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伯爵の真実
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「嘘……」
などと呟きつつも、マチルダには心に引っ掛かていることがあった。
ブライス伯爵から贈られた仮面舞踏会の真っ赤なドレス。顔すら合わせなかったのに、彼から贈られたそれはサイズピッタリだった。マチルダの体に直に触れなければわからないはずなのに。仕立て屋すら、ここ二年ほどマチルダは会っていない。
マチルダの体に直に唯一触れたのは……。
「信じられないが、本当だ」
ロイは認めた。
「だって、だって……名前が……」
それでもやっぱりマチルダには信じがたい。
ロイ・オルコット。それが彼の名前であるし、実際、誰しもが彼をその名で呼ぶ。
「ロイはフェルロイの略称。オルコットは母の旧姓。プライベートでは皆んなにそう呼ばせている」
観念したロイは、己の名前の由来を説明した。
オリビアはわざとらしく嘆息すると、こめかみを指先で押さえた。
「まさか、このバカが自分を偽っていたなんて」
「偽ったつもりはない」
ムッと姉を睨みつけ、ロイは再度椅子に大股開きで座り直す。
「ローレンスを飲みに誘いに娼館に行ったら、腹を壊してなかなか戻って来なくて。仕方なく留守番をしてやっていたんだ」
腕を組んで踏ん反り返りながら、マチルダが初めてローレンスを訪ねた日のタネを明かした。
「マチルダが勝手に私を娼館の主人と勘違いしただけだ」
「主人ではないと訂正する機会は何度もありました」
怒りのあまり握りしめたシーツが放射線を描く。
ロイはマチルダが勘違いしているのは、とっくにお見通しだったはず。それなのに、敢えて正体を明かさなかった。
「そうよ、ロイ。誤解をしているとわかっていながら誤解を解かないのは、騙したも同然よ」
オリビアが苦言を呈す。
ロイは言い訳がましく、両手を大きく広げた。
「だから、身辺整理をちゃんとしてから話すつもりだったんだ」
オリビアはふうう、と長ったらしい溜め息をつく。
「一体、どのような身辺整理かしらね」
「妙なこと吹き込むな。堅物の親類の爺さんらの説得だ。野郎ら、未だに身分だのどうだのと」
ロイは不服に口を尖らせ、怒りで戦慄いたままのマチルダを非難がましく見つめる。
「そもそも、何でこんな年増の性悪が私の妻なんだ。誤解も甚だしい」
「それはこちらの台詞よ。実の弟がこれほど底抜けのバカだなんて」
すかさずオリビアが言い返す。
「おい、ロイ。私の妻を悪く言うな。本気で殴るぞ」
いつもならニコニコと機嫌良さげなミハエルが、額やこめかみに筋を浮かせた物凄い形相でロイを睨みつけた。普段、優しい者ほど怒らせたら恐ろしい。ミハエルが爆発するのは、決まって愛する妻を蔑ろにされたときだ。
「やっぱりミハエルは最高の男性ね。この世で一番のハンサムだし、優しくて、気が利いて……」
うっとりとオリビアはミハエルの腕にしなだれかかる。
「美的感覚は人それぞれだしな。何も言わない」
いきなり惚気だした夫婦に対し、忌々しげに鼻に皺を寄せ、ロイは吐き捨てた。
「ロイ。マチルダに言うべきことがあるんじゃなくて? 」
すっかり機嫌を良くしたオリビアの声は、真綿のようにふわりと優しい。
「お邪魔虫は消えますから。ゆっくりと話しなさい」
それを合図に、マチルダとロイ以外のこの場にいる者がドアへと足を向ける。
ドアノブを掴んだカイルが、ふと心配そうに振り返った。
「兄さん。パーティーでも言ったけど。ドレスの替えはないんだから、破らないでよ」
「お前は私のことを何だと思っているんだ」
途端にしかめ面になるロイ。
「肉食動物だろ? 」
ニヤニヤとミハエルが横入りする。
「黙れ! ぬいぐるみ! 」
ロイが靴を片方脱ぐなり、ドアに向かって投げた。
ミハエルに当たる寸前で、ドアが勢いよく閉まる。
閉まったドアに当たった靴が跳ね返り、床に虚しく転がった。
わははははと上機嫌な笑い声は、やがて遠退いて、とうとう聞こえなくなった。
放り投げた靴を履き直すロイ。
マチルダは黙ってその姿を目で追っていた。
「取り敢えず、君を抱いて良いか? 」
靴を履き直し終えて、ロイはまるで買い物にでも誘うように軽々しく尋ねてきた。
マチルダはムッと眉を寄せる。
「取り敢えずだなんて。最低の誘い文句よ」
「それだけ切迫してるんだ」
軽い口調とは裏腹に、その目はギラギラと血走っている。
「わかってるわ。私も同じだから」
きっと、自分も同じ目をしている。マチルダには自覚があった。
「夢を見させて」
群青の壁は、夢の続きを思い起こさせる。
人魚になったマチルダ。
そんな自分を抱きしめるロイ。
マチルダは耳の奥で細波を確かに聞いた。
などと呟きつつも、マチルダには心に引っ掛かていることがあった。
ブライス伯爵から贈られた仮面舞踏会の真っ赤なドレス。顔すら合わせなかったのに、彼から贈られたそれはサイズピッタリだった。マチルダの体に直に触れなければわからないはずなのに。仕立て屋すら、ここ二年ほどマチルダは会っていない。
マチルダの体に直に唯一触れたのは……。
「信じられないが、本当だ」
ロイは認めた。
「だって、だって……名前が……」
それでもやっぱりマチルダには信じがたい。
ロイ・オルコット。それが彼の名前であるし、実際、誰しもが彼をその名で呼ぶ。
「ロイはフェルロイの略称。オルコットは母の旧姓。プライベートでは皆んなにそう呼ばせている」
観念したロイは、己の名前の由来を説明した。
オリビアはわざとらしく嘆息すると、こめかみを指先で押さえた。
「まさか、このバカが自分を偽っていたなんて」
「偽ったつもりはない」
ムッと姉を睨みつけ、ロイは再度椅子に大股開きで座り直す。
「ローレンスを飲みに誘いに娼館に行ったら、腹を壊してなかなか戻って来なくて。仕方なく留守番をしてやっていたんだ」
腕を組んで踏ん反り返りながら、マチルダが初めてローレンスを訪ねた日のタネを明かした。
「マチルダが勝手に私を娼館の主人と勘違いしただけだ」
「主人ではないと訂正する機会は何度もありました」
怒りのあまり握りしめたシーツが放射線を描く。
ロイはマチルダが勘違いしているのは、とっくにお見通しだったはず。それなのに、敢えて正体を明かさなかった。
「そうよ、ロイ。誤解をしているとわかっていながら誤解を解かないのは、騙したも同然よ」
オリビアが苦言を呈す。
ロイは言い訳がましく、両手を大きく広げた。
「だから、身辺整理をちゃんとしてから話すつもりだったんだ」
オリビアはふうう、と長ったらしい溜め息をつく。
「一体、どのような身辺整理かしらね」
「妙なこと吹き込むな。堅物の親類の爺さんらの説得だ。野郎ら、未だに身分だのどうだのと」
ロイは不服に口を尖らせ、怒りで戦慄いたままのマチルダを非難がましく見つめる。
「そもそも、何でこんな年増の性悪が私の妻なんだ。誤解も甚だしい」
「それはこちらの台詞よ。実の弟がこれほど底抜けのバカだなんて」
すかさずオリビアが言い返す。
「おい、ロイ。私の妻を悪く言うな。本気で殴るぞ」
いつもならニコニコと機嫌良さげなミハエルが、額やこめかみに筋を浮かせた物凄い形相でロイを睨みつけた。普段、優しい者ほど怒らせたら恐ろしい。ミハエルが爆発するのは、決まって愛する妻を蔑ろにされたときだ。
「やっぱりミハエルは最高の男性ね。この世で一番のハンサムだし、優しくて、気が利いて……」
うっとりとオリビアはミハエルの腕にしなだれかかる。
「美的感覚は人それぞれだしな。何も言わない」
いきなり惚気だした夫婦に対し、忌々しげに鼻に皺を寄せ、ロイは吐き捨てた。
「ロイ。マチルダに言うべきことがあるんじゃなくて? 」
すっかり機嫌を良くしたオリビアの声は、真綿のようにふわりと優しい。
「お邪魔虫は消えますから。ゆっくりと話しなさい」
それを合図に、マチルダとロイ以外のこの場にいる者がドアへと足を向ける。
ドアノブを掴んだカイルが、ふと心配そうに振り返った。
「兄さん。パーティーでも言ったけど。ドレスの替えはないんだから、破らないでよ」
「お前は私のことを何だと思っているんだ」
途端にしかめ面になるロイ。
「肉食動物だろ? 」
ニヤニヤとミハエルが横入りする。
「黙れ! ぬいぐるみ! 」
ロイが靴を片方脱ぐなり、ドアに向かって投げた。
ミハエルに当たる寸前で、ドアが勢いよく閉まる。
閉まったドアに当たった靴が跳ね返り、床に虚しく転がった。
わははははと上機嫌な笑い声は、やがて遠退いて、とうとう聞こえなくなった。
放り投げた靴を履き直すロイ。
マチルダは黙ってその姿を目で追っていた。
「取り敢えず、君を抱いて良いか? 」
靴を履き直し終えて、ロイはまるで買い物にでも誘うように軽々しく尋ねてきた。
マチルダはムッと眉を寄せる。
「取り敢えずだなんて。最低の誘い文句よ」
「それだけ切迫してるんだ」
軽い口調とは裏腹に、その目はギラギラと血走っている。
「わかってるわ。私も同じだから」
きっと、自分も同じ目をしている。マチルダには自覚があった。
「夢を見させて」
群青の壁は、夢の続きを思い起こさせる。
人魚になったマチルダ。
そんな自分を抱きしめるロイ。
マチルダは耳の奥で細波を確かに聞いた。
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