち上っている。
今回の配達先は、その村で一番古い、海風に白く灼けた一軒家だった。
リコが届けるのは、三日前に海で死んだ老漁師からの、最後の「手紙」。
受取人は、家に一人残された、その妻である。
「……お届けものです」
リコの差し出した手紙を、足の不自由な老婆は、訝しげな目つきで受け取った。
震える手で封を開き、そこに綴られた夫の最後の言葉に目を通す。
『お前を一人残していく。すまなかった。達者でな』
それは、不器用な男の、精一杯の愛情と後悔の言葉だった。
だが、老婆の反応は、リコの予想とは全く違うものだった。
「ふんっ! 何が『すまなかった』だい!」
老婆は、手紙をくしゃりと握りつぶすと、部屋の隅に投げ捨てた。
「勝手に死んじまって……あたしを一人ぼっちにしやがって! 子供たちも寄りつきゃしない。この足じゃ、ろくに歩けもしない。これから、どうやって生きてけって言うんだい!」
その瞳に浮かぶのは、悲しみよりも、深い孤独と、世界に対する憎悪に近い、ひねくれた感情だった。
老婆は、じろりとリコを見た。その目に、ずる賢い光が宿る。
「……あんただね、変な手紙をよこしたのは。ちょうどいい。あの人が死んだのも、あんたのせいみたいなもんだ。あんたが、あたしの面倒を見るんだよ。いいね?」
◇
その日から、リコの奇妙な一ヶ月が始まった。
老婆は、足が不自由なのをいいことに、リコを召使いのようにこき使った。
部屋の掃除、食事の支度、町への買い物。
そして、遠い町で暮らす息子夫婦への手紙を、来る日も来る日も書かせた。
その手紙に、返事が来ることは一度もなかった。
クロは「さっさとずらかろうぜ」と悪態をついたが、リコは何も言わず、ただ黙々と老婆の要求に応え続けた。
彼女の目には、老婆のひねくれた言葉の奥に、すがりつくような、か細い孤独の影が視えていたからだ。
一ヶ月が経つ頃、あれほど口うるさかった老婆が、急に口数が少なくなった。
まるで、燃え尽きる寸前の蝋燭のように、その生命の灯火が、急速に失われていくのが分かった。
ある嵐の夜、老婆は、ベッドの中から、か細い声でリコを呼んだ。
「……リコちゃん。もう、潮時みたいだね…」
その顔からは、いつもの険しさが消え、不思議なほど穏やかな表情をしていた。
「……あたしが死んだら、息子に、財産の処分のことだけ伝えておくれ。それから……あんたは、もう好きなところに行きな。長い間、すまなかったねぇ……」
それが、老婆の最後の言葉だった。
◇
リコは、約束通り、町に住む老婆の息子に、その死を伝えた。
息子は悲しそうな顔をしたが、その隣に立つ嫁は、安堵のため息を漏らした。
「ええ…。大変な方でしたから…。これで、私たちも、少し肩の荷が下りますわ」
その言葉に、リコの胸がちくりと痛んだ。
自分の荷物を取りに、誰もいなくなった老婆の家に戻る。
がらんとした部屋は、一ヶ月前よりも、さらに広く、冷たく感じられた。
リコが、自分の古びた鞄を手に取ろうとした、その時だった。
部屋の隅で、くしゃくしゃに丸められた紙切れが、彼女の目に留まった。
初日に、老婆が投げ捨てた、夫からの手紙だった。
リコがそれに近づくと、彼女の「目」には、驚くべき光景が映った。
そのしわくちゃの紙には、二つの魂の残滓が重なっていた。
一つは、もう消えかかっている夫の魂の、不器用な愛情の痕跡。
そしてもう一つは、今まさにこの部屋から旅立とうとしている、老婆の魂の、あまりにも温かい感謝の光。
老婆の魂は、去り際に、リコに気づいてほしかったのだ。
自らが最初に拒絶した「愛」の象徴を、最後の「感謝」を伝えるための媒体として使ってほしいと。
クロが、心得たとばかりにリコの肩に止まる。
「へっ、最後の最後で、爺さんの手紙を再利用かい。どこまで始末のいい婆さんなんだ」
リコは、くしゃくしゃの紙をそっと拾い上げ、両手で優しく広げた。
そして、その紙にそっと手を触れる。
すると、老婆の魂の光が、紙へと流れ込んでいく。
夫の不器用な文字が、光の中にすうっと溶けて消え、そして、その同じ場所に、今度は老婆からの、リコへの感謝の言葉が、震えるような、しかし温かい光を放つ文字となって、浮かび上がってきた。
その宛名は。
『リコちゃんへ』
リコは、息をのんだ。
配達人である自分が、手紙を受け取る。そんなことは、初めてだった。
震える手で、手紙を読む。
そこに綴られていたのは、老婆の、決して嘘偽りのない、魂の最後の言葉だった。
『リコちゃんへ。
一ヶ月、本当にありがとうね。
あんたをこき使って、意地悪ばっかり言っちまったけど、本当は、一日でも長く、あんたにここにいてほしかったんだよ。
息子たちにも見捨てられて、爺さんにも先に逝かれて、もう世界にあたしは一人ぼっちだと思ってた。でも、あんたが来てくれて、あたしの最後の毎日は、本当に、本当に楽しかった。
あの人が、最後に爺さんが、あんたを遣わしてくれたんだね。
あんたは、あたしにとっては、天使だったよ。ありがとう』
手紙が、涙で滲んで読めなくなった。
「大変な方」――息子の嫁の、棘のような言葉が蘇る。
違う。
この手紙に綴られた、あまりにも純粋な感謝の気持ち。
これこそが、あの人の魂の、たった一つの真実なのだ。
魂の手紙は、嘘をつけない。
リコは、その絶対的な法則を、今、自らの魂で理解した。
老婆の魂が、満足そうに微笑むのがリコには視えた。
魂は光の粒子となり、リコの胸のペンダントへと静かに吸い込まれていく。
ペンダントが、再び温かい光を放ち、新たな方角を指し示した。
リコは、初めて自分宛に届いたその手紙を、大切に、大切に鞄にしまった。
頬を伝う温かい涙を拭うと、彼女は次なる「唄われなかった想い」が待つ場所へ、静かに歩き出した。
◇
村を離れる道すがら、リコは大切にしまった手紙に、そっと鞄の上から触れた。
「……クロ」
「ん?」
「手紙をもらうのって……こんなに、温かいんだね」
その、あまりにも純粋な言葉に、クロは一瞬だけ黙った。
「へっ。当たり前だろ。お前が今まで配ってきたもんは、そういう代物なんだよ」
いつもの悪態の中に、ほんの少しだけ、照れ隠しのような響きが混じっていた。
リコは、小さく微笑んだ。
人の心は、見かけだけでは分からない。ひねくれた言葉の奥にも、温かい真実が眠っている。
そして、その真実に触れることは、何よりも尊いのだと。
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