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第三章 偽りの聖女と真実の悪女
第19話
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パンドラの箱は、開かれた。その日から、映画『双貌のヘメロス』の撮影現場は、予測不能な化学反応が渦巻く実験室へと変貌した。
天海あかりが演じる聖女アルテナは、日に日にその神々しさと同時に、触れる者を凍てつかせるような冷酷さを増していく。民衆を導くその瞳は、もはや母の慈愛ではなく、全てを見透かす絶対者のそれだった。
一方、森崎美優が演じる悪女リベラは、その叫びに悲痛なまでの人間味を帯びていった。姉を憎みながら、その実、誰よりも姉の愛を渇望する魂の慟哭。その痛々しいほどの純粋さは、観る者の胸を締め付けた。
「脚本、書き換えだ!今の二人の演技に、元の台本が追いついていない!」
新城監督は、興奮を隠さずに叫んだ。脚本家は連日連夜、二人の女優が生み出す「真実」を必死に文字に起こしていく。現場では、スタッフたちが「今日の聖女様は、マジで怖かった…」「リベラが可哀想すぎて、こっちが泣きそうだ」と、完全に物語の虜になっていた。
二人の女優は、互いの演技を貪欲に吸収し合っていた。あかりは、美優が表現する「痛み」を自らの聖女の「孤独」の裏付けとし、美優は、あかりが体現する「絶対的な強さ」を自らの悪女が「憧れた光」として役に取り込む。ライバルでありながら、互いが互いの最高の鏡となり、その演技は凄まじい速度で深まっていく。まさに、共鳴だった。
二
撮影が終わっても、二人は役から抜けきれずにいた。
あかりは、休みのたびに国会図書館に通い詰めていた。聖女アルテナのモデルとされる人物に関する、あらゆる古文書を読み解き、その生涯に隠された矛盾点や、歴史から抹消された記録を探し出す。その姿は、もはや女優ではなく、歴史学者の執念そのものだった。
美優は、変わった。華やかな交流会やパーティーに一切顔を出さなくなり、一人で過ごす時間が増えた。かつては苦手だった暗い部屋で、クラシック音楽を聴きながら、リベラの孤独と自分自身の内面を静かに対話させる。その孤独は、彼女から自信を奪うのではなく、凛とした強さとしなやかさを与え始めていた。
桜井玲二は、そんな二人を静かに見守っていた。彼は何も言わなかったが、あかりの研究室のような楽屋にはカフェインの強いコーヒーを、静寂に包まれた美優の楽屋には心を落ち着かせるハーブティーを、そっと差し入れるのだった。
三
その日、撮影されていたのは、聖女と悪女が、幼い頃にだけ使っていた秘密の礼拝堂で密会するシーンだった。脚本では、二人が互いを牽制し、短い言葉を交わすだけのはずだった。
「本番、スタート!」
蝋燭の光だけが揺れる薄暗いセットの中、二人は静かに対峙する。
「……なぜ、あなたはそんなに重い仮面を被り続けるの?」
先に口を開いたのは、悪女リベラの仮面を被った、美優だった。それは、台本にはない、アドリブのセリフ。
「民を救うため? 国のため? 違う。あなたは、誰よりも自分自身を信じていない。だから、完璧な聖女でいなければならないだけ」
その言葉に、聖女アルテナの仮面を被ったあかりが、初めて動揺の色を見せた。そして、ゆっくりと反撃の言葉を紡ぐ。
「あなたこそ、なぜ本当の涙を隠すの?」
「……!」
「姉が憎いと叫びながら、その瞳は、昔と少しも変わらない。ただ、『私を見て』と叫んでいるだけ。……違うかしら?」
それは、もはや役のセリフではなかった。森崎美優と天海あかり、二人の女優の魂が、互いの最も柔らかい部分に触れようとする、痛々しくも美しい対話だった。新城監督は、カットをかけるのも忘れ、食い入るようにモニターを見つめている。
長い沈黙の後、美優が演じるリベラの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それを見たあかりの聖女もまた、初めて、完璧な仮面に小さなヒビが入る。その瞬間、二人は確かに理解した。自分たちは、倒すべき敵ではなく、この世界のたった一人の理解者であり、共に真実を創り上げる「戦友」なのだと。
四
だが、運命は、戦友となった二人に、最も残酷な選択を突きつけた。
クライマックスである「聖女が悪女を処刑する」シーンの撮影を数日後に控えた日、新城監督が二人を呼び出した。
「君たちの演技は、私の想像を遥かに超えた。感謝している」
監督は、初めて穏やかな声で二人を労った。
「だが、映画は、結末を必要とする。観客は、どちらが聖女で、どちらが悪女だったのか、その答えを求める。君たちの魂が一つになったとしても、役は二つだ」
監督は、そこで一度言葉を切り、非情な宣告を告げた。
「クライマックスの撮影日、最終的にどちらが聖女アルテナを演じ、どちらが悪女リベラを演じるのか……二人で、一つの答えを出してきなさい」
「……もし、答えが出せなかったら?」
震える声で、美優が問う。
「その時は、この映画は未完のまま終わる。全ての責任は、監督である私が取る」
あまりにも重い、最終通告。互いを最高のパートナーだと認め合った矢先に突きつけられた、究極の選択。どちらかが、相手の役を奪い、そして自分の役を捨てなければならない。
二人の間に、これまでとは比較にならないほど、深く、冷たい沈黙が落ちた。映画の結末、そして二人の女優の運命を決める、長い夜が始まろうとしていた。
天海あかりが演じる聖女アルテナは、日に日にその神々しさと同時に、触れる者を凍てつかせるような冷酷さを増していく。民衆を導くその瞳は、もはや母の慈愛ではなく、全てを見透かす絶対者のそれだった。
一方、森崎美優が演じる悪女リベラは、その叫びに悲痛なまでの人間味を帯びていった。姉を憎みながら、その実、誰よりも姉の愛を渇望する魂の慟哭。その痛々しいほどの純粋さは、観る者の胸を締め付けた。
「脚本、書き換えだ!今の二人の演技に、元の台本が追いついていない!」
新城監督は、興奮を隠さずに叫んだ。脚本家は連日連夜、二人の女優が生み出す「真実」を必死に文字に起こしていく。現場では、スタッフたちが「今日の聖女様は、マジで怖かった…」「リベラが可哀想すぎて、こっちが泣きそうだ」と、完全に物語の虜になっていた。
二人の女優は、互いの演技を貪欲に吸収し合っていた。あかりは、美優が表現する「痛み」を自らの聖女の「孤独」の裏付けとし、美優は、あかりが体現する「絶対的な強さ」を自らの悪女が「憧れた光」として役に取り込む。ライバルでありながら、互いが互いの最高の鏡となり、その演技は凄まじい速度で深まっていく。まさに、共鳴だった。
二
撮影が終わっても、二人は役から抜けきれずにいた。
あかりは、休みのたびに国会図書館に通い詰めていた。聖女アルテナのモデルとされる人物に関する、あらゆる古文書を読み解き、その生涯に隠された矛盾点や、歴史から抹消された記録を探し出す。その姿は、もはや女優ではなく、歴史学者の執念そのものだった。
美優は、変わった。華やかな交流会やパーティーに一切顔を出さなくなり、一人で過ごす時間が増えた。かつては苦手だった暗い部屋で、クラシック音楽を聴きながら、リベラの孤独と自分自身の内面を静かに対話させる。その孤独は、彼女から自信を奪うのではなく、凛とした強さとしなやかさを与え始めていた。
桜井玲二は、そんな二人を静かに見守っていた。彼は何も言わなかったが、あかりの研究室のような楽屋にはカフェインの強いコーヒーを、静寂に包まれた美優の楽屋には心を落ち着かせるハーブティーを、そっと差し入れるのだった。
三
その日、撮影されていたのは、聖女と悪女が、幼い頃にだけ使っていた秘密の礼拝堂で密会するシーンだった。脚本では、二人が互いを牽制し、短い言葉を交わすだけのはずだった。
「本番、スタート!」
蝋燭の光だけが揺れる薄暗いセットの中、二人は静かに対峙する。
「……なぜ、あなたはそんなに重い仮面を被り続けるの?」
先に口を開いたのは、悪女リベラの仮面を被った、美優だった。それは、台本にはない、アドリブのセリフ。
「民を救うため? 国のため? 違う。あなたは、誰よりも自分自身を信じていない。だから、完璧な聖女でいなければならないだけ」
その言葉に、聖女アルテナの仮面を被ったあかりが、初めて動揺の色を見せた。そして、ゆっくりと反撃の言葉を紡ぐ。
「あなたこそ、なぜ本当の涙を隠すの?」
「……!」
「姉が憎いと叫びながら、その瞳は、昔と少しも変わらない。ただ、『私を見て』と叫んでいるだけ。……違うかしら?」
それは、もはや役のセリフではなかった。森崎美優と天海あかり、二人の女優の魂が、互いの最も柔らかい部分に触れようとする、痛々しくも美しい対話だった。新城監督は、カットをかけるのも忘れ、食い入るようにモニターを見つめている。
長い沈黙の後、美優が演じるリベラの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それを見たあかりの聖女もまた、初めて、完璧な仮面に小さなヒビが入る。その瞬間、二人は確かに理解した。自分たちは、倒すべき敵ではなく、この世界のたった一人の理解者であり、共に真実を創り上げる「戦友」なのだと。
四
だが、運命は、戦友となった二人に、最も残酷な選択を突きつけた。
クライマックスである「聖女が悪女を処刑する」シーンの撮影を数日後に控えた日、新城監督が二人を呼び出した。
「君たちの演技は、私の想像を遥かに超えた。感謝している」
監督は、初めて穏やかな声で二人を労った。
「だが、映画は、結末を必要とする。観客は、どちらが聖女で、どちらが悪女だったのか、その答えを求める。君たちの魂が一つになったとしても、役は二つだ」
監督は、そこで一度言葉を切り、非情な宣告を告げた。
「クライマックスの撮影日、最終的にどちらが聖女アルテナを演じ、どちらが悪女リベラを演じるのか……二人で、一つの答えを出してきなさい」
「……もし、答えが出せなかったら?」
震える声で、美優が問う。
「その時は、この映画は未完のまま終わる。全ての責任は、監督である私が取る」
あまりにも重い、最終通告。互いを最高のパートナーだと認め合った矢先に突きつけられた、究極の選択。どちらかが、相手の役を奪い、そして自分の役を捨てなければならない。
二人の間に、これまでとは比較にならないほど、深く、冷たい沈黙が落ちた。映画の結末、そして二人の女優の運命を決める、長い夜が始まろうとしていた。
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