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第六章

香都子

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「残念です。一度に二つの命を失うとは」
 大河原は苦渋で顔をくしゃくしゃにしかめ、膝上の拳を固く握り震わせる。
 辰川の母屋の客間には、吉森、森雪、松子が大河原に対面し、瞳孔を開いたまま動けなかった。
 掛け時計の動く秒針の音がいやに大きい。
「二つの命?まさか……」
 松子は唇を戦慄かせる。
 日暮れ前、神社の境内で顔面を切り刻まれている香都子が、腹から血を流して絶命しているのが発見された。対面が叶ったのは、身元の確認に訪れた僅かな時間で、その後は解剖に回され、葬式すらすぐにあげてやれない。娘に縋りついて泣き叫ぶことも許されないのだ。
 それでも辰屋の先代店主の妻として気丈に振る舞おうとする松子に、大河原の話は追い打ちだった。
「ああ、何てこと。香都子!」
 その段でようやく松子は、香都子が妊娠していることを知る。当然、父親は音助だ。
「犯人は外道極まりないやつです。息のない香都子さんを犯して、その後で腹を抉って、形をなさない赤ん坊を土の中へ」
 大河原の報告が終わらないうちに、聞くに堪えない松子はよろめいた。
「お母様!」
 脇から支える森雪の表情も固く、非道な内容に打ち震えている。
「高柳。高柳の呪いだわ」
「気をしっかり持って下さい!」
 森雪の張り上げる声も虚しく、松子はますます気を遠くさせる。さらに、ぶつぶつとまるで呪文のように同じ言葉を繰り返した。すっかり神経が参ってしまっている。
 その光景を前に、大河原は眉間の縦皺をますます深くさせ、血を吐くような唸りを喉奥から漏らす。
「六つ、骸は土の中。七つ、涙が血で濡れる。誰がこんな残忍なことを」
 忌々しげに大河原が吐き捨てた。
 吉森は到底事実を受け入れられなかった。
 彼女は何の目的があったのか神社へ向かい、命を落とした。生意気そうに軽口を叩いていたのが嘘のようだ。
「こんな非道は、あの高柳しか有り得ない」
 松子はきっぱりと断言する。
 そこへ、渡邊が襖を開けて入ってきた。探偵として自分も聴取に加わり、そこで推理を披露して己の名声を高めようとする身勝手な好奇心と向上心はわかっていたものの、しかし、誰も部外者には構っていられるほどの余裕は備えていなかった。
 かくして、渡邊は吉森らから距離を置いた部屋の隅で、静かに胡坐をかき、話の流れをひたすら見守っている。
「高柳は亡くなっておりますよ、奥さん」
「いいえ、いいえ」
 しかし、松子は高柳が生きていると疑わない。
「まあ、仮に生きているとして」
 あまりの松子の頑固さに折れた大河原は、溜め息を一つつき、続けた。
「奥さん。私も色々調べましたがね。高柳は好青年として大層な評判でしたよ」
 喫茶乙羽での話がなければ、吉森も信じていたことだ。それほど、高柳は旨く立ち回っていた。それゆえ、吉森に高柳が犯人であるかも知れないとの信憑性をもたらす。
 だが、大河原は事情を知る由もないので、松子の声に今いちピンとこないらしい。
「いいえ、いいえ。世間では辰川清右衛門が金にあかせて、高柳公彦から私を奪ったものと思われていますが。そもそも、その噂を広めたのが、高柳です」
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