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伯爵家編
明けゆく世界
しおりを挟む──いったい、なにが起こったのだろう。
「怪我は、ない……?」
「レオナルドさま……?」
メイベルが呆然と呟くのは、自身を抱き締める人の名前。呻き声を洩らす口を、喉を、胸を。視線で辿り、息を呑む。
彼の胸には銀色のナイフが刺さっていた。
「……ん?あぁ、僕は大丈夫だから、」
「大丈夫なわけないでしょう……!?」
ナイフを抜こうとする手を押し止めて、メイベルは振り返る。
先程までソファに座っていたはずの少女──キャンディは、生気の抜けた目で立ち尽くしていた。自分が何をしたのか、まるでわからないといった風に。
メイベルは半ば叫ぶようにしてその名を呼ぶ。どうしてこんなことを、とキャンディをなじる。
すると少女はハッと目を見開いた。
「ちがう……私じゃない、私のせいじゃない……っ」
「何を言って、」
「あんたが悪いの!あんたが奪ってくからっ、だから私は、私は……!」
問いつめかけて、少女が平静とはほど遠いことを知る。病的に蒼白い膚、わななく唇、落ち着きなくさ迷う目……。
手負いの獣だ、とメイベルは思う。思うけれど、でも、どうしたらいいのかわからない。
「私は何も奪ったりしないわ」と努めて冷静に話しかけても、「ウソ!」の一言で切り捨てられてしまう。
「嘘じゃないわ、本当よ。ねぇ、何を返してほしいの?」
「ぜんぶ、全部よ!早くエミリをここに連れてきて!私に返してっ!」
「エミリさん?」
それは彼女のレディス・メイドの名前だ。けれど今ここでその名が出てくるとは思わなかったから、メイベルは目を瞬かせる。
……そういえば彼女はどこへ行ったのだろう。いつの間にか姿が見えない。この部屋に通してくれたのは彼女だったし、この騒ぎは目にしているはずだから、誰か人を呼びにいってくれたのかもしれない。
そう説明したところで、今のキャンディには届かないだろう。だからメイベルは「彼女ならすぐに戻ってきますわ」と宥めようとしたのだけど。
「来ないで!」
「メイベル……っ」
何かがキラリと光った。……ような気がして、踏み出しかけた足を引っ込める。と、眼前に突きつけられたのは銀のフォーク。その鋭い先端と眼光に、思わず怯む。
「危ないから下がって」そう囁いてメイベルの腕を引くのは、怪我をしているはずのレオナルドだ。珍しく厳しい顔つきをしている。
けれどそれはこちらとて同じこと。
「下がるのはあなたの方よ。怪我人なんだから大人しくしてなさい」
「いや僕は……」
「いいから、下がって」
まったく何を考えているのやら。人の心配をする前に止血のひとつでもするべきだろうに。
メイベルがきつい口調で前に出ると、さすがのレオナルドからも反論は生まれなかった。メイベルは改めてキャンディに向き直る。フォーク一本しか己を守る術のない、かわいそうな女の子へと。
「やめて、こないでって言ってるでしょ……!」
「いいえ、やめないわ。だって近づかなきゃあなたとちゃんとお話しできないでしょう?」
「はなし、なんて、」
「私は知りたいわ、あなたのこと。あなたが何をそんなに恐れているのか、何があなたを苦しめているのか……、教えてほしいの」
フォークを握り締めた手に自身のそれを重ねる。そうしても彼女は抵抗しない。背中に手を回しても、……抱き締めても。
「私たちはあなたを傷つけたりなんかしないわ。約束する」
「ほんとう……?」
「ええ」
それまでの興奮が嘘のよう。キャンディは素直に身を預けてくる。からん、とフォークが床に落ちる音が静かな部屋に響いた。
不安だったんだわ、とメイベルは思った。前世の記憶があるばかりに、他者との疎外感を覚える。自分ひとりが異物のような、そんな錯覚。それはメイベル自身にも覚えのある感覚だ。
今よりずっと幼い頃は自分の頭がおかしいのかとすら考えた。けれどメイベルの場合は幸運なことに理解者がいた。従兄のクロードが自分にも前世の記憶があると打ち明けてくれたから、それが大きな救いとなったのだ。
だからメイベルもキャンディと親しくなりたかった。ひとりじゃないんだよって教えてあげたかった。色々な要因が重なって彼女をここまで追い詰めてしまったけれど──でも、間に合ったのだと信じたい。
「……つらいことがたくさんあったのね」
「……みんなして私の悪口ばっかり言うんだ。私は、私だって精一杯がんばってるのに」
「そうね、今までよく我慢したわ。でももうひとりで耐える必要はないの。一緒に見返してやりましょう?」
「うん、うん……!」
縋りつくキャンディの背中を撫でていると、勢いよくドアが開かれた。
「メイベル嬢……!」
「リチャードさま!?それにユリウスさままで……」
青ざめた顔で駆け寄ってきたのはリチャードだった。
『なぜ彼らがここに』と驚くが、ふたりの後ろにエミリの姿を認めて、理解する。彼女が助けを呼びに行ってくれたのだ。それも、騒動をうちうちに収めてくれそうな人を。
しかしリチャードの顔を見たキャンディは、怯えた様子でメイベルの胸へと顔を埋めた。まだ他人に対する恐れや疑いの感情は薄れていないのだろう。心配してくれたリチャードには悪いけれど。
「わたくしは大丈夫です。それよりレオナルドさまを……怪我をされているのです。早く治療をしなくては、」
「いや、その必要はないな」
否定したのはユリウスだった。真っ先に友人の元へと駆けつけた彼はしかし、今は呆れ顔でレオナルドの懐を探っていた。
「命拾いしたな」そう言ったユリウスの手には、一冊の本。厚さも重みもないそれを見て、メイベルは「あっ!」と声をあげる。それは先刻、他でもないメイベル自身がレオナルドに手渡した聖書だった。
「まさかそれが……」
「ああ、鎧になったようだな。……まったく、さっさとそう言ってやればよかったのに」
「いやぁ……なんだか機を逸してしまってね」
あはは、と笑うレオナルドに恨みがましい気持ちにならないでもなかったけれど。でもそれ以上にホッとして、メイベルの「よかった」という呟きには涙が混じっていた。
そんなメイベルを、リチャードは物言いたげな目で見る。が、メイベルが気づくより早く視線を外し、「本当に、無事でよかった」と呟いた。
「しかしいったい何が……」
「それは……」
メイベルは口ごもり、腕のなかのキャンディを見る。
すると彼女は一度大きく息を吸い、それから──
「わ、私が……私がやったの!私がその人を刺して……」
「キャンディさま、それは、」
「ごめんなさい、私、どうかしてた……。みんながみんな憎らしくて、こっ、殺してやりたいくらい、憎らしくて……」
告白に、兄であるユリウスは「なんてことを」と眼差しを鋭くする。
でも『どうかしてた』という彼女の主張は本当だ。本当に、あの時の彼女は常軌を逸していた。酷い興奮状態にあったのだ、とあの様子を見ていた者なら誰でもわかることだろう。
そうメイベルが言うと、被害者であるレオナルドも「そうだね」と同意を示した。
「錯乱していた、っていうのが正しいかな。そんな彼女に責任能力を求めるのは酷な気がするよ」
「だが……」
「どうしてお嬢様がそんなことに……」
嘆くようにも哀れむようにも聞こえる声で、エミリは呟く。
その響きに違和感を抱くより先に、リチャードが口を開いた。
「……あなたはこうなることがわかっていたのではないですか?」
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