オメガの僕が、最後に恋をした騎士は冷酷すぎる

虹湖🌈

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第一章 オメガの僕が、最後に恋をした騎士は冷酷すぎる

第1話 Ω-7(オメガセブン)

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 消毒液の匂いが肺を満たす。
 目に映るすべてが白で統一された部屋で、俺はまた「モノ」になる時間を受け入れていた。冷たい診察台に横たわり、無機質な機械音が規則正しく時を刻む。腕に刺された針から、成分不明の液体がゆっくりと血管に流れ込んでいく。

「検体Ω-7、バイタル安定。生殖機能に異常なし」
「ホルモン値、許容範囲内。さすがは最後の個体だ。完璧な資源だよ」

 白いマスクとゴーグルで顔を隠した研究員たちが、感情のない声で言葉を交わす。彼らが俺を見る目は、希少な鉱物か何かを鑑定するそれに似ていた。

 俺に名前はない。
 物心ついた時から、〈エデン・ドーム〉と呼ばれるこの巨大な研究都市で、「実験番号Ω-7(オメガセブン)」として生きてきた。30年前に世界を襲ったウイルスは、人類から繁殖能力を奪い、俺のような「オメガ」は神格化されると同時に、国家が管理する「資源」へと成り果てた。
 そして18歳になった今、俺は人類に残された、最後の男性オメガらしい。

 だから、死にたいと願うことすら贅沢だった。俺の身体は俺のものではなく、人類存続のための道具。この心臓が止まることは、一種の世界的な損失なのだという。馬鹿げた話だ。俺がいるせいで、水面下では醜い奪い合いが起きているというのに。

「……っ」

 検査の終盤、腹の奥に鈍い痛みが走る。もう慣れたはずの不快感に、思わず息を詰めた。俺の身体は、いつ来るか分からない「交配」の日のために、常に最高の状態を維持させられている。

(いっそ、壊れてしまえばいい)

 感情を殺す。思考を止める。そうしなければ、とうの昔に狂っていた。分厚い防弾ガラスの向こうには、ドーム都市の偽物の青空が広がっている。そのさらに外には、汚染された砂漠と、飢えた人々が暮らす荒廃した世界があるのだと、誰かが言っていた。
 どちらも、俺には関係のない世界だ。この白い箱だけが、俺のすべてだった。

 その時だった。

 **《警報! 警報! セクター4にて未確認の侵入者! 全職員はレベル3警戒態勢に移行せよ!》**

 けたたましいアラームが鳴り響き、天井の照明が赤色灯に切り替わった。研究員たちが「何事だ!」「まさかテロか!?」と叫びながら、慌ただしく部屋を出ていく。
 一人、また一人と白衣が消え、静寂と警報音だけが残された診察室で、俺はゆっくりと身体を起こした。腕の針は乱暴に引き抜かれ、血が数滴、真っ白なシーツに染みを作っている。

(死ぬのかな)

 不思議と恐怖はなかった。むしろ、ようやくこの役割から解放されるのだという、歪んだ安堵が胸をよぎる。壁に背を預け、膝を抱える。遠くで爆発音が響き、床が微かに揺れた。目を閉じ、運命が通り過ぎるのを待った。

 どれくらいの時間が経っただろうか。
 俺が閉じ込められていた部屋の電子ロックが、火花を散らて破壊された。轟音と共に分厚い扉が吹き飛び、黒い影が飛び込んでくる。

「……!」

 息を呑んだ。そこに立っていたのは、研究員たちとは明らかに違う空気を纏った男だった。黒い特殊繊維の軍服に身を包み、その体躯はしなやかな肉食獣を思わせる。腰のホルスターには、無骨な銃が収められていた。
 そして何より、彼の全身から放たれる圧倒的な存在感――アルファ特有の、支配者の匂いに全身の細胞が粟立った。

 侵入者は、部屋の隅でうずくまる俺を視界に捉え、ぴたりと動きを止めた。ヘルメットのバイザー越しでも分かるほど、その射抜くような視線が俺に突き刺さる。

「……こいつが、ラスト・オメガ……」

 男が漏らした声は、低く、冷静だった。任務を確認するような、無感情な響き。
 だが、次の瞬間。男は自らのヘルメットを乱暴に脱ぎ捨てた。汗で濡れた黒髪の下から現れたのは、彫刻のように整った顔立ちと、驚きと――何か抗いがたい渇望のような色を浮かべた、鋭い灰色の瞳だった。

 男はゆっくりと俺に近づいてくる。俺は後ずさろうとしたが、背中はすでに冷たい壁に接していた。もう逃げ場はない。
 その時、廊下の向こうから研究員たちの叫び声が聞こえた。

「そこだ! 実験体Ω-7を確保しろ! 絶対に渡すな!」

 しかし、男は背後の声などまるで意に介していない。彼は俺の目の前で膝をつき、その灰色の瞳で、俺の魂の奥底まで見透かすように、まっすぐに見つめた。

「アキ」

 凜、と響いた声は、命令でもなく、確認でもなかった。
 それは、ずっと昔から知っていた宝物の名前を、ようやく見つけて呼びかけるような響きを持っていた。

「――え?」

 思考が停止する。
 いま、この男は、何と言った?
 実験番号でも、検体でも、資源でもなく。
 誰も知るはずのない、俺が心の奥底にしまい込んで、とうの昔に忘れたはずの――たった一つの、俺だけの名を。

「アキ。君を、迎えに来た」

 その瞬間、凍てついていた心臓の壁に、亀裂が入った。
 ひび割れた隙間から、熱い何かがとめどなく溢れ出してくる。視界が滲み、頬を伝う生温かい雫の正体が「涙」なのだと気づくのに、しばらくかかった。

 男――レオンは、俺の震える手を取った。その手は驚くほど大きく、熱かった。

「行くぞ」

 力強く引かれ、俺はなすすべもなく立ち上がる。
 なぜこの男が俺の名前を知っているのか。どこへ行こうとしているのか。何も分からない。
 けれど、生まれて初めて「アキ」と呼ばれた魂の震えが、この手を取れと叫んでいた。

 爆炎が廊下を赤く照らし、銃声が耳をつんざく。
 その地獄のまっただ中で、俺はレオンに手を引かれ、ただひたすらに走り出した。
 死んだように生きてきた世界が、終わる音がした。
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