神聖なる悪魔の子

らび

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3. パンドラ・ボックス

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 何となくで目が覚めた。視界はまだ闇に包まれていて、雑音一つない静寂が私を包んでいるのを感じた。まだ深夜だろう。閉められたシルクのカーテンがぼんやりと光り、月明かりに照らされているのだろうと思う。不意に、何かに呼ばれるように身体を起こして布団を除け、高級そうな肌触りの絨毯に足を下ろす。そのまま音もなくベッドから降り立ち、ふらふらと覚束無い足取りで部屋の扉へと向かった。そしてそっと扉を少しだけ押し開け、その隙間に体をすべらせるように部屋から抜け出た。
 廊下に出ると、冷たい空気に包まれて床の感触が硬い絨毯に変わる。素足のままで暗い廊下を進み、やっと暗闇に目が慣れてきたところで進む先の突き当たりにテラスに出られる窓があるのが見えた。何となく月が見たくなって、そのまま窓に向かって進む。
 やっとの事で辿りついて、そのガラス戸に触れる。それは廊下の空気よりも冷たくて、どこか別の世界に通じているかのように佇んでいる。少しためらいながらもぐっと押すと、軽い音を立ててそれは開いた。
 足元を見つめてそっと外に出ると、空気は死んだように冷たく、タイルの床は氷の板のように痛いほどに冷えている。素足には堪えたが、それでも構わずに進み、テラスの縁、金属製の柵に手をかけた。吐く息は白く、ネグリジェ1枚で出てくるには少し寒すぎたようだ。しかし引き返すのも勿体無いし、見たかった月も細い糸のような三日月型をして美しい。…あんなに細いのに、あのカーテンを明るく照らしていたのはお前かい?そう問おうとして柵によじ登り前に身を乗り出して上を見上げると、後ろに人の気配を感じた。
「…何をしているんだい、ノア。」
そこにいるのはやはりカインのようで、しかしその声は1段トーンを落としている。
「月を、見たかったの。」
そう言いながら柵から降りてゆっくりと振り向くと、案の定そこにいたのは彼で、月光色の前髪が風に揺れ、その下から真紅色の瞳が光無く瞬いていて、真剣にこちらを見つめている。
「そんな格好でこの冬空の下に出て、風邪でも引いたらどうする」
声の高さが戻り、あの優しさを孕んだ口調でこちらに歩いてくる。彼もランプの類は持っていない。
 彼は自分が着ていた寝巻用のローブの上着を脱いで私にふわりと着せた。まだ体温が残っていて温かいそれに包まれた後、再び浮遊感に包まれた。…まだ10歳程度で成長が止まっている身体なんて、簡単に持ち上がるのだろうか。
「まだ眠っていた方がいいよ。」
「でも、」
「今夜は出てきちゃダメだ。」
「違う、何かに呼ばれているの…」
「いいんだ、まだ病み上がりなんだから。…行かなくていい」
「…そう」
この上なく優しくそう言われると、無性に安心してまた眠ってしまった。…このごろの私はどうしてしまったのだろう。昼と夜が、同じ世界の一環だなんて思えないの。

●●●
 目が覚めると、部屋は明るかった。昨夜、月光がぼんやりと映し出されていたカーテンからは、暖かな木漏れ日が溢れていて、朝がきたんだと気づく。取り敢えず何をするべきか考えながらベッドから降りようと足を降ろすと、全く力が入らずに崩れ落ちた。一瞬何が起こったか理解出来なくなり、でも次の瞬間には我に帰って恐怖が押し寄せてきて、どうしようもない感情が込み上げてきた。
「…っカイン!どこにいるの!?いないのっ!?」
取り敢えず助けを乞える人間は1人しかいない。でもそんな人間が視界に入るところにいないのはものすごく不安なことに変わりない。
 ここにうずくまっていても仕方ないと本能が悟ったようで、扉の前まで身体を引きずっていき、昨日も押し開けたドアノブに縋るように手を伸ばす。そしてその手が届くか届かないという時に、がちりと音がして扉が外側から開かれた。そこにいたのは。
「…どうしたの?そんなに焦って。」
「脚が…脚がっ!」


「ごめんって。君があまりに徘徊するようならいけないから、脚に麻酔を使ってしまったのだよ。目が覚める前には抜ける予定だったんだけどね」
半分は自分のせいだから仕方が無いんだけれども、八つ当たりのように彼を睨んだ。普通に手術くらいでしか麻酔使う場面聞いたことないんだよね。記憶ないけど。
 つまり彼は、私が目の届かないところで徘徊したりしないように、弱い麻酔を私の両足に寝ている間に打ったのだと言う。
「言ってくれれば良かったのに…」
「まぁまぁ、そんなに膨れないでよ。今日は忙しいんだから。」
「え、何かあるの?」
「実家に集合だよ。本邸で、君のお父様…族長の誕生祭さ。」
「…私も行くの?」
「当然でしょ。」
「覚えてないのに?」
「そうだね…でも、君は居るだけでいいよ。良くも悪くも、君に近づく人はそういないだろうからね」
苦笑したように彼が言った。おそらくその言葉の真意は、私が悪魔の子だから、呪われた子だからということだろう。…分かっている。
「さて、じゃあそろそろ行こうか。申し訳ないけど朝食は車の中でとってね。軽くお弁当作ったから。」
「もう行くの?」
「そう。向こうに着いたら君はお召かえがあるからね。」
「なんで?」
「君はネグリジェで出席するのかい?」
そういえば、私の私服は何故か寝巻きである。正式な会に出席するには相応しくないだろうけど、服なんてこれ以外に持っていない…と、思う。
「心配いらないよ。本邸に戻ればパーティードレスなんてどうとでもなるから。もう足も戻ったろう?行こう。」
言われた通り、立ち上がると足はいつものように動いた。ベッドから今度こそ降りて、先立って歩いていくカインに続く。
 彼の車に乗りこみ、本邸に向かった。窓の外の景色は高速道路に入ってから壁だけでつまらなく、私は何も考えずにそれを見つめていた。

●●●
 「お帰りなさいませ、リリノア様、カイン様 」
本邸に着くなり私たちを迎えてくれたのは、ピシャリとスーツを着こなしたメガネの女性。…やはり髪は銀色で目は紅い。しかし、銀色は私たちのように白いものではなく、灰色に近いものであり、目の赤も紅というには薄く、私たちとは一風変わって見えた。
「あぁ、ただいま。ノアの召し替えまであとどのくらいある?」
「はい、3時間ほどでご案内する予定です。」
「そうか。」
「お部屋は二部屋ともご用意できておりますが、どう致しますか?」
「今はノアを一人にはできない。申し訳ないけど、俺の部屋に連れていくよ。召し替えの時間になったら呼びに来てくれ。」
「かしこまりました。」
彼女は私の方など見向きもしない。無論、私など身長が低すぎて視界に入らないのかもしれないが、それだけではなく、彼女は私を見ないようにしているように見えた。なるほど、見たくもないということね。
 手短に要件と予定を告げた彼女は、丁寧に頭を下げて去っていった。何とも事務的な人だと思う。一族には階級があるというのは言われなくてもなんとなく分かった。
「…カイン、私」
「気にしなくていい。行こう」
穏やかな笑顔でそう言われて、今自分が何を言おうとしたかを忘れてしまった。何故、彼の声は、笑顔はこんなにも私を安心させるのだろうか。それを思うと少し苦しくなる気がして、でもそれが心地よくも感じられて息を呑む。
 やがて着いた部屋に入ると、そこは必要最低限のものだけがある、清潔感あふれる部屋だった。一面の壁には大きな窓が設けられていて、部屋の中はそのためか明るい。
「ここ、あなたの部屋なの?」
「あぁ…まぁね。」
「住んでたの?」
「いや。本邸にいる時だけ使っている部屋だ。でもそんなに長く滞在したこと無いから、まぁビジネスホテルの代わりみたいなものかな。ここにいる時は祭事か仕事がある時だけだ。」
「そうなの…」
仕事か…。それはきっと、私に関係しているであろうことは安易に想像がつく。彼は言わば面倒ごとを任されているのだから。先程の女性と言い、彼から聞かされた私の境遇と言い、きっと異端児である私なんて一族にとっての事実上の重荷でしかないのだろう。そんな私と同居している…させられている彼の仕事と言ったら、私関連に決まっているのだ。それに気づけないほど私も鈍感ではないつもりだ。
「さて、君は少し疲れたんじゃないかい?」
「え?あぁ、まぁ…」
確かに、あんなに昨夜寝ていたというのに全く持って疲れは取れておらず、まだまだ眠かった。
「俺は少し消化しなきゃならない仕事があってね。まぁ、見ての通りあの机の書類たちなんだけど…、ここでやるから少し寝ててもいいよ。」
「…ありがとう、そうするわ。」
その言葉に甘えて、部屋の隅に寄せるように置いてあるソファーに横になった。…ふかふかしてる…。
一度閉じかけた目をそっと開くと、メガネをかけたカインが書類を手に椅子に座るところだった。それを見てどこか安心し、私は夢に沈んだ。

●●●
カインside

 彼女はもう寝てしまったのか。病弱そうな細い身体が呼吸に合わせて小さく上下しているのが分かる。昨夜はよく眠れなかったらしく、今日ここに来るまでの間ずっと空を見つめてぼんやりしていた。もしかしたら彼女の場合、なにか物思いにふけっていたのかも知れないが。俺も人のことを言えたものではないが、彼女もまた思慮深いところがあり、一つの言葉を口にするのに一体どれだけの思考を繰り広げていたのかは想像もつかない。
「んー…」
無防備な姿で眠る彼女はまだまだ幼くて、寝返りを打っただけでも壊れてしまいそうに見えた。ベッドよりも眠りづらいだろうに、でもノアは昨日の夜様子を見に行った時よりもよく眠っているように見える。
 まぁ、ここで眠ってくれる分には構わない。きっとこの部屋なら、あの女も入ってこられないだろうから。全く、アイツは厄介な女だ。リリノアの夢の中に居座り始めたらどこまででも追ってくると思って、会わないように書庫に縛られているうちにあの部屋を閉ざしたというのに…
 ノアがいない間、資料を探そうとあの部屋を開けたのをうかつにも忘れてしまったのは俺だ。だからこういう時のために結界を張っている本邸に、都合よく戻ってきたのだが。果たしていつまで隠れていられるのやら…。
 そんなことを思いつつ、仕事をこなす。書類はリリノアに関するものばかりで、主には外部からの生き神を崇めたいという物好きからの申請書だ。…誰が許可するかよ。
 そう悪態をつき、彼女をモノとしてしか扱っていないような内容のその手紙を八つ裂きにしたい衝動を抑えつつ、丁寧にお断りの返事を書いた。
 すると、そんなノア宛の手紙の中に俺宛の手紙が紛れていることに気がついた。
「…なんだ、これ?」
メガネを外してその手紙を見つめ、不思議に思いながらも開封する。

   拝啓、私の愛し子たち。
  元気にしていますか?貴方は私のことを覚えているでしょうか。貴方ならきっと、私のことも使命のことも覚えていることでしょう。貴方には大変な思いをさせてしまっているわね。私もそちらに生きるものだったら良かったのに。そうね、あなたがいればリリノアは心配いらないわ。でも、貴方は無理をしているでしょうね。それではダメよ。しっかりね。これが最初で最後の手紙です。またいつか、会えたなら…
  お元気で。リリノアをよろしく、そしてカインも。だって貴方も…

「分かってるさ!もうそれ以上、言ってくれるなよ…」
使命。忘れもしない、あの生前の世界でこの身に受けたもの。
 『彼女とその長い生に付き合い一生を過ごすのです。それが貴方の使命よ。強く生きなさい。』
 俺が守らなきゃならないんだ。一度選んだ道だ、必ず歩みとおして見せる。
 もう一度、そう心に誓い、眠るリリノアを見つめた。大丈夫、ばらまかれた災厄も、俺らなら振り払えるから。


 昔むかし、罪を犯したプロメテウスを罰するべく、1人の女性が造られた。その名はパンドラ。ゼウスは美しい彼女に、プロメテウスを罰する材料として一つの箱を渡した。その中には苦しみの種が詰まっていた。絶対に開けてはいけないと言われてわたされたその箱。しかしパンドラはどうしても開けたくて、とうとうその箱を開いてしまった。その瞬間、ありとあらゆる罪の数々がこの世に振りまかれ、パンドラは慌てて蓋を閉めたものの既に遅かった。恐る恐るその箱を覗くと、箱の底には『希望』だけが残されていたそうだ。そう、こうして振りまかれたいくつもの罪こそ、現代に生きる我々人間に課せられた苦しみのモト。
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