【完結】失恋した消防士はそのうち陥落する

氷 豹人

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 あれほど抵抗を見せていたというのに、観念してしまえば、大橋はおとなしかった。
 仁王立ちの男二人に取り囲まれ、アスファルトに足を投げ出して座り込むと、あさっての方向で、やたらと銀縁眼鏡の鼻当てを触っている。格闘での息はまだ落ち着かず、肩の上下は未だに激しい。
「お前、小沢道文の義理の弟やな」
 何も答えるつもりはないと不貞腐れた表情が語っていたが、橋本の指摘に、大橋はぴくりとこめかみを動かした。
「お前の実の姉が、小沢の嫁やった」
 何もかも知っている橋本に、とうとう大橋は降参を決意したらしい。
「姉が死んで以来、疎遠になってます。今更、そんなこと持ち出されても」
「姪っ子の亜里沙は血縁者やろ」
「関係ないですよ」
 饒舌になり、表情が豊かになっている。いちいち橋本の言葉に反応してみせ、いらいらしたように貧乏ゆすりを始めた。
「あんな大きな火事になるとは思わなかったんだ」
「十件の放火は認めるんやな」
義兄にいさんの新聞配達のコースに火をつけて、ちょっと困ったらいいって思ったんだよ。無人で延焼の危険のないところを選んでた。なのに、何で店に爆弾があったのか」
「お前が置いたんちゃうんか。助燃剤も」
「違う!」
 拳がアスファルトを叩いた。
「僕がやったのは、あくまでちょっとした悪戯だ」
 下手糞な舞台役者のように大袈裟な身振りで立ち上がった大橋は、前のめりになって橋本に訴えた。
 橋本の目が据わる。
「何がちょっとした悪戯や。ふざけんな! 人を不安に陥れるのに代わりないんや。しかも、風向きや、たまたま置いてある燃焼剤で、下手したら取り返しのつかへんことになっとったかも知れへんねんぞ!」
 大橋の胸倉を掴むなり、激しく前後に揺すって、橋本は怒鳴り散らした。
 元々が腕力有り余る性質なので、興奮した今、揺すぶられる大橋はあまりの強さに顔を赤くしたり蒼くしたりと、心底苦しそうに顔を歪める。
 さすがにこれは拙い。死んでしまうよ。 
 俺は背伸びし、羽がい締めにして止めた。
 解放された大橋がしきりに咳込んでいる。
「どうして義兄さんは、あんな女と。再婚なんて反対だ。あの女にも、散々そう言い続けてきたのに」
 膝を折ってその場に四つ這いになると、大橋は悔しさのあまり、拳を路面に何度も打ちつけた。だんだんその手が真っ赤になっていく。それでも大橋は殴りつけるのをやめなかった。
「どうして麗子さんのことを、それほど」
 路面を麗子さんに見立てて殴りつける大橋に、眉をひそめざるを得ない。姉の命を奪った憎たらしい相手という理由だけではないことは、薄々感じてはいた。
「あの女のことを、元々好きじゃないからですよ」
 あっさりと質問に答えた大橋は、薄ら笑いを浮かべている。
「消防士さんだって、わかっているでしょう。彼女の、あの思わせぶりな態度。あの計算ずくの振る舞いには反吐が出る」
 大橋は大黒谷第三小学校で麗子さんの同僚だ。言い方から察するに、彼も麗子さんの複雑な女心の犠牲に遭ったのだろう。客観的にみて、大橋は自尊心の高いタイプだ。恨みは根深そうだ。
「だからって、何で小沢道文さんに疑いのかかるような真似を」
 幾ら麗子さんの再婚相手となる男が、義理の兄だったとはいえ、まるで最初から小沢を陥れるようなやり方だ。むしろ、それが目的のような。放火は小沢が麗子さんにプロポーズする前から始まっている。橋本も当初は小沢を疑っていた。
「義兄があんな女と付き合っていたからですよ」
 やはり、大橋なりの報復だった。
 こいつは自己満足のために、かつて親戚関係を持っていた者までもを平気で罠に嵌めようとする。
 橋本のこめかみに青筋が浮き、ひやりとなった。きっと彼の脳裏には、桜庭に心酔する亜里沙の笑顔があるのだろう。ようやく見せた少女の無邪気さを容易く壊されるなんて、正義感溢れる橋本が認めるはずがない。
「姉さんが死んで、僕らの家族は滅茶苦茶になった。母は泣き崩れて、自殺にまで追い込まれた。父はそんな母の後を追うように、間もなく癌で死んだ。僕は、諸悪の根源である女とこれ以上、関わり合いたくない。これ以上、周りが不幸になるのを見ていられない。だから、義兄に忠告したんです」
「忠告するために、姪っ子を危険に遭わせたんか。蕎麦屋に火い点けて」
「だから、それはやってません!」
 橋本に詰め寄られて、大橋は必死に否定する。
「姉さんに瓜二つの亜里沙を、何で僕が陥れるような真似を」
 ぽつりと呟くと、腹立たしそうにもう一度路面に拳を振り落とした。
「あの女には、爆弾を作ったと脅してやりましたけどね」
 不敵に大橋が口元を斜めに吊り上げた。
 そこへ、パトカーのサイレンが近づいてきた。
 ぎくり、と大橋の全身が硬直する。
 今までの会話は、警察が到着するまでの時間稼ぎだったことを、やっと俺は理解した。
 後輩の刑事に連絡を取っていないと嘯きながら、ちゃんと策を練ってあったのだ。
 俺に真実を伝えなかったのは、馬鹿正直に胸の内が表に出てしまうからだ。油断させている最中にそわそわと落ち着きをなくされると、せっかくの計画も水泡となりかねない。こいつは俺の性格を正しく読んでいる。


「だからって、俺まで騙すなんて」
 わかってはいるが、ぶつぶつとまだ文句を垂れる俺に、いらっと橋本の目が細くなった。何やらまた怒鳴りつけられそうだったので、慌てて口を噤んだ。俺だって、橋本のことは少しづつわかってきている。
 刑事に囲まれた大橋を乗せた覆面パトカーが、甲高くサイレンを鳴らしながら走り去った。窓硝子の中の大橋は、意外にも晴々としており口元を綻ばせていた。最後の最後で己の胸の内を吐き出せたことが、満足だったのだろうか。
「全く。迷惑な話ですね。たかだか嫌がらせに、火い点けるなんて」
 同意を求めようと顔を向けると、橋本はすでに歩幅を大きくさせて現場から去ろうとしていた。
「え?橋本さん?」
「確認したいことがあるんや」
 早口によって俺の疑問は封じ込められた。
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