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11. 金の竪琴
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金の竪琴。それは、音楽に愛された美青年オルフェウスがその人生を共にし、彼の死とともに星になったとされる幻の楽器だ。それを探せとは、どういう事か。
「金の竪琴が星になったというのは人々が信じる伝説。本当はオルフェウスと共に星になるはずだった竪琴は、空に向かう途中にこの湖のどこかに落ちたの。探し出して空に還さないといけないんだけど、私達は低級な精霊だから、そんな偉大な方の私物には触れるだけで消えてしまうの。でも、人間はここに入れないし…精霊でもなく完全な人間でもない人間である貴女に頼むしかないのよ。」
彼女は急に泣きそうな目をして私の方に縋るように視線を落とす。なんとも表情豊かな人だと思う。
「…その竪琴は、この湖のどこかに沈んでいるのね?」
「ええ、そのはずよ。貴女ならきっと、耳を傾ければ錆び付いた竪琴の音色を聞くことが出来るわ。」
「でも、この湖…」
不意に、先程見た嫌な光景を思い出す。この湖には何があるというの?
「…ん?あぁ、大丈夫よ。水のニンフたちには伝えておくから。変なもの見せないように、ね。」
ドライアドが困ったように笑う。
「水のニンフ?」
「そうよ。悪戯好きが過ぎて、ちょっとタチが悪いけど…嫌なものを見たのなら、それは彼女達の仕業ね。」
ふと、カインがこちらを見下ろしているのがわかる。そういえば、説明していなかった。…けど、後ででいいか。
「分かった。どうやって探せばいいの?」
私がそう言うと、ドライアドはふわふわと髪を揺らして、ぱっと明るい顔をした。
「ありがとう!大丈夫、水の中で耳をすませていれば琴線を弾く音が聴こえるわ。その音を頼りに探して!」
私が彼女の話に耳を傾けていると、後ろから頭に手を乗せられる。振り向くと、カインはこちらを見ることもせず、真剣な表情でただ一点にドライアドを見つめていた。その視線は凍ったように冷たく、鋭い。
「リリノアに、危険は無いのか?彼女はこの近くで記憶を無くした。何があったのかは誰にもわからない。危険分子は一つたりとも残しておけない状況なんだ。」
「大丈夫よ。邪なるもの、ここへは入れない。湖から一歩出れば話は別なんだけど、湖の範囲内にいる限りは安全よ。」
「ならいいが。しかし、俺がついて行くことは可能かい?」
「もちろんですとも。そういえば、あなたも異端児だったわね…男である貴方に竪琴の音色が聞こえるかどうかはわからないけど、きっと助けられるはずよ。」
「男の琴は女を呼ぶ、か。いいさ、俺はリリノアに付いていくだけだ。聴こえなくても問題ない。」
「それなら別にいいけど。」
どうやら話はまとまったらしい。
「あ、そうそう。湖の水をただの水に戻してしまうから、泳いで探してね。貴女に何も観せないためにはそうするしかないのよ。」
あ、うん。なるほどね。さっきまでみたいに歩いて探すことは出来ません、と。
………え。
「えぇっ!私は泳げないよ!?多分…」
恐る恐るカインの方を見上げれば、彼も困ったような顔をしている。やっぱり私の予想は間違っていなかったようだ。
「…泳げない。リリノアは、泳いだことが無いんだ。」
ええええええっ!?泳げるとか泳げないとか以前に泳いだことがないですって!?嘘でしょ10年以上生きてきて1度も!?
「それは予想外だったわね。」
ドライアドも驚いているようで、エメラルドグリーンの瞳を大きく見開いている。
「でも、それなら貴方が連れていけばいいじゃない?一緒に行くのだから。貴方まで泳げないなんて言わないわよね?カイン様。」
「泳げるとは思うけど」
「けど?」
「…何でもない。行こう、ノア。」
そう言いながら上着を脱いで薄着になるカイン。私も羽織っていたショールを脱いで軽くたたむ。それからザバザバと湖に入っていくカインに続いて足を進める。伸ばされた彼の手に掴まると、強い力で引き寄せられた。もう既に二人とも脚は底に付いていない。
「行くよ?何かあったら俺の手を握って伝えるんだ。息が苦しくなってもね」
「うん」
「はい、深く息を吸って」
言われるままに深く深く息を吸って鼻を塞いだ。するとカインは私の腰を抱いて水に沈んだ。そっと目を開けると、そこはただの水の中で、先ほどのような美しい世界はどこにもなく、視界は濁っている。不思議と冷たさは感じられない。手足は少し痺れているが苦痛ではなく、ただしっかりと抱きしめられているカインの腕だけがわずかに温かい。
私は機能していない目をもう一度閉じて、耳だけに神経を集中させた。ゴボゴボと水中特有のくぐもった音に包まれながら、その中に竪琴の音色を探す。息苦しくなるのも忘れていた。
この広い湖のどこかに、確かにあるはずの竪琴。しかし、この湖はとてつもなく広いことは重々に承知している。水中の音なんて、そう簡単に聞き取れるのか?もし今いる場所が全く正反対の場所だったら…
そう思い始め、早くも心が折れそうになった時だった。
ポロロン、ポロロン、…
ハープのような音色が耳元をかすめる。それは私たちの少し後ろの深いところからのようで、私は慌ててカインの腕を強く握りしめた。それに気づいたらしい彼は水面に向けて浮上する。少しずつ水圧から開放されてゆく身体が心地よい。
「ぷはっ、はぁっ、…っカイン!」
「どうした、なにか見つけたか?」
「聴こえた!ハープみたいなの、ここの少し後ろに下がったところの深くにあると思う」
「わかった、行こう。大丈夫かい?」
「うん、いいよ」
私はもう一度大きく息を吸い、カインに連れられて深くに潜り込んだ。
竪琴の音色が段々とはっきりしてきて、徐々に確実に近づいているということがよく分かる。…カインには聞こえないはずなのに。
しばらくした所でカインにつんつんと頬をつつかれて目を開ける。すると、ぼんやりとではあるが金色に輝く何かが目の前にあるのが見えた。私はそっと手を伸ばしてそれを掴む。そして丁寧に引き寄せ、私が胸にそれを抱いたのを見ると、カインは真上に向かって私を押し上げるように泳ぎ始めた。
「はぁっ、はっ、あった…」
「よく見つけたね、偉いぞノア。」
カインが額同士を擦り付けるので私も軽く押し返すようにしてみた。
「さて、ドライアドのところに戻るか。」
彼は器用に私を抱き上げたまま泳ぎ始めた。まるでボールを鰭で運ぶイルカのように…なんて本人には言えないが。
やがて脚のつくところに来ると、カインは犬のようにふるふると頭を震わせて水気を払った。ぺたんと額に張り付いている前髪のせいか、いつもの彼より可愛らしく見える。
「リリノア、寒くない?」
「…少し」
「待っててね」
陸に上がるなり私を木の根の上に座らせた彼は、湖に入る前に自分が脱いだ上着と、私が置いていったショールを手に戻ってきた。
「ちょっと我慢しろよ~」
そういうなり私の両脇から背中に腕を回してびしょびしょのネグリジェのボタンを外し、ファスナーを開けるカイン。手早く衣服を脱がされ、絞ったそれで大雑把に全身を拭いた後に乾いた彼の上着を着せられる。と言うより、サイズの大きな彼の上着に私が着られている感じだった。
「少しはマシになったかな。っと、おーい、ドライアド!今戻ったぞー」
どこに向かうでもなく彼が声を上げると、その返事は私の背後から来た。
「おかえり、早かったじゃない。見つけたものを見せて?」
私は抱きしめていた竪琴をドライアドに見せるように持ち替える。
「これであってる…?」
「…うん、間違いないわね。ありがとう!二人とも!!」
そう言うとドライアドは出会った時のように秀麗に満面の笑みを浮かべた。
「それは今夜のうちに空へ還してしまいましょう。あの切り株の上に置いていってくれる?」
ドライアドが指さす先には、バラのつるが絡んだ、月光が一番よく当たるらしい切り株があった。私はその上に言われた通りに竪琴を置いた。
「今夜はもう遅いから、あの小屋に泊まっていくといいわ。貴方達が潜ってくれている間にできる限りで準備しておいたから。」
細めた目をこちらに向けて笑うドライアドの指さす先を見ると、湖の畔に小さな小屋があった。古いが、壊れている様子もなく、また誰かが住んでいる様子もない。
「かつての当主様が建てたお家よ。一人用だけどね。1晩くらいならどうにかなるわね?」
「…そうだね、ありがとう。行こうか、ノア。」
私たちは軽くドライアドに頭を下げて、ゆっくりと歩き出した。
「そうそう、湖なんだけど。もう元に戻ってしまうから、帰りは気をつけてね。…何も見ないように。」
私は一瞬、背筋に悪寒が走った気がして立ちすくんだ。しかし、大丈夫だと気を取り直してまた歩み始める。まだ話していないカインだけは不思議そうに私を見つめ、それでももう何も問わなかった。
小屋に入ると、そこは小奇麗に整理されたワンルームだった。ちょっとレトロなビジネスホテル…といったところか。暖炉には薪がくべてあり、あとは火をつけるだけで使えるようになっていた。テーブルの上にはパンやチーズ、果物が並べられており、本当に妖精たちがもてなしてくれたのだと分かった。
「ノア、ここ座って。先に髪を乾かしなさい」
そう言われてカインが置いた椅子に座る。彼は暖炉に火を入れると、自身の着ていたシャツを脱ぎ、軽く絞ってから暖炉の縁に掛けた。それから、私が来ていたネグリジェも干して、乾かし始めた。
「ねぇ、カイン。妖精たちって、何なのかな。」
「ん~?」
彼はボスンとベッドに腰掛け、私の方を向いた。
「そうだね、例えるならば…いや、やめておこう。まぁ簡単に言えば、俺達とは別の世界に住む生き物なんだろうな。でも人間よりも神様に近しい存在で、きっと人間よりも永い時を生き抜いている。」
「ふぅん…そうなんだ」
「それよりさ、ノア。君は湖の底で何を見たんだい?ドライアドは知っていたみたいだけど、俺は何も聞いていないよ?」
そうだった。後で話すと言ったきりで何も話していなかった。
「私は…自分の過去を見た。」
「え!?じゃあ、記憶…」
「あ、でも一部分だけね。他は何も…」
「どうして自分の記憶だって分かったの?思い出したから?」
「…それを見た時、本能がアレは自分だと叫んだの。」
「何を見たんだ。」
「…教会みたいな場所。そこの台座の上に縛り付けられて、ずっと放置されている女の子を見た。」
「っ…」
カインが喉を鳴らした。どうやらあれは本当に私の過去だったようだ。彼は見たことがあるのか、将また知っているのか。とりあえず図星で間違いない。
「それは私でしょう?助けてって泣いていたの。」
「…そうだね。俺が聞いていたのと同じ状況だよ。」
「……私が見たのはそれだけよ。」
少しの間沈黙が流れる。気まずさは無いが空気を伝って流れ込む彼の思いには、憐れみとも悲しみともつかない何かがひしひしと感じられた。
「…ノア、もう髪は乾いたかい?」
「え、あぁ、うん。」
思い出して自分の髪をそっと梳くと、暖炉の火の温度が移って温かいそれはいつの間にか乾いていた。
「じゃあもう寝ようか。おいで」
「うん」
呼ばれてベッドに座る彼の元に歩み寄ると、薄明かりでよく見えなかった彼の姿がはっきりする。シャツを脱いでしまったせいで上半身に何も身につけていないのがとても寒そうに見える。その肌は陶器のように白く美しくて、まるで人間のものではないようだ。どちらかというと、先程まで会っていたドライアドのような妖精を連想させる。
「寒くないの?」
私は彼の目の前に立ち、見下ろすような状況で静かに尋ねる。
「ん?」
聞こえたのか聞こえなかったのか、曖昧な返事をするカイン。私はそれを無視して彼の肩にそっと触れた。完全に冷えきって、冷たかった。
「…冷たい。」
呟くと、彼は私の手を掴んで自らの頬に当てた。そして柔らかく微笑んで言った。
「ノアが温かいからそれでいい。」
私は空いている方の手でまだ乾ききっていないカインの髪を撫でた。すると彼は僅かに目を見開いたが、すぐにその紅い光を細めた。
と、そう思ったのも束の間、彼は素早く私を引き寄せて後ろから抱えると、そのままごろっとベッドに転がった。あまりに唐突な出来事に、私は抵抗する日まもなくされるがままにベッドに転がる。
「な、っえ?どうしたの急に…」
「んー…かわい」
「え??」
まるでぬいぐるみでも抱くかのようにぎゅっと抱きしめられる。
「明日の夜…いやもう今日か。俺の部屋に来てくれ。渡したい物がある。」
「あ、はい」
全く話についていけないが、とりあえず返事だけでもと返しておく。背中に感じる彼の首や胸、腕も肩もまだ冷たい。でも、私を抱きしめる掌は少しだけ温かくなっていた。
「おやすみ、ノア。」
「…おやすみ」
こうして私たちはようやく眠りについた。長い長い夜が明けるまで夢を見ることもなく。
「金の竪琴が星になったというのは人々が信じる伝説。本当はオルフェウスと共に星になるはずだった竪琴は、空に向かう途中にこの湖のどこかに落ちたの。探し出して空に還さないといけないんだけど、私達は低級な精霊だから、そんな偉大な方の私物には触れるだけで消えてしまうの。でも、人間はここに入れないし…精霊でもなく完全な人間でもない人間である貴女に頼むしかないのよ。」
彼女は急に泣きそうな目をして私の方に縋るように視線を落とす。なんとも表情豊かな人だと思う。
「…その竪琴は、この湖のどこかに沈んでいるのね?」
「ええ、そのはずよ。貴女ならきっと、耳を傾ければ錆び付いた竪琴の音色を聞くことが出来るわ。」
「でも、この湖…」
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「…ん?あぁ、大丈夫よ。水のニンフたちには伝えておくから。変なもの見せないように、ね。」
ドライアドが困ったように笑う。
「水のニンフ?」
「そうよ。悪戯好きが過ぎて、ちょっとタチが悪いけど…嫌なものを見たのなら、それは彼女達の仕業ね。」
ふと、カインがこちらを見下ろしているのがわかる。そういえば、説明していなかった。…けど、後ででいいか。
「分かった。どうやって探せばいいの?」
私がそう言うと、ドライアドはふわふわと髪を揺らして、ぱっと明るい顔をした。
「ありがとう!大丈夫、水の中で耳をすませていれば琴線を弾く音が聴こえるわ。その音を頼りに探して!」
私が彼女の話に耳を傾けていると、後ろから頭に手を乗せられる。振り向くと、カインはこちらを見ることもせず、真剣な表情でただ一点にドライアドを見つめていた。その視線は凍ったように冷たく、鋭い。
「リリノアに、危険は無いのか?彼女はこの近くで記憶を無くした。何があったのかは誰にもわからない。危険分子は一つたりとも残しておけない状況なんだ。」
「大丈夫よ。邪なるもの、ここへは入れない。湖から一歩出れば話は別なんだけど、湖の範囲内にいる限りは安全よ。」
「ならいいが。しかし、俺がついて行くことは可能かい?」
「もちろんですとも。そういえば、あなたも異端児だったわね…男である貴方に竪琴の音色が聞こえるかどうかはわからないけど、きっと助けられるはずよ。」
「男の琴は女を呼ぶ、か。いいさ、俺はリリノアに付いていくだけだ。聴こえなくても問題ない。」
「それなら別にいいけど。」
どうやら話はまとまったらしい。
「あ、そうそう。湖の水をただの水に戻してしまうから、泳いで探してね。貴女に何も観せないためにはそうするしかないのよ。」
あ、うん。なるほどね。さっきまでみたいに歩いて探すことは出来ません、と。
………え。
「えぇっ!私は泳げないよ!?多分…」
恐る恐るカインの方を見上げれば、彼も困ったような顔をしている。やっぱり私の予想は間違っていなかったようだ。
「…泳げない。リリノアは、泳いだことが無いんだ。」
ええええええっ!?泳げるとか泳げないとか以前に泳いだことがないですって!?嘘でしょ10年以上生きてきて1度も!?
「それは予想外だったわね。」
ドライアドも驚いているようで、エメラルドグリーンの瞳を大きく見開いている。
「でも、それなら貴方が連れていけばいいじゃない?一緒に行くのだから。貴方まで泳げないなんて言わないわよね?カイン様。」
「泳げるとは思うけど」
「けど?」
「…何でもない。行こう、ノア。」
そう言いながら上着を脱いで薄着になるカイン。私も羽織っていたショールを脱いで軽くたたむ。それからザバザバと湖に入っていくカインに続いて足を進める。伸ばされた彼の手に掴まると、強い力で引き寄せられた。もう既に二人とも脚は底に付いていない。
「行くよ?何かあったら俺の手を握って伝えるんだ。息が苦しくなってもね」
「うん」
「はい、深く息を吸って」
言われるままに深く深く息を吸って鼻を塞いだ。するとカインは私の腰を抱いて水に沈んだ。そっと目を開けると、そこはただの水の中で、先ほどのような美しい世界はどこにもなく、視界は濁っている。不思議と冷たさは感じられない。手足は少し痺れているが苦痛ではなく、ただしっかりと抱きしめられているカインの腕だけがわずかに温かい。
私は機能していない目をもう一度閉じて、耳だけに神経を集中させた。ゴボゴボと水中特有のくぐもった音に包まれながら、その中に竪琴の音色を探す。息苦しくなるのも忘れていた。
この広い湖のどこかに、確かにあるはずの竪琴。しかし、この湖はとてつもなく広いことは重々に承知している。水中の音なんて、そう簡単に聞き取れるのか?もし今いる場所が全く正反対の場所だったら…
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ポロロン、ポロロン、…
ハープのような音色が耳元をかすめる。それは私たちの少し後ろの深いところからのようで、私は慌ててカインの腕を強く握りしめた。それに気づいたらしい彼は水面に向けて浮上する。少しずつ水圧から開放されてゆく身体が心地よい。
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「どうした、なにか見つけたか?」
「聴こえた!ハープみたいなの、ここの少し後ろに下がったところの深くにあると思う」
「わかった、行こう。大丈夫かい?」
「うん、いいよ」
私はもう一度大きく息を吸い、カインに連れられて深くに潜り込んだ。
竪琴の音色が段々とはっきりしてきて、徐々に確実に近づいているということがよく分かる。…カインには聞こえないはずなのに。
しばらくした所でカインにつんつんと頬をつつかれて目を開ける。すると、ぼんやりとではあるが金色に輝く何かが目の前にあるのが見えた。私はそっと手を伸ばしてそれを掴む。そして丁寧に引き寄せ、私が胸にそれを抱いたのを見ると、カインは真上に向かって私を押し上げるように泳ぎ始めた。
「はぁっ、はっ、あった…」
「よく見つけたね、偉いぞノア。」
カインが額同士を擦り付けるので私も軽く押し返すようにしてみた。
「さて、ドライアドのところに戻るか。」
彼は器用に私を抱き上げたまま泳ぎ始めた。まるでボールを鰭で運ぶイルカのように…なんて本人には言えないが。
やがて脚のつくところに来ると、カインは犬のようにふるふると頭を震わせて水気を払った。ぺたんと額に張り付いている前髪のせいか、いつもの彼より可愛らしく見える。
「リリノア、寒くない?」
「…少し」
「待っててね」
陸に上がるなり私を木の根の上に座らせた彼は、湖に入る前に自分が脱いだ上着と、私が置いていったショールを手に戻ってきた。
「ちょっと我慢しろよ~」
そういうなり私の両脇から背中に腕を回してびしょびしょのネグリジェのボタンを外し、ファスナーを開けるカイン。手早く衣服を脱がされ、絞ったそれで大雑把に全身を拭いた後に乾いた彼の上着を着せられる。と言うより、サイズの大きな彼の上着に私が着られている感じだった。
「少しはマシになったかな。っと、おーい、ドライアド!今戻ったぞー」
どこに向かうでもなく彼が声を上げると、その返事は私の背後から来た。
「おかえり、早かったじゃない。見つけたものを見せて?」
私は抱きしめていた竪琴をドライアドに見せるように持ち替える。
「これであってる…?」
「…うん、間違いないわね。ありがとう!二人とも!!」
そう言うとドライアドは出会った時のように秀麗に満面の笑みを浮かべた。
「それは今夜のうちに空へ還してしまいましょう。あの切り株の上に置いていってくれる?」
ドライアドが指さす先には、バラのつるが絡んだ、月光が一番よく当たるらしい切り株があった。私はその上に言われた通りに竪琴を置いた。
「今夜はもう遅いから、あの小屋に泊まっていくといいわ。貴方達が潜ってくれている間にできる限りで準備しておいたから。」
細めた目をこちらに向けて笑うドライアドの指さす先を見ると、湖の畔に小さな小屋があった。古いが、壊れている様子もなく、また誰かが住んでいる様子もない。
「かつての当主様が建てたお家よ。一人用だけどね。1晩くらいならどうにかなるわね?」
「…そうだね、ありがとう。行こうか、ノア。」
私たちは軽くドライアドに頭を下げて、ゆっくりと歩き出した。
「そうそう、湖なんだけど。もう元に戻ってしまうから、帰りは気をつけてね。…何も見ないように。」
私は一瞬、背筋に悪寒が走った気がして立ちすくんだ。しかし、大丈夫だと気を取り直してまた歩み始める。まだ話していないカインだけは不思議そうに私を見つめ、それでももう何も問わなかった。
小屋に入ると、そこは小奇麗に整理されたワンルームだった。ちょっとレトロなビジネスホテル…といったところか。暖炉には薪がくべてあり、あとは火をつけるだけで使えるようになっていた。テーブルの上にはパンやチーズ、果物が並べられており、本当に妖精たちがもてなしてくれたのだと分かった。
「ノア、ここ座って。先に髪を乾かしなさい」
そう言われてカインが置いた椅子に座る。彼は暖炉に火を入れると、自身の着ていたシャツを脱ぎ、軽く絞ってから暖炉の縁に掛けた。それから、私が来ていたネグリジェも干して、乾かし始めた。
「ねぇ、カイン。妖精たちって、何なのかな。」
「ん~?」
彼はボスンとベッドに腰掛け、私の方を向いた。
「そうだね、例えるならば…いや、やめておこう。まぁ簡単に言えば、俺達とは別の世界に住む生き物なんだろうな。でも人間よりも神様に近しい存在で、きっと人間よりも永い時を生き抜いている。」
「ふぅん…そうなんだ」
「それよりさ、ノア。君は湖の底で何を見たんだい?ドライアドは知っていたみたいだけど、俺は何も聞いていないよ?」
そうだった。後で話すと言ったきりで何も話していなかった。
「私は…自分の過去を見た。」
「え!?じゃあ、記憶…」
「あ、でも一部分だけね。他は何も…」
「どうして自分の記憶だって分かったの?思い出したから?」
「…それを見た時、本能がアレは自分だと叫んだの。」
「何を見たんだ。」
「…教会みたいな場所。そこの台座の上に縛り付けられて、ずっと放置されている女の子を見た。」
「っ…」
カインが喉を鳴らした。どうやらあれは本当に私の過去だったようだ。彼は見たことがあるのか、将また知っているのか。とりあえず図星で間違いない。
「それは私でしょう?助けてって泣いていたの。」
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「……私が見たのはそれだけよ。」
少しの間沈黙が流れる。気まずさは無いが空気を伝って流れ込む彼の思いには、憐れみとも悲しみともつかない何かがひしひしと感じられた。
「…ノア、もう髪は乾いたかい?」
「え、あぁ、うん。」
思い出して自分の髪をそっと梳くと、暖炉の火の温度が移って温かいそれはいつの間にか乾いていた。
「じゃあもう寝ようか。おいで」
「うん」
呼ばれてベッドに座る彼の元に歩み寄ると、薄明かりでよく見えなかった彼の姿がはっきりする。シャツを脱いでしまったせいで上半身に何も身につけていないのがとても寒そうに見える。その肌は陶器のように白く美しくて、まるで人間のものではないようだ。どちらかというと、先程まで会っていたドライアドのような妖精を連想させる。
「寒くないの?」
私は彼の目の前に立ち、見下ろすような状況で静かに尋ねる。
「ん?」
聞こえたのか聞こえなかったのか、曖昧な返事をするカイン。私はそれを無視して彼の肩にそっと触れた。完全に冷えきって、冷たかった。
「…冷たい。」
呟くと、彼は私の手を掴んで自らの頬に当てた。そして柔らかく微笑んで言った。
「ノアが温かいからそれでいい。」
私は空いている方の手でまだ乾ききっていないカインの髪を撫でた。すると彼は僅かに目を見開いたが、すぐにその紅い光を細めた。
と、そう思ったのも束の間、彼は素早く私を引き寄せて後ろから抱えると、そのままごろっとベッドに転がった。あまりに唐突な出来事に、私は抵抗する日まもなくされるがままにベッドに転がる。
「な、っえ?どうしたの急に…」
「んー…かわい」
「え??」
まるでぬいぐるみでも抱くかのようにぎゅっと抱きしめられる。
「明日の夜…いやもう今日か。俺の部屋に来てくれ。渡したい物がある。」
「あ、はい」
全く話についていけないが、とりあえず返事だけでもと返しておく。背中に感じる彼の首や胸、腕も肩もまだ冷たい。でも、私を抱きしめる掌は少しだけ温かくなっていた。
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