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 よろよろになって帰宅すると、珍しく母ちゃんは仕事を早めに切り上げ、居間で寝転んでテレビを観ていた。
 父親がスウェーデン人の母は、白磁の肌に青みがかった瞳で、若い頃は界隈の何とか小町と持て囃されていたらしい。
 母一人子一人となってから、身なりに構ってられなくなり、伸び放題の髪を後ろで結え、目尻の皺が濃くなってしまったが、まだまだ男性からはお声がけ掛かるらしい。
 母譲りのこの容貌のおかげで、俺も男からよく付き纏いされた。付き纏いどころか、悪質なセクハラだ。何故かレスキューの職に就いてからは、しつこい痴漢行為など全くなくなったが。
 父ちゃんが亡くなって以来、母ちゃんは常にきびきびと働いて、くつろいだ格好を息子に晒したことはなかった。
 少しでも休めば、張り詰めていた何かが切れてしまいそうで。
 いつか、母ちゃんはぽつりと呟いたことがあった。
 それが今、母親の気は明らかに抜けてしまっている。
 玄関の扉を開けたきり棒立ちになった俺に向かって、母ちゃんは立ち上がると、おもむろに菓子折りの袋を差し出した。
「あんた、ちゃんと鞄に持ち物詰めたの?」
「はっ?」
 何の話?
「圭吾君にこれ以上迷惑かけちゃ駄目よ」
「圭吾君?」
 誰だ、それ。と続けかけてその人物に思い当った。
 仮眠室に貼られてあった相部屋のフルネームが過る。
「もしかして、圭吾君って。橋本」
 橋本圭吾。いや、まさか。
 母ちゃんとは面識ないはずだ。
「その圭吾君に、何でこんなもの渡さなきゃならないんだよ」
 意味がわからない。眉をひそめる俺に、母ちゃんは、こめかみにつくくらい眉を上げる。
「何言ってんの。これからあの子にお世話になるんだから。当然でしょ」
 だから、何の話?
 憤慨して早口で捲し立てられても、さっぱり話が読めない。
「全く。職場の手続きやら何やら全部、圭吾君に任せっきりじゃない」
 ますます理解不能。
 手続きとは一体何ぞや?職場から何かしらの書類を見せられたことは一度もない。 
 嫌な予感が胸を掠める。
「図体でかいのがいなくなって、清々するけどね。さあ。もうじき迎えに来てくれるんだから。ちゃっちゃと部屋片付けてしまいなさい」
「え?え?ええええええ?」
 いやいやいや。だんだん話が読めてきたぞ。 
 それと同時に、脳味噌が混乱をきたす。
「ちょっと、ちょっと。母ちゃん。何で俺のいないとこで話、進めてるんだよ」
「何が」
「いつの間に俺と橋本が暮らすって話になってるんだよ」
「聞いてなかったの?」
「知らないよ」
 橋本からはそれらしい話は一つもない。
 そもそも母ちゃんと橋本は、いつ繋がりを持ったんだ。一度だけあいつが家を訪れたことはあったが、その際に母ちゃんはすでに仕事に出ていたので顔を合わせることは不可能だ。いつ知り合った?
「勝手に決めるなよ」
「しょうがないでしょ。圭吾君との約束なんだから」
 拗ねたように唇を尖らせた母ちゃんは、テレビの前で正座した。
「何だよ、約束って」
 しつこく食い下がる俺に、母は渋々といったふうに暴露した。
「あんたが惚れ込むくらいいい男になって、お互い相思相愛になったら、くれてやってもいいって。ごめん、啖呵切っちゃった」
 最後は悪戯が明るみに出た子供のように、半分以上ヤケクソで茶目っ気ぶった謝り方だ。
「ごめんじゃないだろ。嘘だろ、もう」
 幾ら可愛い子ぶって舌を出したところで、四十半ばの中年がすると不気味以外の何物でもない。
 本人の知らぬところで進んでいた取り決めに、途方に暮れて、ぐしゃぐしゃと頭を掻き毟ると、居間のテーブルに突っ伏した。
「もう二十年になるのねえ。月命日のたびに、欠かさず線香をあげにきてくれて」
 テレビを見ていた母ちゃんは、いつの間にか一間続きの仏壇の前に座っていた。鈴棒を振れば、チーンと綺麗な音が鳴る。
 ん?二十年?あの人と初めて会ったのは、確か一昨年の地獄の二十五日間だろ?
それから一年待って、配属されて間もなく一年。
「待て待て待て。何それ。二十年て。そもそも何であいつがうちに来るんだよ?」
 仏壇に手を合わせる母ちゃんに、四つ這いになって近づき、食い入るようにその顔を見つめる。
 母ちゃんは訝しく目を眇めた。
「今更、何言ってんの?」
 それは、俺だけが何も知らないのだと告げていた。
「あの子が引っ越すまで、お隣さんだったじゃない」
「えっ!」
「それに、ジンは元々、圭吾君の犬でしょうが」
 一瞬、周囲の空気が止まった。
 ジンは、ケイゴクンのイヌ。
 呪文のように脳内で繰り返し再生される。
「嘘!」
 信じたくないと思ってはいても、今、うちにいるジンの橋本への接し方が全てを語っている。ジンは人見知りの激しい利口な犬だ。慣れない人間の足には必ず歯型をつける。橋本には心を許していた。
「元々は捨てられてたんだけどね。圭吾君ちは家族が動物アレルギーだから、内緒で世話するのも難しいし。道歩きながら途方に暮れてるところを、お人好しの父さんが貰い受けたんでしょう」
 そういった経緯があるとは露とも知らなかった。
「忘れちゃったの?薄情な子ねえ、あんた。小さい頃は随分と遊んでもらってたのに」
 ん?聞き捨てならないことを聞いたぞ。
 母に白い目を向けられようが、記憶から橋本に関するあらゆることが抹消されているのだから、仕方ない。
「あの頃の圭吾君は悪かったわねえ。確か、二代目大黒谷の元締めと恐れられて」
 何だよ、二代目って。初代がいるのかよ。
っていうか、やっぱり不良だったのかよ。唯ならぬ眼力だったけどさ。
「鯛焼き屋の跡取りとか、今は刑事やってるスキンヘッドの子とか、ぞろぞろ舎弟引き連れて。真也にも悪い影響が出ないか心配したわ」
 呑気に母親が昔話を始め、俺の耳がぴくっと動いた。
 脳味噌の奥底から記憶を引きずり出す。
 小学生の頃、頻繁に遊んでもらったオニーサンの顔が出てきた。
 外国の血が混じる俺は、はっきり言って美男子であり、女子に大いにモテて、男子からは嫉妬され、いじめられていた。
 河原で一人、えんえん泣いている俺の頭をぐしゃぐしゃかき乱したのが、怖いオニーサンだ。
 泣け泣け。泣いて泣いて、涙出し切って、強くなれ。
 オニーサンは、俺が泣き止むまで傍にいてくれた。
 茶色く染めた髪は長く、後ろで結え、眉毛がない分余計に目つきが悪く、その上、顎鬚なぞ生やし、ピアスに至っては両耳、鼻、唇と幾つあるんだ、確実に十は越えているだろうと言わんばかりの出で立ちで、道を歩けば誰もがそそくさと目を背けて脇に退けていた。腕っ節も強く、因縁を吹っ掛けてきた相手をことごとく打ちのめし、その強さに憧れたものだ。
 父親の形見のジンをジンと呼べば、オニーサンは何故かロッテンマイヤーと呼んでいた。
 それが、ある日を境にぱったりと姿を見せなくなって、そのうち俺も塾だ部活動だと忙しくなり、疎遠になったことすら気にも止めなくなった。
 知り合いなら、そう言えよ。いや、言えないか。何だよ、二代目大黒谷の元締めって。
 考えれば考えるほど、ぞくぞくと背筋が寒くなってくる。
 初めて出会ったのは、二十年前。
 父ちゃんの仏壇の供物が誰からか、今、判明した。
 あいつは全て知りながら、知らんぷりで、虎視坦々と、己の手の内に堕ちてくることを狙って、あらゆる策を練っていたのだ。
 玄関先で寝ていたジンがふと顔を上げた。
 聞き慣れたバイクのエンジン音が徐々に近づいてくる。
 俺は頭を抱えた。
「おい、ジン。お前、橋本さんにすっかり懐いちゃってるじゃないか」
 橋本という名前にぴくっと反応したジンは、大きく尻尾を振って一つ鳴いた。




【終わり】
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