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「大橋は絶対現れる」
腕時計を確認しながら、橋本は断言する。
すでに午後四時、西日が眩しい。
再開発が進む中、まだ手を加えられていない雑居ビルの脇に俺達はいる。
三階建てのそのビルは少なくとも築三十年は経過しているのは確実で、昨今は手入れがされておらず、外壁には歪が入り、幾重にも塗り重ねられたペンキが剥がれ落ちている。窓硝子は曇り、空き室ありの張り紙のある部屋がほぼ七割だ。
三階の角部屋にある個人経営の学習塾を見上げた。
「大橋の愛人や」
雑居ビルの入り口に貼られたポスターを横目に、俺は複雑だ。
生徒募集と書かれたそのポスターの、経営者兼講師には二十代後半らしき男の写真が載っていたからだ。教育者というよりは、スポーツの指導者といった方が相応しいくらいの、色黒で体格のよい好青年だ。
「何でそんなこと知ってるんですか?」
聞くべきか聞かざるべきか。迷った挙句、口にする。
「蛇の道は蛇ってな」
ニタリと口元がいやらしく歪んだ。
聞かなきゃ良かった。
「その手の嗜好のやつらが集まる店で、小耳に挟んだんや」
つまり、こいつもその店の客というわけだ。
「それ、警察は」
「たぶん、結びつかへんやろうな。特に俺の後輩は、そういうところガッチガチの石頭。男同士でこんな関係あるって、考えもしてへんやろなあ」
こいつにも、一丁前に世間体というものを持ち合わせていたらしい。仲の良い後輩にも己の性癖は伏せてあるようだ。
「大橋んとこも、お堅い教育者様やからな。警戒しまくって、普段は赤の他人を装ってるやろな。まあ、俺とマスターとの信頼関係で、情報が入ったんやが」
つまり、信頼関係を保つほど常連というわけだ。
得意げに説明するな。
この人は、俺の生半可な態度をどう解釈しているのだろうか。
もう一度、学習塾を見上げる。
橋本のことは嫌いではない。むしろ、好意さえある。それは認めよう。だけど、一歩踏み出した途端、築き上げた物が根底からがらがらと崩れ落ち、奈落に突き落とされそうな、闇を見てしまう気がして恐ろしい。
「後輩の刑事さんに知らせなくていいんですか?」
考えているうちに自身の煮え切らない態度に嫌気がさしてきて、別のことに気を逸らせた。
「マスターとの約束もあるしなあ。誰にも喋らんて。俺がとっ捕まえたら、通報するわ」
「危ないですよ。刃物を持ってる可能性だってあるし」
「何も心配いらん」
それが危ないんだよ。
溌剌とした笑顔での応えが、奇妙な感覚を起こさせた。
もしや橋本は、己の命を捨てる覚悟を持っているのではあるまいか。そんなこと許さない。
気付かないうちに橋本の手首を掴んでいた。
「どうした?」
不思議そうな橋本の呼びかけに、ハッと我に返った。慌てて手を離す。無意識の行為に戸惑って、取り敢えず首を傾げることしか出来なかった。
不意に空気が張り詰めた。
橋本の鋭くなった双眸が、三本先の電柱を向いていた。奥歯を噛んだ弾みで歯軋りが鳴る。
視線を辿った俺も、唾を呑み下した。
目線の先にいたのは、大橋だ。
橋本の言葉通りの展開だった。
「……」
「……」
「……」
その場にいる三人はひたすら沈黙を守り、身動きすらとらない。
心構えすら、出来ないうちかよ。
まさかの状況が、空気の流れを制止させていた。
最初に動いたのは大橋だった。
状況を把握した大橋は、くるりと背を向けるや地面を蹴った。
「待て!」
続いたのは橋本だ。橋本は怒鳴って、弾丸のごとく空を切り、大橋のパーカーのフードを掴むなり、思い切り手前に引っ張った。
いきなり真後ろに引かれた大橋は、抵抗すら出来ず、腹を二つに折り、足の裏を天に向けた。直後、どすんと尻餅をついた。
「この野郎!」
なおも逃げようと、体勢を整え切れないまま四肢を地面に這わせて小刻みに動こうとする大橋に、橋本はドスのきいた一言を投げかける。掴んだままのフードを手前に引くと、脱皮するようにすっぽりとトレーナーが脱げた。
「あっ、てめえ!」
まさか服を脱いで逃げるとは考えていなかったらしく、橋本の目が丸くなる。
「このっ」
トレーナーがアスファルトに叩きつけられた。
「笠置!」
ぼけっと突っ立って捕り物を眺めていた俺は、橋本の怒鳴り声にびくっと背筋を伸ばす。
「逃げた!追いかけろ!」
「は、はい!」
命じられるまま、四つ這いでガサゴソと逃げる大橋の両足首を掴んだ。
大橋は諦めてはおらず、今度は足をばたばた動かして俺の手を振り払おうとする。屈曲する二の足の力はなかなか強く、靴底が何度も俺の腹を蹴飛ばした。
痛ええ!容赦ないな、こいつ。どこにそんな力隠してたんだ。
「諦めろ!」
大きく跳ねたかと思えば、橋本は次の瞬間、どすんと大橋の背に落ちた。
「うっ……!」
一言呻き、大橋はついに観念した。
腕時計を確認しながら、橋本は断言する。
すでに午後四時、西日が眩しい。
再開発が進む中、まだ手を加えられていない雑居ビルの脇に俺達はいる。
三階建てのそのビルは少なくとも築三十年は経過しているのは確実で、昨今は手入れがされておらず、外壁には歪が入り、幾重にも塗り重ねられたペンキが剥がれ落ちている。窓硝子は曇り、空き室ありの張り紙のある部屋がほぼ七割だ。
三階の角部屋にある個人経営の学習塾を見上げた。
「大橋の愛人や」
雑居ビルの入り口に貼られたポスターを横目に、俺は複雑だ。
生徒募集と書かれたそのポスターの、経営者兼講師には二十代後半らしき男の写真が載っていたからだ。教育者というよりは、スポーツの指導者といった方が相応しいくらいの、色黒で体格のよい好青年だ。
「何でそんなこと知ってるんですか?」
聞くべきか聞かざるべきか。迷った挙句、口にする。
「蛇の道は蛇ってな」
ニタリと口元がいやらしく歪んだ。
聞かなきゃ良かった。
「その手の嗜好のやつらが集まる店で、小耳に挟んだんや」
つまり、こいつもその店の客というわけだ。
「それ、警察は」
「たぶん、結びつかへんやろうな。特に俺の後輩は、そういうところガッチガチの石頭。男同士でこんな関係あるって、考えもしてへんやろなあ」
こいつにも、一丁前に世間体というものを持ち合わせていたらしい。仲の良い後輩にも己の性癖は伏せてあるようだ。
「大橋んとこも、お堅い教育者様やからな。警戒しまくって、普段は赤の他人を装ってるやろな。まあ、俺とマスターとの信頼関係で、情報が入ったんやが」
つまり、信頼関係を保つほど常連というわけだ。
得意げに説明するな。
この人は、俺の生半可な態度をどう解釈しているのだろうか。
もう一度、学習塾を見上げる。
橋本のことは嫌いではない。むしろ、好意さえある。それは認めよう。だけど、一歩踏み出した途端、築き上げた物が根底からがらがらと崩れ落ち、奈落に突き落とされそうな、闇を見てしまう気がして恐ろしい。
「後輩の刑事さんに知らせなくていいんですか?」
考えているうちに自身の煮え切らない態度に嫌気がさしてきて、別のことに気を逸らせた。
「マスターとの約束もあるしなあ。誰にも喋らんて。俺がとっ捕まえたら、通報するわ」
「危ないですよ。刃物を持ってる可能性だってあるし」
「何も心配いらん」
それが危ないんだよ。
溌剌とした笑顔での応えが、奇妙な感覚を起こさせた。
もしや橋本は、己の命を捨てる覚悟を持っているのではあるまいか。そんなこと許さない。
気付かないうちに橋本の手首を掴んでいた。
「どうした?」
不思議そうな橋本の呼びかけに、ハッと我に返った。慌てて手を離す。無意識の行為に戸惑って、取り敢えず首を傾げることしか出来なかった。
不意に空気が張り詰めた。
橋本の鋭くなった双眸が、三本先の電柱を向いていた。奥歯を噛んだ弾みで歯軋りが鳴る。
視線を辿った俺も、唾を呑み下した。
目線の先にいたのは、大橋だ。
橋本の言葉通りの展開だった。
「……」
「……」
「……」
その場にいる三人はひたすら沈黙を守り、身動きすらとらない。
心構えすら、出来ないうちかよ。
まさかの状況が、空気の流れを制止させていた。
最初に動いたのは大橋だった。
状況を把握した大橋は、くるりと背を向けるや地面を蹴った。
「待て!」
続いたのは橋本だ。橋本は怒鳴って、弾丸のごとく空を切り、大橋のパーカーのフードを掴むなり、思い切り手前に引っ張った。
いきなり真後ろに引かれた大橋は、抵抗すら出来ず、腹を二つに折り、足の裏を天に向けた。直後、どすんと尻餅をついた。
「この野郎!」
なおも逃げようと、体勢を整え切れないまま四肢を地面に這わせて小刻みに動こうとする大橋に、橋本はドスのきいた一言を投げかける。掴んだままのフードを手前に引くと、脱皮するようにすっぽりとトレーナーが脱げた。
「あっ、てめえ!」
まさか服を脱いで逃げるとは考えていなかったらしく、橋本の目が丸くなる。
「このっ」
トレーナーがアスファルトに叩きつけられた。
「笠置!」
ぼけっと突っ立って捕り物を眺めていた俺は、橋本の怒鳴り声にびくっと背筋を伸ばす。
「逃げた!追いかけろ!」
「は、はい!」
命じられるまま、四つ這いでガサゴソと逃げる大橋の両足首を掴んだ。
大橋は諦めてはおらず、今度は足をばたばた動かして俺の手を振り払おうとする。屈曲する二の足の力はなかなか強く、靴底が何度も俺の腹を蹴飛ばした。
痛ええ!容赦ないな、こいつ。どこにそんな力隠してたんだ。
「諦めろ!」
大きく跳ねたかと思えば、橋本は次の瞬間、どすんと大橋の背に落ちた。
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一言呻き、大橋はついに観念した。
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