11 / 15
昔むかしのそのまた昔
しおりを挟む──桂花の花が揺れている。
秋の庭院。春や夏のような鮮やかさを失う代わりに、どことなく高貴な風情を感じさせる。さわさわと鳴る果樹からは仄かに甘い香りが漂っていた。
「──さま、姫神さま、」
幼さの残る声に呼び掛けられ、振り返る。
視線の先にいたのはまだ十にも満たない子ども。柔和な面立ちの少年はしかし、不満げに見上げてくる。
「姫神さまはつくづく現に興味がないのですね。いつもぼうっとなさって、どこか遠くを見てらっしゃる」
「そんなことありませんよ」
「あるから言っているのです」
卓子を挟んだ向かい、手習いをしていたはずの少年はすっかりその手を止めてしまっていた。
責められている。とはいえ、反論も怒りも湧かない。むしろ少年の膨らんだ頬が可愛らしくて、笑みが溢れた。
人の子の、なんと愛おしいこと。「なぜ笑うのですか」そう口を尖らす少年に、「ごめんなさいね」と頭を撫でる。
「お庭があんまりにもきれいだったものだから、つい」
許してね、と窺い見れば、少年は渋面のまま小さく顎を引く。
「仕方ありませんね」大人びた物言いは背伸びしたがる子ども特有のそれ。そういえば以前『早く大人になりたい』とぼやいていた。
『早く大人になって、そしたら──』そしたらどうするの?続く言葉は少年が呑み込んでしまったからわからない。でも大人になってどうするというのだろう?時が経つということは、それだけ死に近づくということだ。
その時にはもうこの柔らかな膚も温もりも残されていないのだろう。
「もしや故郷を想っていたのですか?姫神さまは海を渡った先の、遠い異郷の地からこちらにいらしたのですよね」
「ええ。是非に、と乞われたから──」
「……やはりふるさとは恋しいですか」
少年は口を真一文字にして訊ねてくる。答えを恐れるかのように、それでもなお目を逸らすことはなく。
問いかける少年の真摯な眼差しにつられ、姫神と呼ばれた女も表情を改める。
「どう、なんでしょう……」
首を傾けると、はらりと金糸が胸元に落ちる。
この国の人が持たぬ色合い。海を隔てた先、大陸の出身であることを示すもの。
一見すると異形の者──と捉えられることも多いそれを、しかしこの少年は初対面の時から好意的に見てくれた。『春の日差しのようだ』そう言って、神の身なれど人間のように慕ってくれた。
だから、
「寂しくはないのです。懐かしくは思いますけれど、でも、今の私には貴方がいますから──」
だから、大丈夫。
そう言って、笑みかける。そうすれば少年もホッとしたように表情を緩めるから、孤独な神の心も癒された。
「貴女にお寂しい思いはさせません。ずっと側に、お側にいますから……」
「……ありがとうございます、薫の君」
抱き締めると、少年の手も背中に回る。
「姫神さまからは佳い香りがします。龍脳のような、清らかな匂い……」
少年は腕の中で「すきです」とかそけき声で呟いた。
「すきです、……この匂い」
小さな手が背中を強く抱く気配がして、「ありがとう」と応える。
風には冷たいものが混じるようになったけれど、寂寞感はなかった。代わりにあるのは心地のいい穏やかな時間で、そしてそれは途方もなく愛おしいものだった。
……永遠を、願ってしまうほどに。
それはとある秋の日のこと。京のすぐ近く、比売神の祀られた寺院でのこと。少年と出逢って一年目のことだった。
雪がちらついている。どうやら夜の間に降り出したらしい。
朝露に煙る庭院を眺め、『通りで寒いわけだ』と衣を掻き抱く。
と、その手に重なる温もりがひとつ。
「姫神サマの朝は随分と早いんだな」
背後から抱き竦め、軽口を叩くひと。様々な巡り合わせから夫となった人間は、しかし遠慮がない。
首筋に、頬に、順番に口づけられ、擽ったさに身を捩る。こういうのは、未だに慣れないのだ。
「旦那さま……、起こしてしまいましたか?」
「ああ……、でもあんたが雪に拐かされる前に目が覚めてよかったよ」
「ふふ、おかしなことを仰るのですね。私、そんなに頼りなく見えますか?」
これでも神としてそれなりの時間を過ごしてきた。住み慣れない異国の地ということもあって以前よりは力も弱まっているが、それでも触れれば溶ける雪ほど儚い存在ではない。むしろ人間の方がよほど脆弱ではなかろうか。
夫の物言いがおかしくて、くすくすと笑う。
けれど彼は笑わない。「ああ」と頷いて、いっそう強く抱き締めてくる。痛々しいまでの必死さが窺える、その様子。
「旦那さま?」
「……オレは、怖いよ。あんたがふらっと消えていなくなってしまいそうで」
いつもどこか遠くを見ているから、と。
そう呟かれ、かつて似たようなことを言った少年の顔を思い出した。
「薫の君にも言われました。やはり縁戚関係にあると感じ取るものも似通ってくるのでしょうか」
数年前親しくしていた少年と今の夫には血の繋がりがある上、二人して陰陽道に身を置いている。だから常人には説明のつかない【勘】のようなものが働いたのだろうか?
尤もそれは筋違い、無用な心配である。が、気遣われるというのは存外悪くない。神の身であれば味わうことのなかったそれは面映ゆく、冬の朝に凍えきった心臓に火が灯された。
「あの方は今もお元気でしょうか」
「ああ、そういえば薫とは知り合いだったか」
「ええ、彼の元服前に少し。ご静養にいらした際、よくしていただきました」
けれどもう長いこと会っていない。夜盗に襲われた折り、偶然近くを通りかかった貴族の若君に救われ、その恩を返すべく嫁いできて以来──一度も。だから彼のことは少年の日のまま、幼い面影しか思い出せるものはない。
しかしあの日の少年も立派な大人になっていることだろう。夫とは同い歳のはずだから、もしかすると子どもまで生まれているかも。きっとあの頃の少年に似て利発な子に違いない──
「……なんだか妬けるな」
昔を懐かしんでいると、戯れに耳を噛まれた。「昔の男の話など、寝屋で話すもんじゃない」そう言って。
冗談混じりに妬心をぶつけられ、思わず笑った。
「貴方さまがそのようなことを気になさるとは」
「嫉妬くらいするさ。それが薫みたいな完璧な貴人が相手ときたらな。勝ち目がないだろ」
「珍しいこともあるのですね。そんな気弱なことを仰るなんて。貴方さまも十分、素敵な方なのに」
「あんたの趣味を疑うわけじゃないが……」
「あら、私の言葉だけでは不満ですか?もっと多くの姫君からの賛辞がほしいと?」
「……まさか」
身分ある男性なら正室以外に通う相手がいても不思議じゃない。むしろそれが当たり前で、「あんただけでいい」なんて言ってくれる彼は世間も認める変わり者だった。
そしてそんな彼だからこそ愛おしいとも思った。
──叶うなら、この日常を永遠に。
「体が冷たくなってきたな……。そろそろ中に戻ろう、お腹の子にも悪い」
膨らんだ腹を撫でる夫の、その眼差しの優しさに幸福を感じた。
それはとある冬の日のこと。 京に建てられた邸でのこと。九条の家に嫁いで二年目のことだった。
打ち寄せる波の音が聞こえてくる。
目を開けると、辺りはすっかり宵の頃。息のつまるような闇が広がっていた。
「……目が覚めた?」
そう訊ねるひと。自分を横抱きにして顔を覗き込んでくる、その柔和な笑みには見覚えがある。
「薫の君……?」
「あぁ、よかった、覚えていてくれたんだね」
くしゃりと相好を崩す、輝くばかりの顏。そうすると幼さがよみがえって、記憶の中の少年の面差しと重なった。
──あぁ、でも、どうして。どうして貴方がここにいるの。
「覚えていてくれたのに、なのにどうして君は彼を選んだんだろう。どうして君は俺との約束を守ってはくれなかったんだろう」
謡うように呟いて。微笑みながら頬を撫でて。愛おしげに目を細めて。──なのに底冷えする空虚な眼差しで、男はかつて姫神と慕った女を見つめる。
「……側にいると、約束したのに」
その言葉に、女は己の罪深さを知る。あの日の心清らかな少年の、その思いを踏みにじった愚かさを。重ねた罪の重さを。理解し、自覚し、唇を震わせる。
ごめんなさいと言えたらよかった。あの日のように赦しを乞えたら、どんなに楽だったろう。けれどそのいずれも今の彼は求めていない。そう悟ってしまったから、何も言えなかった。
「『彼の沢の堤に、蒲と荷とあり……』」男が口ずさむのは大陸より伝わりし詩。美しいあの人を想っては胸を痛めるが、しかし想いを遂げる術はない。寝ても覚めても、ただ泣き暮れるだけである──そんな古の恋の詩を諳じて、男は玲瓏たる瞳を歪める。
「我が麗しき葉中の華、灼々たる紅芙蓉……。俺にとって、君は春の佳人だった」
けれど違った。「君の心は白日、……俺だけを照らしてはくれなかった」太陽のように移り気で、とらえどころがない。だからこの手からもすり抜けてしまったのだ。
男はそう言って、わらう。
──頬を、輪郭を、顎を。伝う指先が、痛いほどに冷たい。
「俺が君の北辰星になりたかった」
絞り出された声は血の味、懊悩の色。惑い、苦しみ──果てにこの海へと辿り着いたのだ。
夜より深く色濃い、底無しの海へと。おちていくのだ、と理解し、女は男の頬に手を伸ばした。
触れた膚は柔らかく、昔と同じ温もりが感じられた。
「姫神さま……?」
懐かしき日々、当時と同じように声を揺らす男を見上げ、姫神だった女は微笑む。
「『慎んで我が蓮をゆすることなかれ』と言いますものね」想いを踏みにじってはならない、なんて今さら遅すぎるけれど。夫を想うそれとは違うけれど。
「どこへなりとお供いたします。たとえ、浪の下の都であろうとも」
──でも、あの日の少年を愛していたのもまた事実だったから。
何も与えてやれなかった。何も遺してやれなかった。想いに報いることができなかった。
だからせめて、私のこの命ひとつくらいは。
囁きに、男は「あぁ、」と深い溜め息をこぼした。それは喜びであり悲しみであり、泣き出す寸前の迷い子の表情であった。
「君がそんなに優しいから……過ぎるほどに優しいから、だから俺は君を、」
男は喉を震わせ、女を掻き抱いた。縋るように強く、強く。
──そしてすべては、夜の海へと溶けていった。
それは遠い昔のこと。今ではもう覚えている者はひとりしかいない、とある日のこと。春の訪れも近い、夜の海でのことだった。
0
あなたにおすすめの小説
神様の手違いで、おまけの転生?!お詫びにチートと無口な騎士団長もらっちゃいました?!
カヨワイさつき
恋愛
最初は、日本人で受験の日に何かにぶつかり死亡。次は、何かの討伐中に、死亡。次に目覚めたら、見知らぬ聖女のそばに、ポツンとおまけの召喚?あまりにも、不細工な為にその場から追い出されてしまった。
前世の記憶はあるものの、どれをとっても短命、不幸な出来事ばかりだった。
全てはドジで少し変なナルシストの神様の手違いだっ。おまけの転生?お詫びにチートと無口で不器用な騎士団長もらっちゃいました。今度こそ、幸せになるかもしれません?!
辺境に追放されたガリガリ令嬢ですが、助けた男が第三王子だったので人生逆転しました。~実家は危機ですが、助ける義理もありません~
香木陽灯
恋愛
「そんなに気に食わないなら、お前がこの家を出ていけ!」
実の父と義妹に虐げられ、着の身着のままで辺境のボロ家に追放された伯爵令嬢カタリーナ。食べるものもなく、泥水のようなスープですすり、ガリガリに痩せ細った彼女が庭で拾ったのは、金色の瞳を持つ美しい男・ギルだった。
「……見知らぬ人間を招き入れるなんて、馬鹿なのか?」
「一人で食べるのは味気ないわ。手当てのお礼に一緒に食べてくれると嬉しいんだけど」
二人の奇妙な共同生活が始まる。ギルが獲ってくる肉を食べ、共に笑い、カタリーナは本来の瑞々しい美しさを取り戻していく。しかしカタリーナは知らなかった。彼が王位継承争いから身を隠していた最強の第三王子であることを――。
※ふんわり設定です。
※他サイトにも掲載中です。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
悪役令嬢の心変わり
ナナスケ
恋愛
不慮の事故によって20代で命を落としてしまった雨月 夕は乙女ゲーム[聖女の涙]の悪役令嬢に転生してしまっていた。
7歳の誕生日10日前に前世の記憶を取り戻した夕は悪役令嬢、ダリア・クロウリーとして最悪の結末 処刑エンドを回避すべく手始めに婚約者の第2王子との婚約を破棄。
そして、処刑エンドに繋がりそうなルートを回避すべく奮闘する勘違いラブロマンス!
カッコイイ系主人公が男社会と自分に仇なす者たちを斬るっ!
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
結婚したくない腐女子が結婚しました
折原さゆみ
恋愛
倉敷紗々(30歳)、独身。両親に結婚をせがまれて、嫌気がさしていた。
仕方なく、結婚相談所で登録を行うことにした。
本当は、結婚なんてしたくない、子供なんてもってのほか、どうしたものかと考えた彼女が出した結論とは?
※BL(ボーイズラブ)という表現が出てきますが、BL好きには物足りないかもしれません。
主人公の独断と偏見がかなり多いです。そこのところを考慮に入れてお読みください。
※番外編に入り、百合についても語り始めました。
こちらも独断と偏見が多々あるかもしれないのでご注意ください。
※この作品はフィクションです。実際の人物、団体などとは関係ありません。
※番外編を随時更新中。
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
ゲーム未登場の性格最悪な悪役令嬢に転生したら推しの妻だったので、人生の恩人である推しには離婚して私以外と結婚してもらいます!
クナリ
ファンタジー
江藤樹里は、かつて画家になることを夢見ていた二十七歳の女性。
ある日気がつくと、彼女は大好きな乙女ゲームであるハイグランド・シンフォニーの世界へ転生していた。
しかし彼女が転生したのは、ヘビーユーザーであるはずの自分さえ知らない、ユーフィニアという女性。
ユーフィニアがどこの誰なのかが分からないまま戸惑う樹里の前に、ユーフィニアに仕えているメイドや、樹里がゲーム内で最も推しているキャラであり、どん底にいたときの自分の心を救ってくれたリルベオラスらが現れる。
そして樹里は、絶世の美貌を持ちながらもハイグラの世界では稀代の悪女とされているユーフィニアの実情を知っていく。
国政にまで影響をもたらすほどの悪名を持つユーフィニアを、最愛の恩人であるリルベオラスの妻でいさせるわけにはいかない。
樹里は、ゲーム未登場ながら圧倒的なアクの強さを持つユーフィニアをリルベオラスから引き離すべく、離婚を目指して動き始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる