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1巻
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しおりを挟むプロローグ もう愛されることは望まない
「レベッカ、掃除はすんだの? まだでしょう? 早くしなさい」
お母様は、私に冷たい。
とてつもなく、冷たい。
お母様が私にかけてくれる言葉は、たったの三種類だけ。
『掃除はすんだの?』『洗濯はまだ?』『早く食事の支度をしなさい』
お母様のその日の気分で、多少言い回しが変わるが、基本的にこの三つだけだ。少なくともここ数年間は、私はお母様とまともに会話をした記憶がない。
お母様はお喋りが苦手……というわけでもなく、お姉様や妹とはよく話をして笑っている。つまり、私だけがお母様に嫌われているのだ。それも、徹底的に。
どうして私は、お母様に嫌われているのだろう?
どれだけ自問自答しても、その答えはわからなかった。
私はお姉様や妹と違って、一度だってお母様に口答えなどしたことがないし、お母様に命じられたことはすべてこなしてきた。
十歳の頃から家の掃除も、食事の準備も、家事はすべて私の役目だった。
その役目を、私は一日も休まず果たしてきた。一生懸命頑張っていればいつかはお母様も私を認め、母親として愛情を注いでくれる日が来るかもしれないと思っていたから。
しかし、十六歳の誕生日に私は思い知った。
お母様が私を愛してくれる日など、決して訪れないということを。
豪華なバースデーケーキとプレゼントで祝われた姉や妹とは違い、簡素なケーキすらも用意してもらえずに夕食が終わった。
私が食器の後片付けをしていた時、お母様が珍しく私の側に来て、こう声をかけたのだ。
「レベッカ。お前には、明日から奉公に出てもらうわ。今日中に支度を整えておきなさい」
私の意思を確認する気などない、冷たく事務的な言い方だった。
奴隷同然の立場であり、学校に通うことを許されなかった私でも、『奉公』という言葉の意味くらい知っている。偉い人のところで使用人になり、住みこみで働くことだ。
つまりそれは、この家を出て行けと言われているのに等しい。
突然のことに驚き、私は磨いていたお皿を落としてしまった。お皿は乾いた音を立てて砕けた。運の悪いことに、それはお母様が一番気に入っているアンティークのお皿だった。
「ああっ、大事なお皿がっ……! まったく、この子はっ! 何やってるの!」
お母様は金切り声を上げると眉間にしわを寄せて私をぶった。容赦のない平手打ちだったが、お母様はあまり力がないので、ぶたれても口の中が切れはしなかった。
それでも……お母様にぶたれると、頬の痛み以上に心が痛かった。
お母様はお皿のことは心配するが、私を心配してくれたことは一度もない。
どうしてお母様は、私を愛してくれないのだろう――
自分の心にしみじみそう問いかけると、寂しさと悲しさで涙が溢れそうになる。しかし、めそめそするとお母様はさらに不機嫌になるので、私はぐっと涙をこらえて謝罪する。
「お皿を割ってしまい、すみませんでした……」
お母様は大げさに舌打ちをし、それから、ため息を吐いた。
「本当に、最後の最後までドジな子だわ。……誰に似たのかしら」
割れたお皿を片付けるためにしゃがんでいた私は、その言葉を聞いて思わずお母様を見上げた。
「お母様、『最後の最後まで』って、どういう意味ですか……? 私、奉公が終わったら、またうちに帰ってきてもいいんですよね?」
そう問いかけながらも、私は薄々わかっていた。奉公に出てしまったら、たぶんもう二度とうちには帰って来られないことに。
お母様は「ふん」と鼻を鳴らし、縋るような目で見ている私を嘲笑った。
「驚いたわ、レベッカ。あなた、これまでずっと冷たくされてきたのに、まだこの家にいたいと思ってるなんて、ちょっとおかしいんじゃないの?」
そうかもしれない。
でも私は一度でいいから、この家でお母様に優しい言葉をかけてもらいたかった。そんな私のささやかな願いを蹴り飛ばすかのように、お母様はさらに冷たい言葉を浴びせた。
「いい機会だから言っておくわ。私、あなたのことが嫌いなのよ。だから奉公できる年齢になったら、この家から追い出そうと思っていたの。どうして私があなたを嫌いなのか、わかる?」
私は首を左右に振り、お母様の言葉を待った。お母様が私を嫌う理由を聞くのは恐ろしい気もしたが、それ以上にずっと知りたかったことでもあった。
お母様は私の顔を指さし、話を続ける。
「その顔よ。その顔が嫌いなのよ。あなた、私に全然似てないし、死んだ夫にも似てない。面影すらない。特におかしいのが目と髪よ。私も夫も、明るい髪色に青い瞳。なのにあなたは、髪も目もブラウン。こんなこと、ありえる? あなた、一体何なの?」
何なのと言われても、私には答えようがない。
確かに、私とお母様はかなり雰囲気が違うし、他の姉妹とも似ていない。私が幼い頃に病死してしまったから、写真でしか見たことがないが、お父様の面影も私にはない。
お母様は、苛立たしげに舌打ちをする。
「ねえレベッカ。自分にまったく似ていない子供を育てる母親の気持ちがわかる? ハッキリ言って、気味が悪いのよ、あなた。その気味が悪い娘が私に愛情を注いでもらおうとして、へりくだった態度を取ってるのを見ると、ますますゾッとするわ。だから、この家から出ていってほしいのよ」
お母様こそ、自分にまったく似ていないという理由で、一度も愛情を注いでもらえなかった子供の気持ちが、わかりますか?
そう問いかけようとして、やめた。聞いたところで、何の意味もないからだ。この人は私のことを決して愛さない。そのことがよくわかった。だから私も、もう愛を乞うのはやめよう。
私と少しも似ていない妹のリズが、お母様になじられている私を見て、嘲笑いながら言う。
「これでさよならね、レベッカ。でも、私は優しいからあんたに期待してあげるわ。奉公先で出世して、目いっぱいお金を稼いで、お給料をぜーんぶこっちに送ってよね。ま、でもやっぱり、ノロマのあんたじゃ出世は無理か。くすくすくす」
その陰険な笑みを見て、私は意外にもホッとしていた。彼女と似ていないことが、嬉しかったのだ。もう一人の姉妹であるラグララお姉様は、こっちを見ようともしない。私に何の興味もないからだ。この冷淡な姉に似ていないことも、私は嬉しかった。
私は立ち上がり、お母様だけを真っすぐ見据える。
「わかりました、お母様。私は明日、この家を出ていきます」
いつも卑屈だった私が、堂々とした物言いをしたのが不愉快だったのか、お母様は眉をひそめた。そして、つまらなそうに言う。
「別れの挨拶はそれだけ? 薄情な子ね。『今日まで育ててくれて、どうもありがとうございました』とか、言うべきじゃないの?」
私はもう、お母様の顔を見ていなかった。割れたお皿の残骸を捨てるため、勝手口から外に出る間際、一度だけ彼女のほうを見て言い放つ。
「あなたに育ててもらったことなんて、ありませんので」
その言葉が耳に入った途端、お母様の顔が怒りで赤くなった。小さな復讐が成功した喜びで、私の胸は少しだけスッとした。
第一章 新しい世界、新しい日々
そして翌日。私はわずかな荷物を持ち、奉公先であるアルベルト・ハーヴィン公爵のお屋敷に向かった。
奉公って、一体どんなことをするんだろう。家族以外の人とまともに口をきいたことのない私でも、上手くやっていけるだろうか。
緊張や不安が次々と浮かんでくるが、同時に開放的な気持ちでもあった。家事を押しつけられ、ほとんど家の中に閉じこめられていた私にとっては、たとえ身売り同然の奉公でも、新しい世界への出発だったからだ。
これからどうなるかはわからないけど、意地悪な家族に尽くし続けるよりは、きっとマシだろうという妙な安心感もあった。
そんなことを考えながら歩いているうちに、いつの間にか公爵様のお屋敷に到着していた。
さすが、この辺り一帯を治める領主様の住居だ。そびえたつ城壁に、立派な正門。そのたたずまいは、まるで小国の宮殿である。きっと、中には広いお庭もあるのだろう。
正門を守っていた門番さんに声をかけ、使用人専用の出入り口からお屋敷内に入れてもらう。そのまま私は小さな個室に通され、一人のメイドさんから奉公人の心得を教えてもらうことになった。
「私はこのお屋敷の上級メイド、セレナよ。これから、高貴な方にお仕えする際の心得を教えるから、集中して聞くように」
「は、はい。よろしくお願いします」
セレナさんの話は長く難しいものだったが、不思議と苦ではなかった。
私に対して真剣に向き合い、立派な奉公人に育てようとしてくれているのが、その話しぶりから伝わってきたからだ。
セレナさんは、少しも目をそらさずに話を聞き続ける私を見て、感心したように頷く。
「あなた、真面目ね。十代の奉公人は、こうして『奉公人の心得』を教えていると、皆眠そうな顔をするのに、あなたは全然集中を切らさないし、感心だわ」
もしかして、褒められたのだろうか? ……嬉しい。誰かに褒められるのなんて、いつ以来だろう。私は何だか恐縮してしまい、頭を下げた。
「あ、ありがとうございます。私、一生懸命努力して、ハーヴィン公爵閣下のお役に立てるよう頑張りますので、これからもご指導よろしくお願いしますっ」
「良い心がけね。……さて、これまでの話で基本的なことは教えたから、これから具体的な仕事について指導するわ」
そして私は、メイドさんたちの控え室である大部屋に案内された。
部屋の中には誰もいない。きっと皆、掃除や洗濯など、午前中に片付けなければならない仕事で、大忙しなのだろう。
大部屋でセレナさんから仕事の説明を受けていると、一人のメイドさんがやってきた。肩まで伸ばした髪とやや吊り上がった大きな目から、快活そうな印象を受ける。年齢はたぶん、私とそれほど変わらないだろう。
今まで、家の中で雑務ばかりをさせられていた私にとって、同年代の女の子と対面するのは久しぶりのことだ。私は何となく緊張して、ちょっとだけ身を硬くした。
メイドの女の子はセレナさんを見ると、ペコリと頭を下げた。
「あ、セレナさん。どうもっす」
セレナさんは頷きながらも、やや眉をひそめる。
「パティ。あなたもメイドになってもう半年経つんだから、いつまでもそんな言葉遣いでは駄目よ」
パティと呼ばれたメイドの女の子は、ぽかんと口を開け、小首を傾げる。
その仕草は、まるで猫のように愛らしい。
「えっ、自分の言葉遣い、なんかまずかったっすか?」
「ほら。それよ、それ。自分のことは『私』と呼びなさい。そして『っす』という物言いも良くないって何度も教えたでしょ。きちんと『です』『ます』と言いなさい」
「えぇ~でも自分、昔からこうっすから、今さら矯正できないっすよ。公爵様も、別に気にしないって言ってくれてますし」
「パティ! たとえ公爵様が『気にしない』と仰られても、自分から態度を正していくのが模範的な奉公人の姿だって、何度言えばわかるの!」
「あちゃ~、またお説教が始まったっす。それよりセレナさん、その子、何すか? 新しい奉公人っすか?」
セレナさんの気を逸らすように、パティさんは私を指さした。それで、今はお説教をしている場合じゃないと思い直したのか、セレナさんは軽く咳ばらいをした。
「ん……。そうね。今はレベッカに仕事の説明をするのが先だから、パティのお説教はまた次の機会にするわ」
「できれば、その機会が永久に訪れないことを祈るっす。あっ、そうだ。さっき、メイド長がセレナさんを探してたっすよ。なんか、急ぎの用があるらしいっす」
「あら、そう。困ったわね。まだレベッカには、奉公人の心得と大まかな仕事内容を教えただけで、これから具体的な指導をしなきゃいけないのに」
「なんなら、自分がセレナさんの代わりにやっとくっすよ。あの難解な『奉公人の心得』が終わってるなら、後は自分でも何とかなるっす。制服も、ちゃんとレベッカちゃんに合うサイズを選んで支給するっすから、心配ないっすよ」
「うーん……。確かにパティは言葉遣いはアレだけど、責任感はあるし、仕事もしっかり覚えてるから、任せてもいいかしら。言葉遣いはアレだけど……」
「何で二回言ったんすか」
そういうわけで、私への指導はパティさんが引き継ぐことになった。
セレナさんはパティさんに私を任せると、心配する様子もなく去っていく。口ではいろいろ言っていたが、実際はパティさんのことを信頼しているのだろう。
広い大部屋の中、初対面の女の子と二人きりになり、私は少しだけ緊張していた。そんな私の緊張をほぐすように、パティさんは快活に笑った。
「いやー自分と同年代の子が奉公に来るなんて、初めてっす。おっと、ちゃんとした自己紹介がまだだったっすね。自分はパティ・ソルルっていうっす。これからよろしく頼むっす」
学のない私でもパティさんの言葉遣いが少々おかしいのはわかったが、彼女の語り口は朗らかそのもので一切の邪気がない。自然と気持ちが和んだ。
私は、こちらからも自己紹介することにした。
きっちり四十五度の角度で頭を下げ、静かに言葉を発していく。
「レベッカ・スレインです。こちらこそ、よろしくお願いします。奉公に出るのは初めてでまだ何もわかりませんが、一生懸命仕事を覚えて、皆様のお役に立ちたいと思っています」
朗らかなパティさんの自己紹介と違い、互いの間に壁を作るような、堅苦しい物言いになってしまったが、パティさんは少しも気にせずに私の肩に手を置いてニコニコとほほ笑んだ。
「自分もまだわからないことだらけっすから、心配いらないっすよ。それに、自分たちみたいな十代のメイドは、そんなに責任のある仕事を任されたりしないし、あんまり気を張る必要ないっす。レベッカちゃん、掃除や洗濯はできるっすか?」
私は「はい」と小さく答えて、頷いた。
掃除や洗濯はできる……というより、学校にも行かせてもらえなかった私はそれくらいしかできることがない。
「私、掃除と洗濯くらいしかできませんが、パティさんのお邪魔にならぬよう、一生懸命……」
「あー、ストップストップ。だから、そんなに気を張る必要ないってば。それに同年代なんすから、自分のことは『パティ』って呼び捨てにしてくれていいっす。自分も今から、レベッカちゃんのこと、『レベッカ』って呼び捨てにするっすから」
「あ、はい……わかりました……」
「ちなみに、自分に対しては、敬語もいらないっすよ。普通に話してくれていいっす。自分、敬語って苦手っす」
「でも、パティさん……いえ、パティは語尾に『っす』ってつけてますよね?」
「これは、大好きなお爺ちゃんの影響っす。自分、誰に対してもこの話し方っす。昔、盗賊に襲われた時に、『てめぇ、その話し方、俺を舐めてんのか』って睨まれて死ぬほど怖かったっすけど、その時でさえも、この話し方は直らなかったっす。筋金入りっす」
「そ、そうなんだ……」
パティは、これまで私が出会ったことのないタイプの女の子だった。マイペースだがフレンドリーで、グイグイと心の距離を縮めてくる。
おかげで、私の緊張も徐々に解けていった。
……おっと、気を緩めてはいけない。パティは『気を張る必要はない』と言ってくれたが、それでも奉公初日なのだ。『使えない子』と思われないように、誠意とやる気を見せないと。
私は姿勢を正し、パティに向きなおる。
「あの、パティ。いつまでも遊んではいられないし、早速メイドの制服に着替えて、お仕事を始めたいんだけど……」
「おぉ~、やる気満々っすね。それじゃ制服を支給するっす。えっと、確かこの辺りに……」
パティは大部屋の隅にあるクローゼットを漁り、メイド服を何着か取り出した。それから、私の体を頭のてっぺんからつま先まで観察して、手持ちのメイド服と見比べる。
「これは……ちょっと大きいっすね。やっぱりこっちかな? いや、こっちはこっちで小さいか。う~ん……」
そして、一分ほど悩んだ後、私に支給する制服が決まったのか、パティは「これにするっす」と頷いて、一着のメイド服を手渡してくれた。
受け取ったメイド服からは、とても良い香りがした。まるっきりの新品という感じではないものの、きちんと洗濯されており、何よりとても上質な手触りの良い生地でできている。
「綺麗な服……」
私は思わず呟いた。
パティがうんうんと頷く。
「そうっすよねぇ。自分もここのメイドになるまで、こんなちゃんとした服着たことなかったっす。まあ、公爵様のお屋敷っすからね。仕える人間もそれなりの格好をしなきゃ駄目ってことで、上等な制服が用意されてるんだと思うっす」
なるほど。私はこれから正式に、公爵様に仕えるメイドになるんだ。
そう考えると、身が引き締まる思いだ。
私は一度咳ばらいをすると制服に着替えた。実測したわけでもないのにパティの見立ては大したもので、制服は私の体にピッタリだった。
大部屋の鏡には、綺麗なメイド服に身を包んだ私の姿が映っている。
昨日まで私を蔑むお母様や姉妹たちに粗末な服を着せられ、奴隷のようにこき使われていたことを思うと、まるで生まれ変わったような気分だった。
そんな私を祝福するように、パティが拍手をしてくれた。
「いやあ、良く似合うっす。まあレベッカは美人っすから、どんな服でも似合うと思うっすけど」
美人? 私が?
一瞬、からかわれているのかと思ったが、これまで話した印象だけでもパティが人をからかって虐めるような性格ではないことは、よくわかっているつもりだ。
となれば、パティは本気で私を美人だと褒めてくれたのだろうか?
私はこれまで自分の容姿が美しいのか醜いのかなんて、考えたことがなかった。どうせ日がな一日、家の中で雑事をこなしているだけだし、顔が綺麗でも汚くても私の人生には何の影響もないからだ。
……ただ、お母様に『気味が悪いのよ、あなた』と言われたくらいだから、少なくとも美しい容姿ではないと思っていた。
そんな私の容姿をパティは褒めてくれた。
何だか気恥ずかしくて、くすぐったくて、そして嬉しかった。
◆
そして私はパティに教わって、メイドの仕事を始めた。
パティが述べた通り、若い私たちに任される仕事は、それほど責任の重くないものだった。具体的に言うと、自分たちが使う大部屋の掃除や上級の使用人に割り当てられた個室の掃除、使用人たちの衣類の洗濯、そして、あまり使われていない客室のホコリを払うことなどだ。
つまり、公爵様に直接お会いすることはなく、使用人の使用人的な仕事が私たちの役目なのである。……正直言って、私はホッとした。ハーヴィン公爵はあまり領民の前に姿を見せず、冷徹な瞳をした恐ろしい人だという噂があったからだ。
もっとも、すでに何度か公爵様に会ったパティに言わせれば、「公爵様は見た目はキツイっすけど、いい人っすよ」とのことらしい。
彼女の言う『キツイ』がどういう意味なのかはよくわからなかったが、自分が仕える主の容貌をしつこく尋ねるのも何だか失礼な気がして、私はそれ以上は聞かなかった。
だが、私がこのお屋敷に奉公に来て一週間が経った日の夜。私自身の目で、ハーヴィン公爵のお顔を拝見する機会が訪れた。
いつも公爵様のお世話を任されているセレナさんが、流行り風邪にかかって熱を出してしまったのだ。彼女と行動を共にしていた他の上級メイドたちも感染している可能性があるので、急遽下級メイドの私かパティが公爵様にお茶をお出しすることになったのだ。
そしてパティは、あっけらかんとこう言った。
「自分、お茶を淹れるの苦手っすから、このお役目はレベッカのほうがいいと思うっす」
そんなわけで私は今、美しい銀のトレイにティーセットを載せて、公爵様の自室前に立っている。
胸がドキドキする。奉公に来てから、こんなに緊張するのは初めてかもしれない。慣れないお役目で粗相をしてしまい、公爵様のご機嫌を損ねてメイドをクビになったらどうしよう。
ハッキリ言って、このお屋敷での毎日は実家にいた頃に比べれば天国そのものと言っても良いくらい、幸せで充実した日々だった。
パティを始め、お屋敷の人たちは皆優しいし、一生懸命頑張ればきちんとその働きぶりを認めてもらえる。いくら尽くしても、愛情を向けてくれなかったお母様とは大違いだ。
ここをクビになったら、あの家に戻らなければならなくなる。
愛情の欠片もない親と、蔑みの目しか向けてこない姉妹のいる家に。
そんなの、絶対に嫌――
これからも奉公を続けさせてもらうためにも、与えられたお役目を完璧にこなさないと。
そう意気ごんだ私は必要以上に気合を入れ、公爵様の自室のドアをノックした。
「何だ」
中から、鋭い声が響いてくる。短い言葉の中に堂々とした威厳を感じ、私はやや上ずった声で答えた。
「お、お茶をお持ちしました!」
数秒の間の後、言葉が返ってくる。
「そうか、入ってくれ」
私は覚悟を決めると、そっとドアを開けて入室した。
公爵様のお部屋は天井が高く、広々としていた。だが、燭台の数は少なく、部屋の中は薄暗い。窓から差しこむ月の光も、雲に隠れてたよりない。
公爵様は立派な机に向かって、忙しそうに書き物をしている。
きっと、お仕事中なのね。
こちらに背を向けた状態なので、公爵様のお顔を見ることはできない。……今日、初めて自分が仕える主のお顔を拝見できると思っていた私は、少しだけガッカリした。
いやいや。公爵様のお顔よりも、自分の役目を果たすことに集中しないと。
私は丁寧にお辞儀をして、公爵様に声をかけた。
「本日、公爵様へのご奉仕を任されました、レベッカ・スレインと申します。どうぞ、お見知りおきください。それでは、お茶を淹れさせていただきます」
……言った後で『しまった』と思った。
高貴な身分である公爵様にとって、ただの下級メイドに過ぎない私の名前など、どうでもいいことだ。それが、聞かれてもいないのにペラペラと自己紹介した挙句、生意気にも『どうぞ、お見知りおきください』だなんて、私、何を言っているの。
完璧にお役目を果たそうとする気持ちが空回りして、出しゃばりすぎた。
こういう場合、単に『失礼します』とだけ言って、黙々とお茶をお出しして、後は静かに部屋の隅で控えているべきだったのに。私はお茶を淹れながらもお叱りの言葉を覚悟し、震えあがっていた。
しかし公爵様は特に何を言うわけでもなく、私の出したお茶を受け取ると一口飲み、それから再び書き物に戻った。
それでひとまず私はホッとした。
どうやら公爵様のご機嫌を損ねずにすんだようである。
私は足音を立てずに壁際まで行くと、待機の姿勢を取った。あとは公爵様に『下がれ』と言われるまでこの場に控えていれば、お役目は完了である。
三分ほど経過しただろうか。忙しそうだった公爵様が手を止め、椅子の背もたれにゆったりと寄りかかると、再びお茶に口をつけた。
「今日の茶は少し濃いな」
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