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王国からの使節団がルグランに到着するという知らせが届いたのは、それからわずか三日後のことだった。
宿の窓から見える街道には、見慣れぬ旗印の行列がゆっくりと進んでくる。
金と青の紋章。
グランベルト王国――かつて私がいた国のもの。
そして、その馬車の中央に掲げられている紋章こそ、王太子殿下の印。
つまり、彼自身がここに来ているということだった。
「本当に来たのですね……」
私は小さくつぶやいた。
手の中の茶器がかすかに震える。
「落ち着け、アリア」
隣に立つカインの声は静かだった。
けれど、その瞳はどこか冷たく、深く、まるで何かを見透かしているようだった。
「彼の目的はわかっている。名目は“外交”だが、実際は――お前だ」
「……私?」
「お前を取り戻すために、国を動かしたんだ。相当焦っているな」
冗談のように聞こえるけれど、カインの口調には一片の笑いもなかった。
その日の午後。
王城ではルグラン国王陛下と、グランベルト王国の使節団との正式な謁見が行われた。
私はカインの付き添いとして控えの間にいたが、扉の向こうから聞こえてくる声の中に、あの懐かしい声を聞き取ってしまう。
「我が国と貴国との友好を、改めて確認したい次第であります」
あの落ち着いた、でもどこか偽りめいた声音――エドワード殿下。
以前のような傲慢さは影を潜めていたが、それでも彼の話し方にはかすかに“王太子”としての自尊心が残っていた。
「ふむ。確かに、友好を保つのは悪くない」
ルグラン国王が低く応じる。
そして、次の瞬間。
「それと……一つ、私的なお願いがございます」
空気が変わった。
私は扉の前で息を止める。
「私の元婚約者――アリア・レインフォード嬢を、お返しいただきたいのです」
その言葉が響いた瞬間、室内の空気が凍りついた。
外にいる私の心臓も同じように止まりそうになる。
「……なんだと?」
国王の低い声が響き、次いで、カインが立ち上がる音がした。
「彼女はルグランの民だ。お前の所有物ではない」
「英雄殿……これは、私情です。彼女は――」
「貧乏人とでも結婚すれば? そう言って捨てたのはお前だろう」
カインの声が、まるで刃のように鋭く響いた。
その瞬間、扉の向こうから何も聞こえなくなる。
まるで、時間さえ止まってしまったように。
会談が終わった後。
私は控え室で、ようやく深呼吸をした。
それでも胸の鼓動は早く、足元が少し震えていた。
「アリア」
カインがゆっくりと近づいてくる。
「怖かったか?」
「……正直に言うと、はい。でも、それ以上に……」
私は小さく息をついた。
「カインさんが、私のためにあんなふうに怒ってくれたのが、驚きでした」
「当然だ」
そう言って、彼は私の肩にそっと手を置いた。
「お前は、もう誰かに見下されるような存在じゃない」
その言葉が、胸の奥に沁みた。
同時に、なぜか少しだけ涙が滲んだ。
「……ありがとう、ございます」
その瞬間、扉が控えめにノックされた。
開けると、そこに立っていたのは――エドワード殿下だった。
衛兵も連れず、一人だけ。
「少し、話をさせてくれないか」
その目には、かつての尊大さはなく、どこか焦りと後悔の色が混じっていた。
カインは私の前に立つようにして、彼をじっと見つめる。
「話なら、俺も同席する」
「……構わない」
殿下はそう言って、静かに頷いた。
部屋の中。
窓から差し込む夕暮れの光が、三人の間に長い影を落とす。
殿下はしばらく沈黙した後、ようやく口を開いた。
「私は……あの日、君を傷つけたことを悔いている」
「……そうですか」
「理由があるんだ。君の父上が援助を打ち切ったとき、王宮は混乱していた。貴族派の圧力が強く、私は――」
「つまり、立場のために私を切り捨てたのですね」
「……そうだ」
あまりにもあっさりと認められて、私は言葉を失った。
殿下は苦しげに顔を伏せた。
「だが、あれから何をしても、君のことが忘れられなかった。君がこの国で英雄に嫁いだと聞いた時、初めて理解したんだ……私は何を失ったのかを」
その言葉に、私はわずかに眉を寄せる。
罪悪感と未練の混じった声。
でも、それは愛ではなく“執着”に近い。
「殿下」
代わりにカインが口を開く。
「それ以上、彼女に過去の傷を思い出させるな。彼女はもう、俺の隣で生きている」
「……君は、本当に彼女を愛しているのか?」
「愚問だ」
短い言葉の中に、確かな熱があった。
殿下が唇を噛み、何も言えなくなる。
私はその横顔を見つめながら、そっと胸の前で手を握りしめた。
――愛している、なんて言葉はまだ聞いたことがない。
けれど、彼の行動がそのすべてを語っている気がした。
殿下が去ったあと、部屋に残ったのは沈黙だけだった。
カインは窓辺に立ち、暮れゆく空を見つめている。
「……怒ってますか?」
「いや。むしろ、スッキリした」
彼が振り返る。
「お前の前では、もう誰も偽れない。あの男も、自分の愚かさを思い知っただろう」
そう言って、彼は少しだけ笑った。
その笑みがあまりにも穏やかで、私は思わず頬を赤らめた。
「……ありがとうございます。ずっと、胸の奥に刺さっていた棘が、やっと取れた気がします」
「なら良かった」
そう言って、彼は私の髪をそっと撫でた。
優しい手のひらが、少しだけ震えているのに気づく。
「カインさん……?」
「……いや、何でもない」
けれど、その視線はどこか遠く、心ここにあらずといった様子だった。
その夜。
私は眠れず、廊下を歩いていた。
ふと、客室の扉の向こうから、カインの声が微かに聞こえる。
「――まだ、隠しておくしかない。彼女には」
え……?
思わず立ち止まり、耳を澄ます。
「はい、国王陛下。……はい、承知しました。正式に発表するのは、彼女との婚約を結んだあとに――」
胸が高鳴る。
陛下? 婚約?
扉が静かに開き、カインが出てきた。
驚いた顔で私を見て、少しだけ苦笑した。
「……聞いていたのか」
「い、いえ、あの、少しだけ……!」
「そうか」
彼は少しの間、何かを考えるように沈黙したあと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「アリア。驚かせるかもしれないが――俺はただの英雄ではない」
「……え?」
「正式には、ルグランの“第一王子”だ」
頭の中が真っ白になった。
英雄。将軍。宿の常連。優しい人。
それが、隣国の王子――?
「王国の政治に関わるため、一兵士として身分を隠していた。だが、そろそろそれも終わりにするつもりだ」
彼の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「アリア、お前に嘘をついていたことだけは謝る」
「……でも、なぜ私なんかに?」
「“なんか”じゃない。俺が選んだのは、お前だ」
その言葉に、胸が熱くなる。
けれど、彼は少しだけ苦笑を浮かべた。
「ただ――王族として、お前を妻に迎えるには、国の承認が要る」
「……承認?」
「ああ。殿下の動きが、その条件に影響を与える。つまり――まだ終わっていない」
そう言って、彼はゆっくりと私の頬に触れた。
「もう一度聞く。俺の隣に立つ覚悟はあるか?」
私は息を呑み、ただ頷くことしかできなかった。
そして――その瞬間、外から遠く、馬蹄の音が響いた。
夜空の下、王国の使者が再び城門を叩く。
新たな“交渉”の火種を抱えて。
彼の手が私の頬から離れた時、静かな声が落ちた。
「戦わなくていい。だが、覚悟だけはしておけ。次は、“本当のざまぁ”になる」
その予感に、胸が震えた。
宿の窓から見える街道には、見慣れぬ旗印の行列がゆっくりと進んでくる。
金と青の紋章。
グランベルト王国――かつて私がいた国のもの。
そして、その馬車の中央に掲げられている紋章こそ、王太子殿下の印。
つまり、彼自身がここに来ているということだった。
「本当に来たのですね……」
私は小さくつぶやいた。
手の中の茶器がかすかに震える。
「落ち着け、アリア」
隣に立つカインの声は静かだった。
けれど、その瞳はどこか冷たく、深く、まるで何かを見透かしているようだった。
「彼の目的はわかっている。名目は“外交”だが、実際は――お前だ」
「……私?」
「お前を取り戻すために、国を動かしたんだ。相当焦っているな」
冗談のように聞こえるけれど、カインの口調には一片の笑いもなかった。
その日の午後。
王城ではルグラン国王陛下と、グランベルト王国の使節団との正式な謁見が行われた。
私はカインの付き添いとして控えの間にいたが、扉の向こうから聞こえてくる声の中に、あの懐かしい声を聞き取ってしまう。
「我が国と貴国との友好を、改めて確認したい次第であります」
あの落ち着いた、でもどこか偽りめいた声音――エドワード殿下。
以前のような傲慢さは影を潜めていたが、それでも彼の話し方にはかすかに“王太子”としての自尊心が残っていた。
「ふむ。確かに、友好を保つのは悪くない」
ルグラン国王が低く応じる。
そして、次の瞬間。
「それと……一つ、私的なお願いがございます」
空気が変わった。
私は扉の前で息を止める。
「私の元婚約者――アリア・レインフォード嬢を、お返しいただきたいのです」
その言葉が響いた瞬間、室内の空気が凍りついた。
外にいる私の心臓も同じように止まりそうになる。
「……なんだと?」
国王の低い声が響き、次いで、カインが立ち上がる音がした。
「彼女はルグランの民だ。お前の所有物ではない」
「英雄殿……これは、私情です。彼女は――」
「貧乏人とでも結婚すれば? そう言って捨てたのはお前だろう」
カインの声が、まるで刃のように鋭く響いた。
その瞬間、扉の向こうから何も聞こえなくなる。
まるで、時間さえ止まってしまったように。
会談が終わった後。
私は控え室で、ようやく深呼吸をした。
それでも胸の鼓動は早く、足元が少し震えていた。
「アリア」
カインがゆっくりと近づいてくる。
「怖かったか?」
「……正直に言うと、はい。でも、それ以上に……」
私は小さく息をついた。
「カインさんが、私のためにあんなふうに怒ってくれたのが、驚きでした」
「当然だ」
そう言って、彼は私の肩にそっと手を置いた。
「お前は、もう誰かに見下されるような存在じゃない」
その言葉が、胸の奥に沁みた。
同時に、なぜか少しだけ涙が滲んだ。
「……ありがとう、ございます」
その瞬間、扉が控えめにノックされた。
開けると、そこに立っていたのは――エドワード殿下だった。
衛兵も連れず、一人だけ。
「少し、話をさせてくれないか」
その目には、かつての尊大さはなく、どこか焦りと後悔の色が混じっていた。
カインは私の前に立つようにして、彼をじっと見つめる。
「話なら、俺も同席する」
「……構わない」
殿下はそう言って、静かに頷いた。
部屋の中。
窓から差し込む夕暮れの光が、三人の間に長い影を落とす。
殿下はしばらく沈黙した後、ようやく口を開いた。
「私は……あの日、君を傷つけたことを悔いている」
「……そうですか」
「理由があるんだ。君の父上が援助を打ち切ったとき、王宮は混乱していた。貴族派の圧力が強く、私は――」
「つまり、立場のために私を切り捨てたのですね」
「……そうだ」
あまりにもあっさりと認められて、私は言葉を失った。
殿下は苦しげに顔を伏せた。
「だが、あれから何をしても、君のことが忘れられなかった。君がこの国で英雄に嫁いだと聞いた時、初めて理解したんだ……私は何を失ったのかを」
その言葉に、私はわずかに眉を寄せる。
罪悪感と未練の混じった声。
でも、それは愛ではなく“執着”に近い。
「殿下」
代わりにカインが口を開く。
「それ以上、彼女に過去の傷を思い出させるな。彼女はもう、俺の隣で生きている」
「……君は、本当に彼女を愛しているのか?」
「愚問だ」
短い言葉の中に、確かな熱があった。
殿下が唇を噛み、何も言えなくなる。
私はその横顔を見つめながら、そっと胸の前で手を握りしめた。
――愛している、なんて言葉はまだ聞いたことがない。
けれど、彼の行動がそのすべてを語っている気がした。
殿下が去ったあと、部屋に残ったのは沈黙だけだった。
カインは窓辺に立ち、暮れゆく空を見つめている。
「……怒ってますか?」
「いや。むしろ、スッキリした」
彼が振り返る。
「お前の前では、もう誰も偽れない。あの男も、自分の愚かさを思い知っただろう」
そう言って、彼は少しだけ笑った。
その笑みがあまりにも穏やかで、私は思わず頬を赤らめた。
「……ありがとうございます。ずっと、胸の奥に刺さっていた棘が、やっと取れた気がします」
「なら良かった」
そう言って、彼は私の髪をそっと撫でた。
優しい手のひらが、少しだけ震えているのに気づく。
「カインさん……?」
「……いや、何でもない」
けれど、その視線はどこか遠く、心ここにあらずといった様子だった。
その夜。
私は眠れず、廊下を歩いていた。
ふと、客室の扉の向こうから、カインの声が微かに聞こえる。
「――まだ、隠しておくしかない。彼女には」
え……?
思わず立ち止まり、耳を澄ます。
「はい、国王陛下。……はい、承知しました。正式に発表するのは、彼女との婚約を結んだあとに――」
胸が高鳴る。
陛下? 婚約?
扉が静かに開き、カインが出てきた。
驚いた顔で私を見て、少しだけ苦笑した。
「……聞いていたのか」
「い、いえ、あの、少しだけ……!」
「そうか」
彼は少しの間、何かを考えるように沈黙したあと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「アリア。驚かせるかもしれないが――俺はただの英雄ではない」
「……え?」
「正式には、ルグランの“第一王子”だ」
頭の中が真っ白になった。
英雄。将軍。宿の常連。優しい人。
それが、隣国の王子――?
「王国の政治に関わるため、一兵士として身分を隠していた。だが、そろそろそれも終わりにするつもりだ」
彼の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「アリア、お前に嘘をついていたことだけは謝る」
「……でも、なぜ私なんかに?」
「“なんか”じゃない。俺が選んだのは、お前だ」
その言葉に、胸が熱くなる。
けれど、彼は少しだけ苦笑を浮かべた。
「ただ――王族として、お前を妻に迎えるには、国の承認が要る」
「……承認?」
「ああ。殿下の動きが、その条件に影響を与える。つまり――まだ終わっていない」
そう言って、彼はゆっくりと私の頬に触れた。
「もう一度聞く。俺の隣に立つ覚悟はあるか?」
私は息を呑み、ただ頷くことしかできなかった。
そして――その瞬間、外から遠く、馬蹄の音が響いた。
夜空の下、王国の使者が再び城門を叩く。
新たな“交渉”の火種を抱えて。
彼の手が私の頬から離れた時、静かな声が落ちた。
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