寡黙な消防士でも恋はする

氷 豹人

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 エレベーター前のエントランスに降りた瞬間、マスク越しでさえ喉を焼くほど熱気が凄い。蜃気楼が出来上がっていた。轟々と盛る炎が壁を溶かしていく気さえする。下階での炎と熱風は建物中に広がっている。
 俺は観葉植物のギザギザの葉を手で払い除け、人の姿がないか視線を動かす。廊下奥、客室扉の前で佇む黒い影を見つけた。
 逃げ遅れた客か? 
 違う。オレンジの防火服には、七福市消防局とネームが入っている。追いついた!  
 空気呼吸器の残量は満タンでも十五分が限界。合流出来なかったら、どうしようかと思った。俺の足取りが心持ち軽くなる。
「日浦!」
 肩に手を掛け、こっちに向くように勢い任せに体を引っ繰り返す。
 だが、俺の目の前にいたのは、日浦と共に突入した笠置だ。笠置はシューシューと空気の無駄遣いをしながら、明らかに動揺している。面体越しの目元が、今にも泣き出しそうに形を崩していた。
「ひ、日浦さんが一人で奥へ」
「何だと!」
「お、俺には危険だから戻れって」
「あの馬鹿!」
 つい今しがたの橋本の台詞が蘇る。自分の命を顧みず救出に向かう『サイボーグ日浦』。勝手に行動なんて、副隊長自らが規定違反してどうする。
「俺が要救助者と日浦を絶対に連れて帰る」
「ま、待って下さい。俺も一緒に行きます。堂島さん一人では危険です」
 最年少で実力も一番下。その笠置が、今は一番冷静な判断をしている。はっきり言って、俺は取り乱してしまった。日浦を失ってしまうかという不安にかられて。
「ああ。そうだ。そうだな。よし、上の階へ急ごう」
 俺は非常階段を指差した。
 美和子は店長がまだ中にいると叫んでいた。目指すは三十階だ。おいおい、まだ十八階だぞ。
 そのとき無線から、階下に突入した別地区の特救隊が要救助者五名確保したとの連絡が入った。
 俺達も愚図愚図してはいられない。さっきの要救助者が美和子の『カズ兄』を含んでいるなら良し。もし逃げ遅れているなら、一刻も早く助け出さなければ。
 消防法のために作られただけの非常階段は、普段は滅多に使わない代物だ。一段一段がいちいち狭い踏み板を、防火靴で蹴るように駆け上がる。
 要救助者はいるか。日浦、どこだ。
 熱でシステムがやられたのか。突貫工事だったのか。全く防火設備が作動していない。防火扉も、スプリンクラーも全滅だ。
 火元から離れていると言うのに、熱気はどんどん凄くなる。体力は消耗の一途を辿る。一階上がるごとに各部屋の扉を開けて誰か残っていないか確かめ、また階段を昇る。それの繰り返し。並んで走っていた笠置の足取りがだんだん重くなり、差が開いていく。
「大丈夫か、笠置!」
「だ、大丈夫です。それより、日浦さんはどこに?」
 面体越しのくぐもった声で笠置は強がってみせた。
 日浦の姿はまだ確認出来ない。
 空気の残量は半分近くとなった。階段の踊り場の壁に貼られたプレートは、二十三を示している。店長のカズ兄がいると思われる三十階までは、まだまだ遠い。
 何度となく現場に出て数々の困難を乗り越えて来た俺だったが、今回は桁違いだ。
 熱気よりも遥かに恐ろしく思うのは、耳から入るあらゆる不気味な音だった。炎が轟々と燃え盛る音、柱がひしゃげて崩れるような音、壁が剥がれ落ちる振動、溶けた金属がギイイイと軋んだ音。確実に上へと迫って来ている。
 二十四階にも要救助者はなし。各部屋全てを確認し終えたとき、笠置が廊下の遥か彼方を指差した。
「堂島さん!あれ!」
 廊下の端から、黒い影が二つ揺らめいている。目を凝らせば、七福市消防局の防火服。オレンジ色。日浦だ!俺の防火靴の裏はふかふかの絨毯を蹴っていた。
「要救助者一名確保!上階には誰も残っていない。直ちに撤収!」
 駆け寄った俺に日浦は声を張り上げた。
 やつは、ぐったりして今にも屑折れてしまいそうにふらふらの男の肩に手を回し、支え、引き摺っている。俺は慌てて日浦の反対側に回って、両脇から抱えた。年齢は四十半ばくらいの、針金のように細い体つきだが、やはり一丁前に男だ。なかなか重い。
「み、美和子は」
 男はか細い声で尋ねて来た。確かに美和子と口にしたのを聞いた。ということは、こいつが『カズ兄』か。
「大丈夫。無事に非難した」
 自分の面体を男に付け、日浦は答える。
 男は日浦には劣るもののなかなかの相好を崩して、あからさまにホッと全身の力を抜いた。おいおい、まだ逃げてる最中だよ。安心するのは早いよ。
 ずるずると男を引っ張って、元来た道を辿った俺達の足が止まった。
「お、おいおい。マジかよ」
 思わず俺は唸ってしまった。
 階段やエレベーターが煙突の役目を果たし、黒煙は上昇していた。ただでさえ不明瞭な視界だというのに、これでは階段を駆け降りることが出来ない。要救助者を抱えて窓から脱出とも考えたが、階下の炎は窓硝子を割って吹き出している。とてもじゃないが、ロープ降下は出来ない。
「ど、堂島さん。やばいですよ。どうしましょう」
 笠置が半泣きで防火服の裾を引っ張って来た。おい。表情は鉄仮面だが、俺だって内心は心臓バクバクで、脇汗ぐっしょりなんだぞ。
「無線、生きててくれ」
 日浦は自分の無線のスイッチを探った。雑音に混じって、周囲のざわめきが入る。
「布袋山救助」
 応答があった。
「大黒谷救助。要救助者一名確保。視界不明瞭で階段を使えない。退路を断たれた」
 日浦は咳込んだ。面体を外しているので、煙を吸い込んでしまったらしい。黒煙の色はますます濃くなり、廊下に充満する。俺の面体を使え。紐を外しかけた手を日浦は制した。副隊長としての目だ。上の命令は絶対。ならば、俺は素直に従うしかない。咳込みながらも、日浦は別地区の特救と遣り取りを交わしていた。
 終えたとき、日浦の双眸はぎらぎらしていた。突破口を見出した光だ。
「定期点検から戻る途中の防災ヘリが、そのままこっちに向かっている。もう間もなく到着する頃だ」
 言いながら、窓の方へと顎をしゃくる。
 だんだん、ヘリのプロペラの音が大きくなってきた。
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