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14. 呪いの本質
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事の始まりは、ある日の朝食の後だった。お腹の変化はまだまだ見た目では分からない程度で、未だに実感がわかない。それでも、微妙なだるさがそれを嫌という程伝えてくるので、安心したりそうでなかったりの日々が続いていた。
「…ごちそうさまでした」
いつも通り食器を重ね、席を立つ。台所の方から帰ってきたカインは、手に銀のトレイを持っていた。それをテーブルに置いたので、そこに食器を乗せた。彼もまた、テーブルに残されているものを乗せられるだけ乗せ始める。…そう、いつもの風景。
しかし、どこか違って見えたのはなぜか。私はさりげなくカインの表情を伺った。僅かに頬が紅潮しているように見える。それに、紅い瞳がいつもより潤んで見えて、具合が良くないのではと思った。
「カイン、大丈夫?」
「えっ、何が?」
「いや、なんか…具合が悪そうだなって」
「そんなことないよ、大丈夫。」
「そう…?」
しかし、次の瞬間に彼はナイフを取り落とした。
「あっ」
「っ…」
ゆっくりと屈んでそれを拾い上げる彼の動作は、やはりぎこちない。
「カイン、やっぱり休んだほうがいいよ」
「大丈夫だって。昨日ちょっと仕事が終わらなくて徹夜になったんだ。きっとそのせいだよ。」
「だったら尚更、」
「いいんだ、よくあることだから。今日は早めに寝るよ」
「…でも」
しかし、言いかけた私の口を止めるように、彼は片手で私の頭を撫でた。その少し冷たい手の温度だけがいつも通りだった。
カインはよほどのことがない限り自分の意見を曲げない。きっとこれ以上何を言っても無駄だろうと思い、大人しく引き下がった。そして、再び台所の方に消えていった彼を目で追っていると。
ガシャアアアアアアアアア!!!!!!
明らかに異常な音が台所から響き渡った。それとともに、ドサッと鈍い音がする。何が起こったかは見るまでも無い。
「…カイン!?」
慌てて台所に駆け込むと、鋭い痛みが足の裏をついた。見ると、そこには粉々に散った食器の破片がいくつも落ちている。しかし、そんなことを気にする余裕もなく視線を前へ向けると、それらの破片に身を沈めて横たわるカインの姿があった。その白い肌は所々ガラスの破片に引き裂かれて血を滲ませている。
「カイン!カイン!」
駆け寄って、彼の肩を軽く揺するも返事がない。それどころか、触れた彼の肩は氷のように冷たい。
「…どうしよう、どうしたらいいの!?」
思考が凍って機能しなくなっていく。白く白く転じて、だんだんと視界まで奪っていくようだった。
と、その時だった。
『リリノア』
「……え?」
どこかから、聞き覚えのある声が耳をかすめた。確かこの声は…
『リリノア』
「…ルリア!?どこ、どどこにいるの!?」
そう、久しぶりに聞いたその声。最近夢にも現れないから忘れかけていた。
「どうしよう、カインが…っ!」
『ええ、分かっているわ。私の声が聞こえるわね?ならば指示に従いなさい。彼を今苦しめているのはプロメテウスの記憶よ。』
「え?」
『取り敢えず、病気ではないことに安心なさい。でも、彼を癒すのは貴女にしか出来ないことなの。』
「でも私は何も知らな、」
『大丈夫。本来ならこんなこと出来ないのだけれど…私の指示するとおりに動きなさい。』
「分かった。」
ルリアの優しげな声は柔らかく私の脳内に響き渡り、広がって溶け消えるようで心地よい。
『まず、彼を別の場所に運びましょう。』
「えっいやでも」
私の力ではカインを引きずりでもしない限り運ぶことは出来ない。でも、そんなことをこの陶器やガラスの破片塗れのところでしたら悲惨なことになり兼ねない…というか目に見えてそうなる。
『大丈夫よ。貴女はギリシャ神たちのすべての力をその身を持って発揮できるのよ。』
「でも、やり方も何も覚えてなくて、」
『だから私が手伝うって。』
すると、何処からともなく少しだけ風が吹いて柔らかなそれはカインと私をゆるく包んだ。そして、その風が止むと、身体が軽くなっていた。
『リリノア。彼の部屋にキャスター付の椅子があったわね?あれを持ってきてちょうだい。』
私は台所を出て階段を駆け上がり、カインの部屋に飛び込んだ。改めて入ったその部屋は、本邸のもの程ではないけれど物が少なくて整頓されていた。椅子のところへ行くと、デスクの上に散らばった手紙が目に付いた。どれもこれも私の知らない言語で宛名が書かれていて、外国からの国際便であると悟る。
私は手紙から目をそらして椅子の背もたれに手を掛けた。そしてカラカラとそれを押しながら部屋を出た。しかし、階段を前にして足が止まる。
「ルリア…」
『そのまま押してご覧なさい』
「でも」
『いいから。』
恐る恐る、言われた通りに階段に椅子を押し出すと、まるでそこがスロープであるかのように椅子はゆっくりと滑り出した。
「えっ…え?」
『気にしない気にしない』
「あ、はい」
今はあまり考えないべきだと自分に言い聞かせて階段を降りる。そして台所に戻ってきた。
『さて、じゃあその椅子に彼を乗せなさい。担いで行くよりは楽でしょう。そして、部屋についたらベッドに下ろして、取り敢えずその血濡れの服を脱がせなさい。それから傷は、破片が残っていないのを確認しながら手当すること。着替えさせるのが大変だったら服は着せずに毛布をかけておいてあげなさい。この時期そんなに寒くないわ。最後に、コップ一杯分の水を飲ませて、首の右側を氷で冷やしなさい。』
「冷やすんですか!?こんなに冷たいのに…」
『いいの。冷やして。そう見えても、彼の意識は今頃、火山の火口に晒されて熱に悶えているだろうから。』
「どうしてそんなことに!?」
『彼は今、プロメテウスの魂と同調して…というか支配されてしまっているの。カイン・ブルードは正規の呪われた子じゃ無いからね。少しだけ、神の子としては欠陥があるのよ。だから、貴女は無意識に神様の魂と同調を図れるけど、彼は意図的に図らなきゃいけない。なのにこの頃、夜は全然寝ないから。』
「そんな…」
『大丈夫だってば。人間で言う体調不良みたいなものよ。そのうち気がつくわ。目が覚めたらお説教の一つでもしてやりなさい。』
話を聞きながら言われるとおりに動くこと数十分。私はベッドに横たわるカインを見詰めていた。冷えきって青白い顔からは疲れがよく見て取れる。
「…できないよ、そんなこと。」
だって、どうしてこんなに疲れているのに気づけなかったの。このごろ寝ていなかった?私が彼の変化に気づいたのは今朝よ。幾ら何でも遅過ぎるじゃないの。それなのに、説教だなんて。
「カイン、何も悪くないじゃない。私のせいだよ。やっぱり、一緒にいない方がいいんじゃないのかな」
私はそっと、自分の下腹部を撫でた。まだここに存在している小さな命の実感はない。でも、確実にそこにいて、この子には彼と私の血が流れる。目の前で静かに眠るカインは、心の底でどんな感情を抱いて私にこの子を託している?
「だって、私がいなければカインは、もっと自由に生きられるんだよ?」
『リリノア』
「そんなの、ひどすぎる話じゃなないの!」
『リリノア!!』
ぱたぱたと音を立てて涙が落ちる。私はいつの間にか泣いていた。
「分かってる、泣いていいのは私じゃないよね…」
『リリノア、貴女はやっぱり誤解しているようね』
「誤解?」
ふわりとした風がまた吹いて、私をそっと撫でた。部屋のカーテンが僅かに揺れて、陽の光をちらつかせていた。
『生まれる前の世界の話を、彼から聞いたことがあるんじゃない?』
「…あるけど」
『彼はどうして、【本来の掟】を覆してまで、兄妹ではなく生まれたと言った?』
「それは…」
『貴女と、正式な伴侶として共に生きたいからだと言ってなかった?』
確かに言っていた。しかし、こうなる事までは知らなかったはず。そんなの、騙されたようなものだとどうして言えないの。
『彼は心の底から幸せなのよ。貴女と生きられるだけでね。ある意味、彼の生きる理由は貴女そのものだから。信じてあげなさいよ。』
「…」
『さて、お話はおしまい。あとは待つだけだから、私はもう行くわよ。また、暫くのお別れね。』
「待って!」
『…』
行ってしまった。でも、何を聞いてもきっとルリアはハッキリとは答えなかっただろう。すべては自分で掴まなければ。
そう思ってカインに目をやると、気がつく様子は一切伺えないが、顔色が僅かに良くなった気がする。何より、頬の色が青白かったのから薄紅色へと血色よくなっていたのだ。
「カイン…私、もう少し頑張るから。だからお願い、無理しないで。」
私の側から、離れないで。
●●●
カインsaid
流石に3日も寝ないのは応えるものがある。視界が霞むし、何よりふとした時に意識が朦朧として思考が停止してしまうのが怖い。
「カイン、大丈夫?」
リリノアがこちらを見上げている。左目だけだが、全力で心配していると語っている。しかし、ここで正直に話せばリリノアは罪悪感を感じてしまうのだろうな。
「えっ、何が?」
「いや、なんか…具合が悪そうだなって」
「そんなことないよ、大丈夫。」
「そう…?」
上手く言いくるめてしまおう。ごめんよ、リリノア。
しかし、手を滑らせてナイフを取り落としてしまう。流石に計算外だ、これじゃあ説得力の欠けらも無い。
「カイン、やっぱり休んだほうがいいよ」
リリノアの心配に火がついた。ダメだな、俺も。
「大丈夫だって。」
無理やり押し通すようにして言葉を紡ぎ、隻眼の少女の頭をふわりと撫でる。手触りの良い髪が手のひらから熱を伝えてくる。
ナイフを拾い、逃げるように台所へと向かった。大丈夫、大丈夫。まるで自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返した。
しかし突然、視界が暗転した。何が起こったかわからずに、適当に手を伸ばして何処かに掴まろうとするも、手は空を切るだけでどこにも触れない。手を離したせいで持っていたトレイが床に落ちた。派手な音を立てて飛び散る破片が足を掠める。あぁ、もう耐えられそうにない。そう思うと両足からがっくりと力が抜けて、床に沈む。しかし、衝撃を受ける前に意識は体を離れた。
気がつくと、見慣れぬ場所にいた。足元を見れば赤く燃える岩の上にいて、周りは溶岩に囲まれている。おそらくここは、火口だ。プロメテウスの記憶を見せられているのだろうか?
神の恩恵を受けている俺達は、時々魂と同調してしまうことがあるのは聞いたことがある。だが、俺の場合は上手く調律を図れないから意図的に調整していたはずだ。なのにどうして…そうか。そもそも、寝ていないから体力が落ちている。だから、調整してあったバランスが崩れてしまったのか。
『助けて…助けてくれ…』
頭の中に突然響き渡るその声は、まるで過去を再生されているかのような錯覚を引き起こす。ここはプロメテウスの意識の渦の中心。彼はこれから、山に住む肉食鳥エトンにその身を啄まれるのだ。肉を骨まで抉られ、少しずつジリジリと死の淵へと追いやられるなんて、明日殺されると宣告された後にあっさりと殺される処刑よりも恐ろしいに決まっている。死より拷問を恐れるのは人間の性だ。
「…熱い」
そう、ここは噴火口。煮えたぎる溶岩は今にも俺の魂ごと蒸発させてしまいそうな程に熱い。早くここから立ち去りたい。しかし、どうしていいか分からない。
「どうしよう、このままではどうにかなってしまいそうだ」
『聞きなさい、私の可愛い息子よ。』
再び脳内に響く声。しかし、先ほどのうめき声とは違う。そう、この声の主は××××。
『カイン、リリノアが赤子を身篭ったそうね。でも、そうなれば危ないのはラミアよ。』
「…。」
『信じて、これは本当の話。ラミアは、』
「他人の子供を殺して回る怪物だろ。そんなこと、知っている。お前の出る幕ではない。」
『そんなこと言わないでよ…リリノアが、貴方のために頑張ったのよ。』
「そうか。では即刻戻って礼を言わなきゃな。早く帰してくれ。」
『ええ、もちろんよ。』
「だが、ここに連れてきたのにはそれなりの理由があるんじゃないのか?」
徐々に熱から開放されてゆく。視界が霞んで、オレンジに支配されていって、目を閉じた。ふわりと身体が浮いたような感覚に包まれて、身を任せた。
『ギリシャに行って。そして、エキドナを探して、彼女を助けてあげて』
目が覚めると、そこは見慣れた自室のベッドの上だった。
「…ごちそうさまでした」
いつも通り食器を重ね、席を立つ。台所の方から帰ってきたカインは、手に銀のトレイを持っていた。それをテーブルに置いたので、そこに食器を乗せた。彼もまた、テーブルに残されているものを乗せられるだけ乗せ始める。…そう、いつもの風景。
しかし、どこか違って見えたのはなぜか。私はさりげなくカインの表情を伺った。僅かに頬が紅潮しているように見える。それに、紅い瞳がいつもより潤んで見えて、具合が良くないのではと思った。
「カイン、大丈夫?」
「えっ、何が?」
「いや、なんか…具合が悪そうだなって」
「そんなことないよ、大丈夫。」
「そう…?」
しかし、次の瞬間に彼はナイフを取り落とした。
「あっ」
「っ…」
ゆっくりと屈んでそれを拾い上げる彼の動作は、やはりぎこちない。
「カイン、やっぱり休んだほうがいいよ」
「大丈夫だって。昨日ちょっと仕事が終わらなくて徹夜になったんだ。きっとそのせいだよ。」
「だったら尚更、」
「いいんだ、よくあることだから。今日は早めに寝るよ」
「…でも」
しかし、言いかけた私の口を止めるように、彼は片手で私の頭を撫でた。その少し冷たい手の温度だけがいつも通りだった。
カインはよほどのことがない限り自分の意見を曲げない。きっとこれ以上何を言っても無駄だろうと思い、大人しく引き下がった。そして、再び台所の方に消えていった彼を目で追っていると。
ガシャアアアアアアアアア!!!!!!
明らかに異常な音が台所から響き渡った。それとともに、ドサッと鈍い音がする。何が起こったかは見るまでも無い。
「…カイン!?」
慌てて台所に駆け込むと、鋭い痛みが足の裏をついた。見ると、そこには粉々に散った食器の破片がいくつも落ちている。しかし、そんなことを気にする余裕もなく視線を前へ向けると、それらの破片に身を沈めて横たわるカインの姿があった。その白い肌は所々ガラスの破片に引き裂かれて血を滲ませている。
「カイン!カイン!」
駆け寄って、彼の肩を軽く揺するも返事がない。それどころか、触れた彼の肩は氷のように冷たい。
「…どうしよう、どうしたらいいの!?」
思考が凍って機能しなくなっていく。白く白く転じて、だんだんと視界まで奪っていくようだった。
と、その時だった。
『リリノア』
「……え?」
どこかから、聞き覚えのある声が耳をかすめた。確かこの声は…
『リリノア』
「…ルリア!?どこ、どどこにいるの!?」
そう、久しぶりに聞いたその声。最近夢にも現れないから忘れかけていた。
「どうしよう、カインが…っ!」
『ええ、分かっているわ。私の声が聞こえるわね?ならば指示に従いなさい。彼を今苦しめているのはプロメテウスの記憶よ。』
「え?」
『取り敢えず、病気ではないことに安心なさい。でも、彼を癒すのは貴女にしか出来ないことなの。』
「でも私は何も知らな、」
『大丈夫。本来ならこんなこと出来ないのだけれど…私の指示するとおりに動きなさい。』
「分かった。」
ルリアの優しげな声は柔らかく私の脳内に響き渡り、広がって溶け消えるようで心地よい。
『まず、彼を別の場所に運びましょう。』
「えっいやでも」
私の力ではカインを引きずりでもしない限り運ぶことは出来ない。でも、そんなことをこの陶器やガラスの破片塗れのところでしたら悲惨なことになり兼ねない…というか目に見えてそうなる。
『大丈夫よ。貴女はギリシャ神たちのすべての力をその身を持って発揮できるのよ。』
「でも、やり方も何も覚えてなくて、」
『だから私が手伝うって。』
すると、何処からともなく少しだけ風が吹いて柔らかなそれはカインと私をゆるく包んだ。そして、その風が止むと、身体が軽くなっていた。
『リリノア。彼の部屋にキャスター付の椅子があったわね?あれを持ってきてちょうだい。』
私は台所を出て階段を駆け上がり、カインの部屋に飛び込んだ。改めて入ったその部屋は、本邸のもの程ではないけれど物が少なくて整頓されていた。椅子のところへ行くと、デスクの上に散らばった手紙が目に付いた。どれもこれも私の知らない言語で宛名が書かれていて、外国からの国際便であると悟る。
私は手紙から目をそらして椅子の背もたれに手を掛けた。そしてカラカラとそれを押しながら部屋を出た。しかし、階段を前にして足が止まる。
「ルリア…」
『そのまま押してご覧なさい』
「でも」
『いいから。』
恐る恐る、言われた通りに階段に椅子を押し出すと、まるでそこがスロープであるかのように椅子はゆっくりと滑り出した。
「えっ…え?」
『気にしない気にしない』
「あ、はい」
今はあまり考えないべきだと自分に言い聞かせて階段を降りる。そして台所に戻ってきた。
『さて、じゃあその椅子に彼を乗せなさい。担いで行くよりは楽でしょう。そして、部屋についたらベッドに下ろして、取り敢えずその血濡れの服を脱がせなさい。それから傷は、破片が残っていないのを確認しながら手当すること。着替えさせるのが大変だったら服は着せずに毛布をかけておいてあげなさい。この時期そんなに寒くないわ。最後に、コップ一杯分の水を飲ませて、首の右側を氷で冷やしなさい。』
「冷やすんですか!?こんなに冷たいのに…」
『いいの。冷やして。そう見えても、彼の意識は今頃、火山の火口に晒されて熱に悶えているだろうから。』
「どうしてそんなことに!?」
『彼は今、プロメテウスの魂と同調して…というか支配されてしまっているの。カイン・ブルードは正規の呪われた子じゃ無いからね。少しだけ、神の子としては欠陥があるのよ。だから、貴女は無意識に神様の魂と同調を図れるけど、彼は意図的に図らなきゃいけない。なのにこの頃、夜は全然寝ないから。』
「そんな…」
『大丈夫だってば。人間で言う体調不良みたいなものよ。そのうち気がつくわ。目が覚めたらお説教の一つでもしてやりなさい。』
話を聞きながら言われるとおりに動くこと数十分。私はベッドに横たわるカインを見詰めていた。冷えきって青白い顔からは疲れがよく見て取れる。
「…できないよ、そんなこと。」
だって、どうしてこんなに疲れているのに気づけなかったの。このごろ寝ていなかった?私が彼の変化に気づいたのは今朝よ。幾ら何でも遅過ぎるじゃないの。それなのに、説教だなんて。
「カイン、何も悪くないじゃない。私のせいだよ。やっぱり、一緒にいない方がいいんじゃないのかな」
私はそっと、自分の下腹部を撫でた。まだここに存在している小さな命の実感はない。でも、確実にそこにいて、この子には彼と私の血が流れる。目の前で静かに眠るカインは、心の底でどんな感情を抱いて私にこの子を託している?
「だって、私がいなければカインは、もっと自由に生きられるんだよ?」
『リリノア』
「そんなの、ひどすぎる話じゃなないの!」
『リリノア!!』
ぱたぱたと音を立てて涙が落ちる。私はいつの間にか泣いていた。
「分かってる、泣いていいのは私じゃないよね…」
『リリノア、貴女はやっぱり誤解しているようね』
「誤解?」
ふわりとした風がまた吹いて、私をそっと撫でた。部屋のカーテンが僅かに揺れて、陽の光をちらつかせていた。
『生まれる前の世界の話を、彼から聞いたことがあるんじゃない?』
「…あるけど」
『彼はどうして、【本来の掟】を覆してまで、兄妹ではなく生まれたと言った?』
「それは…」
『貴女と、正式な伴侶として共に生きたいからだと言ってなかった?』
確かに言っていた。しかし、こうなる事までは知らなかったはず。そんなの、騙されたようなものだとどうして言えないの。
『彼は心の底から幸せなのよ。貴女と生きられるだけでね。ある意味、彼の生きる理由は貴女そのものだから。信じてあげなさいよ。』
「…」
『さて、お話はおしまい。あとは待つだけだから、私はもう行くわよ。また、暫くのお別れね。』
「待って!」
『…』
行ってしまった。でも、何を聞いてもきっとルリアはハッキリとは答えなかっただろう。すべては自分で掴まなければ。
そう思ってカインに目をやると、気がつく様子は一切伺えないが、顔色が僅かに良くなった気がする。何より、頬の色が青白かったのから薄紅色へと血色よくなっていたのだ。
「カイン…私、もう少し頑張るから。だからお願い、無理しないで。」
私の側から、離れないで。
●●●
カインsaid
流石に3日も寝ないのは応えるものがある。視界が霞むし、何よりふとした時に意識が朦朧として思考が停止してしまうのが怖い。
「カイン、大丈夫?」
リリノアがこちらを見上げている。左目だけだが、全力で心配していると語っている。しかし、ここで正直に話せばリリノアは罪悪感を感じてしまうのだろうな。
「えっ、何が?」
「いや、なんか…具合が悪そうだなって」
「そんなことないよ、大丈夫。」
「そう…?」
上手く言いくるめてしまおう。ごめんよ、リリノア。
しかし、手を滑らせてナイフを取り落としてしまう。流石に計算外だ、これじゃあ説得力の欠けらも無い。
「カイン、やっぱり休んだほうがいいよ」
リリノアの心配に火がついた。ダメだな、俺も。
「大丈夫だって。」
無理やり押し通すようにして言葉を紡ぎ、隻眼の少女の頭をふわりと撫でる。手触りの良い髪が手のひらから熱を伝えてくる。
ナイフを拾い、逃げるように台所へと向かった。大丈夫、大丈夫。まるで自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返した。
しかし突然、視界が暗転した。何が起こったかわからずに、適当に手を伸ばして何処かに掴まろうとするも、手は空を切るだけでどこにも触れない。手を離したせいで持っていたトレイが床に落ちた。派手な音を立てて飛び散る破片が足を掠める。あぁ、もう耐えられそうにない。そう思うと両足からがっくりと力が抜けて、床に沈む。しかし、衝撃を受ける前に意識は体を離れた。
気がつくと、見慣れぬ場所にいた。足元を見れば赤く燃える岩の上にいて、周りは溶岩に囲まれている。おそらくここは、火口だ。プロメテウスの記憶を見せられているのだろうか?
神の恩恵を受けている俺達は、時々魂と同調してしまうことがあるのは聞いたことがある。だが、俺の場合は上手く調律を図れないから意図的に調整していたはずだ。なのにどうして…そうか。そもそも、寝ていないから体力が落ちている。だから、調整してあったバランスが崩れてしまったのか。
『助けて…助けてくれ…』
頭の中に突然響き渡るその声は、まるで過去を再生されているかのような錯覚を引き起こす。ここはプロメテウスの意識の渦の中心。彼はこれから、山に住む肉食鳥エトンにその身を啄まれるのだ。肉を骨まで抉られ、少しずつジリジリと死の淵へと追いやられるなんて、明日殺されると宣告された後にあっさりと殺される処刑よりも恐ろしいに決まっている。死より拷問を恐れるのは人間の性だ。
「…熱い」
そう、ここは噴火口。煮えたぎる溶岩は今にも俺の魂ごと蒸発させてしまいそうな程に熱い。早くここから立ち去りたい。しかし、どうしていいか分からない。
「どうしよう、このままではどうにかなってしまいそうだ」
『聞きなさい、私の可愛い息子よ。』
再び脳内に響く声。しかし、先ほどのうめき声とは違う。そう、この声の主は××××。
『カイン、リリノアが赤子を身篭ったそうね。でも、そうなれば危ないのはラミアよ。』
「…。」
『信じて、これは本当の話。ラミアは、』
「他人の子供を殺して回る怪物だろ。そんなこと、知っている。お前の出る幕ではない。」
『そんなこと言わないでよ…リリノアが、貴方のために頑張ったのよ。』
「そうか。では即刻戻って礼を言わなきゃな。早く帰してくれ。」
『ええ、もちろんよ。』
「だが、ここに連れてきたのにはそれなりの理由があるんじゃないのか?」
徐々に熱から開放されてゆく。視界が霞んで、オレンジに支配されていって、目を閉じた。ふわりと身体が浮いたような感覚に包まれて、身を任せた。
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