春まだ遠く

璃々丸

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雪解け前の雨

六.

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「・・・そう、あれは夏の・・・・・・とても暑い日だった」


 夏のある日、颯人は母に連れられとある公園にやって来た。
 暫くひとりで遊んでいると、三人の子供を連れた女性が現れた。それが緋紗英と春人、そして夏樹とましろであった。
 颯人の母万季子と緋紗英は幼馴染でよく連絡を取り合っていたが、結婚してからはこうして会うのはこの日が初めてだったと言う。


 互いに自己紹介させられて、それから四人で遊んでいたら母親達に呼ばれて何事かと集まれば冷たいジュースを渡された。


 四人でふたつ並んで設置されていたベンチに颯人はひとりで、春人達は三人並んでジュースを飲んでいると緋紗英が颯人の前までやって来て、突然こう聞いてきた。


「颯人君、うちのましろのコトどう思う?」


 颯人は自分より少し離れた場所に座るましろをちらりと見てこう答えた。


「えっと・・・かわいい・・・・・・とおもう」


 ぱっちりとした大きな目と長い睫毛のせいか、女の子に見間違えそうになる程、十分に可愛らしい子だと思った。


「ありがとう、そう言ってくれて嬉しいわ・・・ねえ、颯人君。良かったら将来ましろのお婿さんになってくれないかしら」


 緋紗英が言わんとしている意味が分からないほど子供でも無かった颯人は、少し悩んで母親の方をちらりと見やると万季子の方は随分と複雑そうな表情をしていた。
 どう言う意味なのかいまいち読み取れず、逡巡した後仕方なく良いよ、と答えた。


「そう。なら、ましろの項を噛んでくれる?」


 颯人は驚いた。まだ幼いと言っていい年齢の颯人ではあったが、項を噛む事の意味をそれなりに理解していたからだ。


「え、でも・・・・・・」


 流石に普段物怖じしない颯人でも躊躇っていると、万季子が止めに入ってくれた。


「緋紗英ちゃん、項を噛むのはまだ早いわよ。もう少し大きくなってからでも・・・・・・」


 困ったように苦笑する万季子に、しかし緋紗英は鬼気迫るような表情になった。それはまさに豹変するとはこの事を言うのだと、実感するような経験だった。


「それじゃあ遅いのよッ!!」


 話を聞いていなかった颯人以外の三人は緋紗英の叫びに驚いて、目を見開いてこちらを見た。


「早くしなさい」


「緋紗英ちゃん・・・・・・」


 何か言い掛けたが、強くぎろりと睨まれ万季子は口を紡ぐんだ。
 どうしようかと思ったが、これは項を嚙むまでは家に帰れないに違いないと颯人は覚悟を決めた。


 颯人はベンチに座るましろの手を有無を言わさず引いて、首の後ろをいきなり噛んだ。


 しかし、軽く噛めばよかったのに相手が暴れるのと加減が分からず思わず強く噛んでしまったのだが、それが良くなかった。


「痛いーッ!」


 叫び声が聞こえたと同時に、颯人の口の中に鉄錆の味が広がる。


「離れろっ!」


 春人が颯人を突き飛ばして、漸く自体が呑み込めた。強く噛み過ぎたせいで、ましろを怪我させてしまったのだ。
 夏の午後とは言えそれなりに人が居て辺りは騒然となった。


「・・・・・・そう言われれば、少し・・・思い出したかも・・・・・・」


 飛び散る赤い血、人々の悲鳴。それから遠く聞こえる救急車のサイレンの音────。


 ましろは首の後ろ辺りにそっと手置きながら呟いていた。
 恐怖のあまり泣き叫ぶましろを、緋紗英は必死に宥めていたのを思い出す。


 それから鷹藤家と本城家で話し合いをしたが、最終的に怒り狂った源三に二度とうちの敷居は跨がせないと言う事で二度と会う事は無くなってしまった。
 しかも結構な金額の慰謝料も払ったようだと言う事も颯人は語った。


「両親にも君にも申し訳ないことをしたよ・・・・・・」


 力なく言う颯人にましろはショックを受けた。
 此方を恨んでも仕方ない話だと言うのに、そんな事を考えていたなんて。


「そんな・・・颯人さんのせいじゃ・・・・・・」


 そう、原因は緋紗英にある。母の事は好きだが、流石にそれとこれとは話は別だ。
 颯人自身も心に傷を負ったであろうに、此方の事を心配していたなんて何て優しい人だろうかとましろは泣きそうになった。


「ありがとう、そう言ってもらえると何だか救われた気がするよ」


 颯人は照れくさそうにそう言った。


「あの日から俺は、心身ともに鍛えてもう一度君に出会えたらきちんと謝りたかったんだ・・・そして、許してもらえるなら友達から始めたいと思っていたんだ」


「颯人さん・・・・・・」


 ましろは胸が激しく締め付けられたような気持ちになりながら、颯人を見詰めていた。 
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