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33 「マキ」
しおりを挟む自室のドアを開ける律。
部屋の中は、律が家を出る前から少しも変わりなく綺麗に保たれていた。
部屋の中に足を踏み入れ、しみじみと周りを見渡す。
幼く病弱な頃、寝ていてばかりだった布団。学生になって夜遅くまでテスト勉強に励んだ机。窓から注ぎ込む陽射しによる畳の日焼け部分でさえ懐かしく、胸の奥にじんわりと温もりが生まれる。
机の棚に並んでいる学生時代の教科書を手に取り、ページを捲る。
黄色の蛍光ペンで大事な箇所に線が引かれてある。といっても、ページの大半の文字に引かれているのだが。
律は昔の授業風景を思い出し、懐かしみながら教科書を元の位置へと戻した。
「もう使わないから、捨ててもいいのに」
均等に並ぶそれらの本や机の上には埃ひとつなく、雅美がこまめに掃除をしてくれていることは簡単に窺えた。
「……ただいま」
自分の人生の半分以上を過ごしてきた場所に、その言葉は自然と口から零れていた。
「律!」
思い出に耽っていると、一階から自分の名前を呼ぶ雅美の声が聞こえてきた。
律は雅美の元へと向かうべく、そのまま部屋を後にする。
「久し振りに帰ってきたのだから、仏壇にも手を合わせなさいね」
居間に戻るなり律は雅美に声を掛けられる。
律は、そうだ、と思い出す。
居間の隣に位置する仏間には仏壇が置いてあり、祖父母と兄の写真が飾られている。
急いで仏間に移り仏壇の前に正座をすると、線香の入っている箱を取り出すべく仏壇の引き出しを漁っていく。
「――そうだ、思い出した。マキ君って名前だったわ」
律が箱を探している間に耳に届いた雅美の独り言の中には、律にとって深く馴染みのある名前が含まれていた。
同時に線香の箱を見付けた律は、蝋燭にライターで火を灯す。
「不思議な子だったのよね。どこかで会った気もするのだけれど」
一本の線香に蝋燭の火を移し、線香立てにそっと添える。後方では雅美が豊に向け会話を続ける。
「何が不思議だったんだ?」
律は、手を合わせる前に、仏壇の写真をまじまじと見る。
祖父母の写真と、十七歳で時が止まった兄の写真。
「その子ね、律が退院することと、その連絡が来ることを言い当てていたの」
若くあどけない笑顔の兄の写真。
律は、この笑顔の持ち主を知っている。
「なんとなくそんな気がするって言っていたのだけれど、本当にその通りになったのよ」
――律の中で、全てのピースが繋がった。
「――マキ君。今思えば名前も懐かしいわ。律が雅紀のことを、まきちゃんって呼んで。ずっと後をついて行っていたわよね」
「ああ。雅紀も律を随分可愛がっていたしな」
そういうことだったのか。
何故気が付かなかったのか。兄である雅紀の顔を忘れていたわけではない。だが、まるで意図されているかのように、マキの顔と雅紀の顔がリンクされることは拒まれていた。
顔だけではない。マキの口調や癖、性格、雰囲気までもが、自分の幼い頃の記憶の中にいる雅紀と同じものである。
「お母さん! その子お兄ちゃんと似てなかった!?」
律は仏壇に頭を下げることも忘れ、勢いよく立ち上がると雅美の元へと詰め寄る。
「雅紀と? どうだったかしら。……あら? いやだわ、マキ君の顔が思い出せない」
律の言葉を受け雅美はマキの顔を思い出そうと記憶を辿るが、マキの顔にうっすらと白い靄が掛かっており、欠片も思い出せずにいる。
「お母さん! 思い出して、多分マキは――」
マキの特徴を忘れてしまった雅美に焦りを感じる律は、自分が辿り着いた真実を伝えようと口を開く。
「――あれ? だから、お兄ちゃんは――」
しかし、マキと雅紀が同一人物だと言葉にしようとする度に、肝心な部分だけが掻き消されるように声に出せなくなってしまう。
「律、どうしたの?」
急に様子がおかしくなる律に、雅美は心配の目を向ける。
思い通りに発言できず歯痒い律は、更に苛立ちを募らせていく。
「だから、マキは――」
……――あれ? マキって、誰?
瞬間、律の記憶にあるマキの存在が失われた。
「――律? 大丈夫? マキ君と知り合いなの?」
雅美に声を掛けられ、はっと我に返る律。同時にマキの顔や記憶が自分の中に戻ってくる。
律は、マキに関する記憶が雅美の中から、そして自分の中からも、まるで初めから存在しなかったかのように消えてしまっていくことに気が付いた。
「お母さん! マキと会ったのはいつ? どこに向かうとか、何をするとか言ってなかった?」
律の質問に雅美は記憶を呼び起こす。
「会ったのは確か四日前とかだったかしら。律から退院する連絡を貰ったのが三日前でしょ。その前日だったわ。どこに向かうとかは聞いていないわね……。あの子とはすぐに別れたし」
雅美の言葉が正しければ、律がマキと気まずい別れ方をした後日に二人は顔を合わせたことになる。
律とマキとは再会の約束もせず唐突な別れだったため、彼が今どこで何をしているのか何の手掛かりも残っていない。
マキは知っていたのだ。自分の存在が律の中から失われてしまうことを。
そのためにあの時突き放すような態度を取ったに違いない。
このまま終わってしまってもいいのか。明日、目が覚めた時にはマキの存在は消えてしまっているかもしれない。そして恐らくその事実にすら気付くことはないのだろう。
――そんなの、絶対に嫌だ。
律はふと、壁に掛かってあるカレンダーを視界の端に捉える。
「……お母さん、私ちょっと出掛けてくる」
律の瞳が何かに気付いたかのように、一瞬の閃きを宿した。
「え? さっき帰ってきたばかりじゃない。どうしちゃったの」
雅美は先程から様子のおかしい律を当然のごとく引き留める。
「どうしても今行かないといけなくって、ちゃんと帰ってくるから安心して」
そんな雅美を律は落ち着いた口調で説得する。
「でも……」
「行ってこい。車を出そうか?」
雅美が不安そうに言葉を濁していると、豊がそっと律の背中を押した。
「大丈夫だよ、そう遠くないし」
律は思ってもいなかった豊の後押しに目をぱちくりとさせると、慌てて言葉を返す。そしてそのまま玄関へと向かい靴を履き直した。
「気を付けて行ってくるのよ」
豊の言葉に観念した雅美は、律を送り出すべく玄関口まで姿を現す。
「分かった」
律は雅美の方へ振り向くことなく返事をし、玄関の引き戸を開いた。
引き戸のレールを跨ぎ両足が外のタイルを踏むと、律は静かに振り返り、雅美と正面から向き合う。
「お母さん」
律は、穏やかな表情で雅美を見据える。
「私、生まれてきて本当に良かった。私を産んでくれてありがとう。行ってきます」
律はその言葉だけを残すと、雅美の表情を確認することなく、足早に《そこ》へと駆け出した。
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