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翌朝、領主館の庭に出ると、朝露に濡れた芝の上に小さな花が咲いていた。
「……もう春なのね」
辺境は王都より季節の巡りが遅いけれど、それでも確かに、冬は終わりを告げている。
そんなことを思いながら背を向けると、そこに立っていたのは――
「おはよう、リリアーヌ」
……また、来ていた。
「おはようございます、ユリウス“殿下”」
あえて“殿下”を強調して返すと、彼は少しだけ苦い顔をする。
「その呼び方、やめてほしい」
「お気に召しませんか? でも、もう私たちは何の関係もないはずです」
「違う、あるよ。僕が――」
「あなたが一方的に壊した縁は、私にとっても現実です」
私は言い放ち、その場を去ろうとした。
けれど、ユリウスは私の手首をとらえた。力は弱い。それでも、その手が震えているのがわかった。
「……リリアーヌ。どうすれば、君にもう一度信じてもらえる?」
そう囁かれた瞬間、私は心の奥を突かれたように、立ち止まった。
(どうすればって、そんなの……)
彼が少しでも、あのとき私の手を取ってくれていたら。
庇ってくれていたら。
「誰にでも分け隔てなく接する聖女」などという言葉のために、私を切り捨てなければ――。
私は、震える自分の声で、ようやく返した。
「……あなたにできることなど、ありません」
そして、振り払うように立ち去った。
「お嬢様、あの……よろしければ、お話ししても?」
その日の夕方。メイド長のマリアが、遠慮がちに声をかけてきた。
「ええ、どうぞ」
「殿下……王太子殿下ですが、今朝方、裏の農村を一人で訪れていたそうです」
「……は?」
「手土産を持って、謝罪とご挨拶をなさって。皆、驚きと困惑の中、迎えたようですが……」
「……何を考えているのかしら、あの人」
貴族が農村に出向くなど、あり得ない。
王太子ともなれば、なおさらのこと。それでも彼は、領民一人ひとりに頭を下げていたという。
「……お嬢様を、本気で取り戻したいのかもしれませんね」
マリアの言葉に、私は胸を押さえた。
知らないふりをしていた自分が、少しだけ恥ずかしくなった。
「リリアーヌ。明日、馬で出かけないか?」
「……え?」
翌日、食堂で朝食をとっていると、またしても現れたユリウスが、突拍子もなくそう言った。
「散歩がてら、領地を案内してくれないか。君の目で見て、君の声で語ってくれる場所を知りたい」
「……私の、領地を?」
「そう。君の生まれた場所を、僕は何も知らなかった。知ろうともしなかった。でも、今は……知りたいんだ」
彼の言葉は真っ直ぐで、まるで若い騎士のようだった。
あの傲慢で王子然とした彼とは、まるで違う。
私はしばし迷った末に、静かに答えた。
「……午後一時、厩舎前に来てください。私も馬を出します」
辺境の風は冷たくも澄んでいた。
二人で馬を並べて走るのは、王都での舞踏会以来だったかもしれない。
「……この森、見覚えがある。昔、君と一度だけ狩りに来た気がする」
「ええ。あなたが鹿を仕留められずに、しょんぼりしていたのを覚えています」
「そんなこともあったな……。あのときの君は、僕を慰めてくれた」
「……そんな優しさも、忘れてしまったくせに」
小さく呟いた声が、風に消えたと思った瞬間、ユリウスが馬を止めた。
「リリアーヌ」
「何です?」
「……君がいなかったこの数日、僕は、初めて“自分で考える”ということをした」
「王太子が……?」
「皮肉はやめてくれ。だが、本当にそうなんだ。君の姿が消えて、初めて、どれほど君に頼っていたのかを知った」
「そんなの、遅すぎるんです」
「それでも、遅くても……僕は、これから一歩ずつ取り戻していく」
まるで誓いを立てるような彼の声に、私は沈黙した。
心の奥に、ひとひらの温もりが差し込むのを感じながら。
その夜。執務室で報告書を読みながら、私はふと、懐かしい書簡を見つけた。
(……婚約中に、彼が私に送ってきた手紙)
几帳面な筆跡。几帳面すぎて、感情がまったく伝わらない手紙の数々。
けれど、その中の一通に、私は目を留めた。
『君の笑顔が好きだ。だが、君が誰にも見せない強さも、同じくらいに美しいと思う』
――そんなこと、言っていたのね。
私はそっと手紙を戻し、息を吐いた。
翌朝。驚くべき客がやってきた。
「リリアーヌ様、お久しぶりです。ローザです」
屋敷の前で、私はまさかの人物と対面していた。
薄桃色の髪。かつて“新たな聖女”と騒がれ、ユリウスを虜にした女。
「……何の用ですか?」
「ユリウス様を……返してください」
「……は?」
ローザは、涙をにじませながら、拳を握っていた。
「貴女が許してくれない限り、ユリウス様は戻ってこない……! 私のことなんて、もう見てさえいないんです!」
「それは、あなたの責任では?」
「違います! 彼は貴女を忘れたふりをしていただけ! 最初から最後まで、ずっと貴女を……っ」
その瞬間、私の心の中で、何かが音を立てて崩れた。
彼は――本当に、私のことを?
「お願いです、リリアーヌ様。どうか彼を許して……私には、彼の隣に立つことなんてできません」
彼女の涙は偽りではなかった。
私は言葉を失ったまま、ただ風の音を聞いていた。
「……もう春なのね」
辺境は王都より季節の巡りが遅いけれど、それでも確かに、冬は終わりを告げている。
そんなことを思いながら背を向けると、そこに立っていたのは――
「おはよう、リリアーヌ」
……また、来ていた。
「おはようございます、ユリウス“殿下”」
あえて“殿下”を強調して返すと、彼は少しだけ苦い顔をする。
「その呼び方、やめてほしい」
「お気に召しませんか? でも、もう私たちは何の関係もないはずです」
「違う、あるよ。僕が――」
「あなたが一方的に壊した縁は、私にとっても現実です」
私は言い放ち、その場を去ろうとした。
けれど、ユリウスは私の手首をとらえた。力は弱い。それでも、その手が震えているのがわかった。
「……リリアーヌ。どうすれば、君にもう一度信じてもらえる?」
そう囁かれた瞬間、私は心の奥を突かれたように、立ち止まった。
(どうすればって、そんなの……)
彼が少しでも、あのとき私の手を取ってくれていたら。
庇ってくれていたら。
「誰にでも分け隔てなく接する聖女」などという言葉のために、私を切り捨てなければ――。
私は、震える自分の声で、ようやく返した。
「……あなたにできることなど、ありません」
そして、振り払うように立ち去った。
「お嬢様、あの……よろしければ、お話ししても?」
その日の夕方。メイド長のマリアが、遠慮がちに声をかけてきた。
「ええ、どうぞ」
「殿下……王太子殿下ですが、今朝方、裏の農村を一人で訪れていたそうです」
「……は?」
「手土産を持って、謝罪とご挨拶をなさって。皆、驚きと困惑の中、迎えたようですが……」
「……何を考えているのかしら、あの人」
貴族が農村に出向くなど、あり得ない。
王太子ともなれば、なおさらのこと。それでも彼は、領民一人ひとりに頭を下げていたという。
「……お嬢様を、本気で取り戻したいのかもしれませんね」
マリアの言葉に、私は胸を押さえた。
知らないふりをしていた自分が、少しだけ恥ずかしくなった。
「リリアーヌ。明日、馬で出かけないか?」
「……え?」
翌日、食堂で朝食をとっていると、またしても現れたユリウスが、突拍子もなくそう言った。
「散歩がてら、領地を案内してくれないか。君の目で見て、君の声で語ってくれる場所を知りたい」
「……私の、領地を?」
「そう。君の生まれた場所を、僕は何も知らなかった。知ろうともしなかった。でも、今は……知りたいんだ」
彼の言葉は真っ直ぐで、まるで若い騎士のようだった。
あの傲慢で王子然とした彼とは、まるで違う。
私はしばし迷った末に、静かに答えた。
「……午後一時、厩舎前に来てください。私も馬を出します」
辺境の風は冷たくも澄んでいた。
二人で馬を並べて走るのは、王都での舞踏会以来だったかもしれない。
「……この森、見覚えがある。昔、君と一度だけ狩りに来た気がする」
「ええ。あなたが鹿を仕留められずに、しょんぼりしていたのを覚えています」
「そんなこともあったな……。あのときの君は、僕を慰めてくれた」
「……そんな優しさも、忘れてしまったくせに」
小さく呟いた声が、風に消えたと思った瞬間、ユリウスが馬を止めた。
「リリアーヌ」
「何です?」
「……君がいなかったこの数日、僕は、初めて“自分で考える”ということをした」
「王太子が……?」
「皮肉はやめてくれ。だが、本当にそうなんだ。君の姿が消えて、初めて、どれほど君に頼っていたのかを知った」
「そんなの、遅すぎるんです」
「それでも、遅くても……僕は、これから一歩ずつ取り戻していく」
まるで誓いを立てるような彼の声に、私は沈黙した。
心の奥に、ひとひらの温もりが差し込むのを感じながら。
その夜。執務室で報告書を読みながら、私はふと、懐かしい書簡を見つけた。
(……婚約中に、彼が私に送ってきた手紙)
几帳面な筆跡。几帳面すぎて、感情がまったく伝わらない手紙の数々。
けれど、その中の一通に、私は目を留めた。
『君の笑顔が好きだ。だが、君が誰にも見せない強さも、同じくらいに美しいと思う』
――そんなこと、言っていたのね。
私はそっと手紙を戻し、息を吐いた。
翌朝。驚くべき客がやってきた。
「リリアーヌ様、お久しぶりです。ローザです」
屋敷の前で、私はまさかの人物と対面していた。
薄桃色の髪。かつて“新たな聖女”と騒がれ、ユリウスを虜にした女。
「……何の用ですか?」
「ユリウス様を……返してください」
「……は?」
ローザは、涙をにじませながら、拳を握っていた。
「貴女が許してくれない限り、ユリウス様は戻ってこない……! 私のことなんて、もう見てさえいないんです!」
「それは、あなたの責任では?」
「違います! 彼は貴女を忘れたふりをしていただけ! 最初から最後まで、ずっと貴女を……っ」
その瞬間、私の心の中で、何かが音を立てて崩れた。
彼は――本当に、私のことを?
「お願いです、リリアーヌ様。どうか彼を許して……私には、彼の隣に立つことなんてできません」
彼女の涙は偽りではなかった。
私は言葉を失ったまま、ただ風の音を聞いていた。
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