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第三章 偽りの聖女と真実の悪女
第15話
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天海あかりの名が、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞として読み上げられた夜から、季節はすでに一度巡っていた。映画『ダークレジェンド』で彼女が演じた悪女リリスは、単なるヒール役の枠を超え、社会現象とまで評される一つのアイコンとなった。孤高で、気高く、そして痛ましいほどの悲しみを宿した瞳。人々は、その圧倒的な存在感にひれ伏し、熱狂した。
初夏の日差しが差し込むテレビ局の楽屋。世間が抱く「孤高の悪女」のイメージとは裏腹に、天海あかりは楽屋のソファに深く身を沈め、真っ赤な激辛スナックの袋を無心で傾けていた。膝の上には、読み込まれて付箋だらけになったニーチェの哲学書。そのアンバランスさこそが、天海あかりという女優の本質であり、彼女の計り知れない魅力の源泉だった。
「――それで、話というのは?」
スナックの最後の一枚を口に放り込み、あかりはビデオ通話の画面の向こうにいる敏腕プロデューサー、城戸に問いかけた。画面越しの城戸は、いつも通り悪戯っぽく目を細めている。
「単刀直入に言おう。君にしか頼めない、最高の役がある」
城戸が語ったのは、来年公開予定の歴史大作映画『双貌のヘメロス』の企画だった。古代王国を舞台に、国を救ったとされる双子の姉「聖女アルテナ」と、国を滅ぼしたとされる妹「悪女リベラ」の物語。
「その双子役を、君に」
「一人二役、ですか。面白そうですね」
「いや、違う。Wキャストだ」
城戸の言葉に、あかりの動きが止まる。Wキャスト。自分と並び立つ、もう一人の主演がいるということ。
「相手役は?」
「森崎美優さんだ」
森崎美優。その名を聞いた瞬間、あかりの脳裏にかつての記憶が鮮やかに蘇る。自分とは対照的な「完璧な清純派」として道を歩み、一度は同じ作品で火花を散らした、懐かしいライバルの顔。胸の奥で、静かだが確かな熱を持つ何かが、ちりりと音を立てた。
「……なるほど。面白い、ですね」
あかりは、そう言ってゆっくりと口角を上げた。その瞳の奥に宿ったのは、悪女リリスとも違う、新たな獲物を見つけた狩人のような、鋭い光だった。
二
数週間後、都内の一流ホテルで開かれた製作発表会見は、フラッシュの洪水に包まれていた。純白のドレスを纏った森崎美優は、以前にも増して洗練された「聖女」のオーラを放ち、柔らかな微笑みで報道陣に応えている。その隣に立つのは、漆黒のドレスに身を包んだ天海あかり。対照的な二人の姿は、それだけで一枚の絵画のように完成されていた。
案の定、質疑応答は二人の配役に集中した。
「天海さんには悪女リベラ、森崎さんには聖女アルテナという配役が期待されますが」
ある記者の紋切り型の質問に、マイクを握ったあかりは、会場の空気を一変させる。
「そうでしょうか」
静かだが、凛と響く声。
「歴史とは、いつだって勝者が書く物語です。本当にそうだったのか、誰にもわかりません。私は……」
あかりは一度言葉を切り、隣に立つ美優に、そしてカメラの向こうの全ての人々に語りかけるように続けた。
「私は、聖女アルテナが流さなかった涙にこそ、興味があります」
会場が、息を呑む音で静まり返る。あかりの挑戦的な言葉に、美優の完璧な微笑みが、ほんの一瞬、凍り付いたのを、あかりは見逃さなかった。それは、これから始まる長い戦いの始まりを告げる、静かな号砲だった。
三
最初の本読みは、異様な緊張感の中で行われた。円卓に並ぶのは、監督の新城、主演の二人、そして桜井玲二ら主要キャストたち。新城監督は、あえて配役を決めぬまま、読み合わせを始めた。
「では、まず天海さんから。リベラの最初のセリフを」
あかりは、台本に視線を落とす。そして、驚くほど平坦な声で、悪女リベラの憎悪に満ちたセリフを読み上げた。感情がないわけではない。むしろ、全ての感情を燃やし尽くした果ての、空虚な灰のような声。リベラの絶望の本質を抉るようなその解釈に、ベテラン俳優たちが思わず顔を上げた。
次に、聖女アルテナのパート。あかりは、打って変わって慈愛に満ちた声色を作る。しかし、その完璧すぎる聖者の言葉の端々には、刃物のような冷たさと、決して他者を受け入れない孤高の響きが滲んでいた。
一方、森崎美優は、真面目な彼女らしく、台本にびっしりと書き込まれた役作りを元に、完璧な「聖女」を演じてみせる。だが、あかりの演技の後では、その完璧さが、まるで精巧な作りの仮面のように見えてしまう。彼女自身、それに気づいていた。悪女リベラのセリフを読む番が回ってきた時、美優の声は、悔しさと焦りで微かに震えていた。
全ての読み合わせが終わった時、あかりは席を立ち、新城監督の元へ向かった。そして、集まった全員に聞こえるように、はっきりと告げた。
「監督。この台本の真実は、まだどこにも書かれていません。それを掘り起こすのが、私たちの仕事です」
挑戦的なその言葉を、新城監督は面白そうに、そして満足げに聞いていた。隣では、桜井玲二が静かに目を伏せ、これから始まるであろう魂の激突を予感し、かすかに口元を緩めた。
偽りの聖女と、真実の悪女。二人の女優の、イメージと真実を懸けた戦いが、今、静かに幕を開けた。
初夏の日差しが差し込むテレビ局の楽屋。世間が抱く「孤高の悪女」のイメージとは裏腹に、天海あかりは楽屋のソファに深く身を沈め、真っ赤な激辛スナックの袋を無心で傾けていた。膝の上には、読み込まれて付箋だらけになったニーチェの哲学書。そのアンバランスさこそが、天海あかりという女優の本質であり、彼女の計り知れない魅力の源泉だった。
「――それで、話というのは?」
スナックの最後の一枚を口に放り込み、あかりはビデオ通話の画面の向こうにいる敏腕プロデューサー、城戸に問いかけた。画面越しの城戸は、いつも通り悪戯っぽく目を細めている。
「単刀直入に言おう。君にしか頼めない、最高の役がある」
城戸が語ったのは、来年公開予定の歴史大作映画『双貌のヘメロス』の企画だった。古代王国を舞台に、国を救ったとされる双子の姉「聖女アルテナ」と、国を滅ぼしたとされる妹「悪女リベラ」の物語。
「その双子役を、君に」
「一人二役、ですか。面白そうですね」
「いや、違う。Wキャストだ」
城戸の言葉に、あかりの動きが止まる。Wキャスト。自分と並び立つ、もう一人の主演がいるということ。
「相手役は?」
「森崎美優さんだ」
森崎美優。その名を聞いた瞬間、あかりの脳裏にかつての記憶が鮮やかに蘇る。自分とは対照的な「完璧な清純派」として道を歩み、一度は同じ作品で火花を散らした、懐かしいライバルの顔。胸の奥で、静かだが確かな熱を持つ何かが、ちりりと音を立てた。
「……なるほど。面白い、ですね」
あかりは、そう言ってゆっくりと口角を上げた。その瞳の奥に宿ったのは、悪女リリスとも違う、新たな獲物を見つけた狩人のような、鋭い光だった。
二
数週間後、都内の一流ホテルで開かれた製作発表会見は、フラッシュの洪水に包まれていた。純白のドレスを纏った森崎美優は、以前にも増して洗練された「聖女」のオーラを放ち、柔らかな微笑みで報道陣に応えている。その隣に立つのは、漆黒のドレスに身を包んだ天海あかり。対照的な二人の姿は、それだけで一枚の絵画のように完成されていた。
案の定、質疑応答は二人の配役に集中した。
「天海さんには悪女リベラ、森崎さんには聖女アルテナという配役が期待されますが」
ある記者の紋切り型の質問に、マイクを握ったあかりは、会場の空気を一変させる。
「そうでしょうか」
静かだが、凛と響く声。
「歴史とは、いつだって勝者が書く物語です。本当にそうだったのか、誰にもわかりません。私は……」
あかりは一度言葉を切り、隣に立つ美優に、そしてカメラの向こうの全ての人々に語りかけるように続けた。
「私は、聖女アルテナが流さなかった涙にこそ、興味があります」
会場が、息を呑む音で静まり返る。あかりの挑戦的な言葉に、美優の完璧な微笑みが、ほんの一瞬、凍り付いたのを、あかりは見逃さなかった。それは、これから始まる長い戦いの始まりを告げる、静かな号砲だった。
三
最初の本読みは、異様な緊張感の中で行われた。円卓に並ぶのは、監督の新城、主演の二人、そして桜井玲二ら主要キャストたち。新城監督は、あえて配役を決めぬまま、読み合わせを始めた。
「では、まず天海さんから。リベラの最初のセリフを」
あかりは、台本に視線を落とす。そして、驚くほど平坦な声で、悪女リベラの憎悪に満ちたセリフを読み上げた。感情がないわけではない。むしろ、全ての感情を燃やし尽くした果ての、空虚な灰のような声。リベラの絶望の本質を抉るようなその解釈に、ベテラン俳優たちが思わず顔を上げた。
次に、聖女アルテナのパート。あかりは、打って変わって慈愛に満ちた声色を作る。しかし、その完璧すぎる聖者の言葉の端々には、刃物のような冷たさと、決して他者を受け入れない孤高の響きが滲んでいた。
一方、森崎美優は、真面目な彼女らしく、台本にびっしりと書き込まれた役作りを元に、完璧な「聖女」を演じてみせる。だが、あかりの演技の後では、その完璧さが、まるで精巧な作りの仮面のように見えてしまう。彼女自身、それに気づいていた。悪女リベラのセリフを読む番が回ってきた時、美優の声は、悔しさと焦りで微かに震えていた。
全ての読み合わせが終わった時、あかりは席を立ち、新城監督の元へ向かった。そして、集まった全員に聞こえるように、はっきりと告げた。
「監督。この台本の真実は、まだどこにも書かれていません。それを掘り起こすのが、私たちの仕事です」
挑戦的なその言葉を、新城監督は面白そうに、そして満足げに聞いていた。隣では、桜井玲二が静かに目を伏せ、これから始まるであろう魂の激突を予感し、かすかに口元を緩めた。
偽りの聖女と、真実の悪女。二人の女優の、イメージと真実を懸けた戦いが、今、静かに幕を開けた。
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