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六章
赤い渦の中で
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はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…。
翔子自身の息遣いが頭の中で反響しています。森の中を走り回ってきた翔子ですから、多少走ったぐらいでは根はあげません。ただ、やっぱり人に追いかけられるのって精神的に辛いよぉ。昨日は逃げきれたし、二人しか追いかけてきてないから今回も「余裕でしょっ!」って思ってたけど甘かったなぁ。右の道に回ろうとしたらヌッて出てくるし、バスに乗ろうとしたら地獄の門番みたいにドーンと構えているし。なんだか頭の中を読まれている感じがして焦りとイライラがどんどん高まっちゃうよ。
そんな危機感があったせいでしょう。つい短絡的な行動に出てしまいました。先に公園が見えたんだけど、大きな公園で奥に林が見えたのです。
(あ、木がいっぱいあるっ!森で遊んできた翔子だもん。木があれば登れるし、隠れられるし!あそこに行きましょ、そうしましょ)
そう思って意気揚々と公園に入って林の方へ走ったのですが。
「…うそでしょ?」
大きなフェンスが翔子を待ち受けていたのです。子供が林の中に入り込まないためのフェンスのようで、見渡す限りグルッと公園の周りを囲っていました。こうなったらフェンスをよじ登って…と思ったんですけど、「動くな!」と怒号が聞こえてきました。振り向いた先には昨日翔子にいちゃもんをつけてきたスーツのおじさん二人が入口をふさいでいました。その手には拳銃。しっかりと翔子の方に向けられているのです。
おじさんたちは肩で息をしながら翔子に語りかけます。
「やっと、追い詰めたか…」
「はあ、はあ、もう、逃げても、無駄、だぞ」
「余計な、手間を、かけさせるんじゃ、ない」
ぜはーぜはーでした。もしかすると頑張れば逃げれるんじゃないかと思ってしまいます。
ただ、翔子がそう思うことはお見通しだったようです。
「逃げようと、思わない、ことだ。今、相棒から、電話が、あった。こちらは、一緒にいた男を、押さえている…」
「え、ヒロスケが?」
頭が真っ白になりました。翔子のせいでヒロスケの友達が撃たれて、それだけでも心がキュッてなっちゃったからこうして逃げてきたのに。翔子のせいでヒロスケまで犠牲になっちゃう。そう考えただけで胸が痛くなってきました。
男の人は翔子が落ち込んでいる間に深呼吸して息を整えます。
「そうだ。俺たちが撃った少年がそのヒロスケとかいうガキの友達だと調べてわかった。彼を撃てば君たちが病院に行くことも予想ができていたことだ。俺たちはお前らのことは何でも知っている。そう、なんでも知っているんだ」
「…そんなぁ」
「君が逃げなければ、俺たちもこんなことをしないですんだんだ」
「関係ない人を巻き込まないでよぉ」
「涙目で訴えてきても無駄だ。里から逃げた時点で我々は君を信用していない。今回のようにお前は逃げた先々で無関係な人を巻き込んでいき、いずれは自分の毒で周りの人間に害を与えていくんだ。我々はそれを阻止するために君たち毒一族を保護し、仕事をあっせんしてきたのだ。確かに結婚相手を勝手に決められるのは若い君には辛いことだろう。だがな、君が幸せに過ごす方法はそれしかないんだ」
「…?一族?お母さんもそうだったの?」
翔子はおじさんから「お母さんが若い頃に死んだ」としか聞いてなかったのでビックリしました。おじさんもおばさんも、お父さんやお母さんのことは一切教えてくれなかったし、翔子自身も両親がいない寂しさを忘れるために「翔子には両親がいない」って言い聞かせてきたんです。まさか、今になってお母さんの話題が出てくるとは思ってもいませんでした。
「そうだ。君のお母さんのことを聞かせてあげてもいい。君の知らないお母さんの姿を聞くことができるだろう」
思わず、この人たちの言葉に従いそうになりました。身よりのない翔子にとって、お母さんという響きはそれだけ翔子の心をひきつけるのです。
それに後悔もありました。なるべく迷惑をかけないって心に決めて里を飛び出してきましたが、お世話になったヒロスケに迷惑をかけちゃったし、無関係だったヒロスケの友達まで巻き込んでしまったのです。翔子は普通の幸せを手にすることはできませんでしたが、これ以上他人を巻き込まずに生きていくにはこの人たちについて行くしかないんだろうなって思ってしまいました。それに逃げようと思っても、どういう仕組みかわからないけど逃げても追いかけられるんだから。
「あーあ。翔子の負けかぁ」
「おっ、ようやく諦めてくれるか」
「うん、仕方ないよね。でも、もうこれ以上ヒロスケたちを巻き込まないで。解放してよ」
「ああ、君がちゃんと協力してくれるとわかったら解放しよう」
「えー。すぐに解放してよ。じゃないと翔子は協力しないっ!」
「そんな強気でいいのか?わかっていると思うが、我々は彼を傷つけることに抵抗はないぞ」
もう完敗。抵抗のしようがありません。非常に残念ですが全てを諦めるしかなさそうです。巻き込んで申し訳ないけど、ヒロスケが無事なら夢を諦めることもしかたありません。ヒロスケが怒ってなければいいけど。
「わかった。言う通りにするよぉ」
「よし、よく決断したな。もうそろそろ相棒がその広助君を連れてくるはずだが」
男の人がそう言った瞬間のことでした。
「もう来ているよ」
声がした方を振り向くと男の人たちの後ろ、公園の入口に進んでくる二人の姿が。後ろに手を結ばれたヒロスケとスーツを着た巨漢がいました。
「ヒロスケー!」
翔子は思わず名前を叫んでしまいます。謝りたい思いと心寂しい気持ちが高まったから大きな声が出てしました。見た目は頼りない彼だけど、一人っきりになった翔子を下心のない無償の愛で助けてくれた、たった一人の味方。彼が傷を負っていないことがたった一つの救いで、彼が優しい笑顔で微笑んでくれたことが数少ない喜びです。
「やあ、翔子ちゃん。乱暴なことをされてない?」
「翔子は大丈夫っ!でも、ごめんなさい。翔子のせいでヒロスケまで捕まって、お友達も…」
「気にしなくていいよ」
その言葉だけが翔子の力は抜けました。
翔子の前に立つおじさんは翔子たちの青春のやり取りが苦手なようで、イライラしながらヒロスケの後ろの人を怒鳴りました。
「宮下っ!早く連れてこいっ」
宮下と呼ばれた男性はヒロスケの背中を乱暴に押します。ちょっと、彼を乱暴に扱わないで。そう言おうとしたその時でした。
(あれ?三人組であんなにでかい人いたっけ?)
翔子もちゃんと自己紹介されたわけではないんですが、三人組の最後の一人はやせ型で頼りがいのない感じの人だったと気がするんです。でもその人は一八〇センチもあるし、スーツを着た姿は今にもはちきれんばかりにパンパン。力こぶを作ったら生地がはじけ飛びそう。そんな人だっけ?
おじさんたちもそのことに気づいたみたいで、なんか戸惑った顔をしています。
「お、おい。ちょっと待てよ。お前、宮下じゃないな」
「お前、誰だよっ」
二人がそう戸惑っているとニセ宮下が笑います。
「あん?お前ら、昨日銃口を向けた相手を忘れたのか?」
そしてヒロスケも笑いました。
「しょうがないよ。今は宮下って人のスーツ着てるし、昨日会った時も夜だったんでしょ。見えなかったんじゃないかな」
どうやらヒロスケと一緒にいる人は昨日撃たれた二木って人のようです。あれ?おかしいな。さっきおじさんたちはヒロスケを捕まえたって言ってたけど違うじゃん!
「ちょっと、おじさんっ!どういうこと?ヒロスケは捕まったんじゃなかったの?」
おじさんたちはオロオロ。
「どういうことだ?」
「いや、さっき電話をかけてきたのは間違いなく宮下だった」
ヒロスケと二木は顔を見合わせてニヤリと笑います。そして二木が腕を組んで勝ち誇ったように笑うのです。
「宮下って人、本当にヤクザか?関節を軽く決めただけで言う通りにあんたらに電話をかけてくれたぜ?」
「「みぃやぁしぃたぁ~」」
二人のおじさんの心の叫びが共鳴して公園中にこだましています。絶望に満ちた声でした。
まさに形勢逆転。二木って男の子はコキコキと手首の関節を鳴らして脅しをかけていきます。
「あとはあんたらをやっつけて警察に突き出してやる」
「翔子ちゃんを解放してもらいますから」
そう言って二人はおじさんたちとにらみ合うのです。
あ、いけない。このおじさん、銃を持ってるっ!
「ダメッ!逃げてぇー」
翔子の声が届きません。おじさんの一人が銃を取り出すのです。そして体の大きな二木の方へ向けました。そのすべてが翔子にはスローモーションに見えたのです。
ああ、またこの人にケガをさせてしまう…。もうイヤだ。翔子のせいで誰かが傷つくなんて…!
そう思った瞬間、翔子の心臓が苦しいくらいに脈を打ったのです。
ドクンッ!
あまりの苦しさに翔子は胸を押さえます。
ドクンッ!!
一瞬にしてアブラ汗が頬を伝いました。
ドックンッ!!!
「ああああああああああああっ!」
耐えられなくて声を荒げた瞬間、まるで全身の皮膚が吹き飛んだような強い痛みと、そして少しだけ悪いものを取り払ったようなすがすがしさが全身を駆け巡ります。その感覚で翔子はわかりました。それは抑えようとしてもとどめることができない濁流のようです。
翔子は悟りました。今までの人生で、一番強い毒をフルパワーで出してしまったんだ、と。
頭が真っ白になって、目の前も真っ白。急にホワイトアウトしたみたいに何も見えなくなったけど、徐々に視界が晴れてきて…。
翔子の目にうつったのは倒れたヒロスケの姿でした。
「ああああああああああああっ!」
僕とゆうじ君が大人二人に立ち向かおうしたその時、翔子ちゃんの悲鳴が公園中に響き渡った。その瞬間、なにが起こったのかはすぐに気づくことができた。翔子ちゃんが毒を出したんだ。だけど、それは昨夜に見たうっすらとした毒じゃなく、そして繁華街で見た紫の霧でもなかった。例えるなら、炎の渦。真っ赤な風が竜巻のように渦を巻いて僕らの元に迫ってきている。あまりの毒毒しさに僕とゆうじ君、そして銃を構えた二人も恐怖に縛り付けられたまま見入ってしまっている。
頬に風を感じたのだけど、その風を受けるとナイフで切り付けられたような痛みが走った。触ってみると実際に血が出たわけではないが腫れたような感触がある。写真で見た、硫酸をかけられた痕に似ていた。
「ゆうじ君!離れて」
振り返ってそう叫んだけど、彼は驚きのあまり足がすくんでいるようだ。まるで狼を前にした小鹿のようだ。このままでは彼まで巻き込まれてしまう。そう思った僕は彼に駆け寄って、思いっきり彼を突き飛ばした。ゆうじ君は重たいけれど、上手い具合にバランスを崩してケンケンをしながら五メートル先に倒すことができた。これだけ離れればきっと害も少ないと思うと安堵でため息が出る。
ただ残念ながら僕は自分の身を守れそうにない。赤い渦は猛スピードで広がりを見せ、一気に僕の体を包み込んできた。いっきに全身が炎に包まれたように激しい痛みに襲われる。
(これ、死ぬのかな?)
人は死ぬ前に走馬灯を見るというけれど、僕の場合は自分が死んだあとの心配が一瞬にして脳裏を過った。
僕が死んでしまったら、きっと姫子さんは泣いてしまうだろう。サバサバしていて自分勝手に見られがちなヤンチャな姉だけど、仲間だと思ったら赤の他人でも身内のようにかわいがる人だ。姫子さんは僕と仲良くなりたがっていたから、死んでしまったらきっと両親よりも悲しんでしまうだろうな。
ゆうじ君もきっと悲しんでくれるはずだ。なぜかはわからないけれど、ゆうじ君は同級生のくせに僕を弟のように扱うことがある。ほぼ一人っ子だった僕にとってはそれがありがたくて、ちょっとだけうっとおしかった。そんなに気にかけてくれる彼だから、彼の代わりに僕が死んだと思ってしまうかもしれない。それは申し訳ないことだ。
他の人はどうだろう。二・三人くらいは仲がいい友達はいるけど、悲しんでくれる人は少なそうだ。たぶん二日後に忘れられている自信がある。そしてそれは両親も同じだ。お母さんは親権をはく奪されたことを怒っていて、二年がたった今でも着信拒否されていた。お父さんは昨年離婚と同時期に結婚していて、すでに新しい奥さんがいるはずだからお葬式にも来てくれないだろうな。あまり悲しくないけど、それが逆に悲しい気がする。
自分の死を悲しむ気持ちがあまり湧かないけれど、その分一番心配なのは知り合ったばかりの翔子ちゃんだった。昨夜、自ら指を切って毒を出してみせた翔子ちゃんの表情は孤独に満ちていたと思う。きっと彼女は自分の体質を呪われたものだと思っているのだろう。
「自分を受け入れてくれる人なんていない」
そんな思いに苛まれているに違いない。迷惑はかけたくないから拒絶されてもいいように、わざわざ僕たちの前で毒を出してみせたのだと思う。僕と姫子さんはそんな彼女を受け入れた。それは翔子ちゃんにとって救いになったのかもしれないけれど、ここで僕が死んでしまったら…。翔子ちゃんは絶望してしまうんじゃないかな。
それは新しい人生を歩み始めた彼女には残酷すぎた。僕はなんとしても生き抜かないといけないのだけど、残念ながら毒に抗うことはできないようだ。毒は向けられた拳とは違っていて、歯を食いしばっても肌が痛いし、鼻が入ってくる刺激がどんどん意識を奪っていく。
ドサッ。自分の倒れる音が耳に届いた。足の力が抜けたことに意識もなかったので倒れたことに驚いてしまう。力が入らないので体を起こすこともできず、全身に走る痛みが僕の意識を奪っていった。痛みに晒されたのはほんの数秒だったと思う。ようやく僕に向けられた毒の攻撃が止み、全身の力みが抜けた。安堵すると意識が一気に暗黒に染まっていく。
薄れていく意識の中で、「ヒロスケ!ヒロスケ!」と僕を呼ぶ声が聞こえた。
僕は翔子ちゃんに気丈にふるまおうと手をあげる。
「大丈夫、大丈夫だよ」
そう声に出したつもりだけど、翔子ちゃんに届いているかわからない。少なくとも僕の耳には届かなかった。そして気を抜いた瞬間、僕は真っ暗な世界へ落ちていった。
翔子自身の息遣いが頭の中で反響しています。森の中を走り回ってきた翔子ですから、多少走ったぐらいでは根はあげません。ただ、やっぱり人に追いかけられるのって精神的に辛いよぉ。昨日は逃げきれたし、二人しか追いかけてきてないから今回も「余裕でしょっ!」って思ってたけど甘かったなぁ。右の道に回ろうとしたらヌッて出てくるし、バスに乗ろうとしたら地獄の門番みたいにドーンと構えているし。なんだか頭の中を読まれている感じがして焦りとイライラがどんどん高まっちゃうよ。
そんな危機感があったせいでしょう。つい短絡的な行動に出てしまいました。先に公園が見えたんだけど、大きな公園で奥に林が見えたのです。
(あ、木がいっぱいあるっ!森で遊んできた翔子だもん。木があれば登れるし、隠れられるし!あそこに行きましょ、そうしましょ)
そう思って意気揚々と公園に入って林の方へ走ったのですが。
「…うそでしょ?」
大きなフェンスが翔子を待ち受けていたのです。子供が林の中に入り込まないためのフェンスのようで、見渡す限りグルッと公園の周りを囲っていました。こうなったらフェンスをよじ登って…と思ったんですけど、「動くな!」と怒号が聞こえてきました。振り向いた先には昨日翔子にいちゃもんをつけてきたスーツのおじさん二人が入口をふさいでいました。その手には拳銃。しっかりと翔子の方に向けられているのです。
おじさんたちは肩で息をしながら翔子に語りかけます。
「やっと、追い詰めたか…」
「はあ、はあ、もう、逃げても、無駄、だぞ」
「余計な、手間を、かけさせるんじゃ、ない」
ぜはーぜはーでした。もしかすると頑張れば逃げれるんじゃないかと思ってしまいます。
ただ、翔子がそう思うことはお見通しだったようです。
「逃げようと、思わない、ことだ。今、相棒から、電話が、あった。こちらは、一緒にいた男を、押さえている…」
「え、ヒロスケが?」
頭が真っ白になりました。翔子のせいでヒロスケの友達が撃たれて、それだけでも心がキュッてなっちゃったからこうして逃げてきたのに。翔子のせいでヒロスケまで犠牲になっちゃう。そう考えただけで胸が痛くなってきました。
男の人は翔子が落ち込んでいる間に深呼吸して息を整えます。
「そうだ。俺たちが撃った少年がそのヒロスケとかいうガキの友達だと調べてわかった。彼を撃てば君たちが病院に行くことも予想ができていたことだ。俺たちはお前らのことは何でも知っている。そう、なんでも知っているんだ」
「…そんなぁ」
「君が逃げなければ、俺たちもこんなことをしないですんだんだ」
「関係ない人を巻き込まないでよぉ」
「涙目で訴えてきても無駄だ。里から逃げた時点で我々は君を信用していない。今回のようにお前は逃げた先々で無関係な人を巻き込んでいき、いずれは自分の毒で周りの人間に害を与えていくんだ。我々はそれを阻止するために君たち毒一族を保護し、仕事をあっせんしてきたのだ。確かに結婚相手を勝手に決められるのは若い君には辛いことだろう。だがな、君が幸せに過ごす方法はそれしかないんだ」
「…?一族?お母さんもそうだったの?」
翔子はおじさんから「お母さんが若い頃に死んだ」としか聞いてなかったのでビックリしました。おじさんもおばさんも、お父さんやお母さんのことは一切教えてくれなかったし、翔子自身も両親がいない寂しさを忘れるために「翔子には両親がいない」って言い聞かせてきたんです。まさか、今になってお母さんの話題が出てくるとは思ってもいませんでした。
「そうだ。君のお母さんのことを聞かせてあげてもいい。君の知らないお母さんの姿を聞くことができるだろう」
思わず、この人たちの言葉に従いそうになりました。身よりのない翔子にとって、お母さんという響きはそれだけ翔子の心をひきつけるのです。
それに後悔もありました。なるべく迷惑をかけないって心に決めて里を飛び出してきましたが、お世話になったヒロスケに迷惑をかけちゃったし、無関係だったヒロスケの友達まで巻き込んでしまったのです。翔子は普通の幸せを手にすることはできませんでしたが、これ以上他人を巻き込まずに生きていくにはこの人たちについて行くしかないんだろうなって思ってしまいました。それに逃げようと思っても、どういう仕組みかわからないけど逃げても追いかけられるんだから。
「あーあ。翔子の負けかぁ」
「おっ、ようやく諦めてくれるか」
「うん、仕方ないよね。でも、もうこれ以上ヒロスケたちを巻き込まないで。解放してよ」
「ああ、君がちゃんと協力してくれるとわかったら解放しよう」
「えー。すぐに解放してよ。じゃないと翔子は協力しないっ!」
「そんな強気でいいのか?わかっていると思うが、我々は彼を傷つけることに抵抗はないぞ」
もう完敗。抵抗のしようがありません。非常に残念ですが全てを諦めるしかなさそうです。巻き込んで申し訳ないけど、ヒロスケが無事なら夢を諦めることもしかたありません。ヒロスケが怒ってなければいいけど。
「わかった。言う通りにするよぉ」
「よし、よく決断したな。もうそろそろ相棒がその広助君を連れてくるはずだが」
男の人がそう言った瞬間のことでした。
「もう来ているよ」
声がした方を振り向くと男の人たちの後ろ、公園の入口に進んでくる二人の姿が。後ろに手を結ばれたヒロスケとスーツを着た巨漢がいました。
「ヒロスケー!」
翔子は思わず名前を叫んでしまいます。謝りたい思いと心寂しい気持ちが高まったから大きな声が出てしました。見た目は頼りない彼だけど、一人っきりになった翔子を下心のない無償の愛で助けてくれた、たった一人の味方。彼が傷を負っていないことがたった一つの救いで、彼が優しい笑顔で微笑んでくれたことが数少ない喜びです。
「やあ、翔子ちゃん。乱暴なことをされてない?」
「翔子は大丈夫っ!でも、ごめんなさい。翔子のせいでヒロスケまで捕まって、お友達も…」
「気にしなくていいよ」
その言葉だけが翔子の力は抜けました。
翔子の前に立つおじさんは翔子たちの青春のやり取りが苦手なようで、イライラしながらヒロスケの後ろの人を怒鳴りました。
「宮下っ!早く連れてこいっ」
宮下と呼ばれた男性はヒロスケの背中を乱暴に押します。ちょっと、彼を乱暴に扱わないで。そう言おうとしたその時でした。
(あれ?三人組であんなにでかい人いたっけ?)
翔子もちゃんと自己紹介されたわけではないんですが、三人組の最後の一人はやせ型で頼りがいのない感じの人だったと気がするんです。でもその人は一八〇センチもあるし、スーツを着た姿は今にもはちきれんばかりにパンパン。力こぶを作ったら生地がはじけ飛びそう。そんな人だっけ?
おじさんたちもそのことに気づいたみたいで、なんか戸惑った顔をしています。
「お、おい。ちょっと待てよ。お前、宮下じゃないな」
「お前、誰だよっ」
二人がそう戸惑っているとニセ宮下が笑います。
「あん?お前ら、昨日銃口を向けた相手を忘れたのか?」
そしてヒロスケも笑いました。
「しょうがないよ。今は宮下って人のスーツ着てるし、昨日会った時も夜だったんでしょ。見えなかったんじゃないかな」
どうやらヒロスケと一緒にいる人は昨日撃たれた二木って人のようです。あれ?おかしいな。さっきおじさんたちはヒロスケを捕まえたって言ってたけど違うじゃん!
「ちょっと、おじさんっ!どういうこと?ヒロスケは捕まったんじゃなかったの?」
おじさんたちはオロオロ。
「どういうことだ?」
「いや、さっき電話をかけてきたのは間違いなく宮下だった」
ヒロスケと二木は顔を見合わせてニヤリと笑います。そして二木が腕を組んで勝ち誇ったように笑うのです。
「宮下って人、本当にヤクザか?関節を軽く決めただけで言う通りにあんたらに電話をかけてくれたぜ?」
「「みぃやぁしぃたぁ~」」
二人のおじさんの心の叫びが共鳴して公園中にこだましています。絶望に満ちた声でした。
まさに形勢逆転。二木って男の子はコキコキと手首の関節を鳴らして脅しをかけていきます。
「あとはあんたらをやっつけて警察に突き出してやる」
「翔子ちゃんを解放してもらいますから」
そう言って二人はおじさんたちとにらみ合うのです。
あ、いけない。このおじさん、銃を持ってるっ!
「ダメッ!逃げてぇー」
翔子の声が届きません。おじさんの一人が銃を取り出すのです。そして体の大きな二木の方へ向けました。そのすべてが翔子にはスローモーションに見えたのです。
ああ、またこの人にケガをさせてしまう…。もうイヤだ。翔子のせいで誰かが傷つくなんて…!
そう思った瞬間、翔子の心臓が苦しいくらいに脈を打ったのです。
ドクンッ!
あまりの苦しさに翔子は胸を押さえます。
ドクンッ!!
一瞬にしてアブラ汗が頬を伝いました。
ドックンッ!!!
「ああああああああああああっ!」
耐えられなくて声を荒げた瞬間、まるで全身の皮膚が吹き飛んだような強い痛みと、そして少しだけ悪いものを取り払ったようなすがすがしさが全身を駆け巡ります。その感覚で翔子はわかりました。それは抑えようとしてもとどめることができない濁流のようです。
翔子は悟りました。今までの人生で、一番強い毒をフルパワーで出してしまったんだ、と。
頭が真っ白になって、目の前も真っ白。急にホワイトアウトしたみたいに何も見えなくなったけど、徐々に視界が晴れてきて…。
翔子の目にうつったのは倒れたヒロスケの姿でした。
「ああああああああああああっ!」
僕とゆうじ君が大人二人に立ち向かおうしたその時、翔子ちゃんの悲鳴が公園中に響き渡った。その瞬間、なにが起こったのかはすぐに気づくことができた。翔子ちゃんが毒を出したんだ。だけど、それは昨夜に見たうっすらとした毒じゃなく、そして繁華街で見た紫の霧でもなかった。例えるなら、炎の渦。真っ赤な風が竜巻のように渦を巻いて僕らの元に迫ってきている。あまりの毒毒しさに僕とゆうじ君、そして銃を構えた二人も恐怖に縛り付けられたまま見入ってしまっている。
頬に風を感じたのだけど、その風を受けるとナイフで切り付けられたような痛みが走った。触ってみると実際に血が出たわけではないが腫れたような感触がある。写真で見た、硫酸をかけられた痕に似ていた。
「ゆうじ君!離れて」
振り返ってそう叫んだけど、彼は驚きのあまり足がすくんでいるようだ。まるで狼を前にした小鹿のようだ。このままでは彼まで巻き込まれてしまう。そう思った僕は彼に駆け寄って、思いっきり彼を突き飛ばした。ゆうじ君は重たいけれど、上手い具合にバランスを崩してケンケンをしながら五メートル先に倒すことができた。これだけ離れればきっと害も少ないと思うと安堵でため息が出る。
ただ残念ながら僕は自分の身を守れそうにない。赤い渦は猛スピードで広がりを見せ、一気に僕の体を包み込んできた。いっきに全身が炎に包まれたように激しい痛みに襲われる。
(これ、死ぬのかな?)
人は死ぬ前に走馬灯を見るというけれど、僕の場合は自分が死んだあとの心配が一瞬にして脳裏を過った。
僕が死んでしまったら、きっと姫子さんは泣いてしまうだろう。サバサバしていて自分勝手に見られがちなヤンチャな姉だけど、仲間だと思ったら赤の他人でも身内のようにかわいがる人だ。姫子さんは僕と仲良くなりたがっていたから、死んでしまったらきっと両親よりも悲しんでしまうだろうな。
ゆうじ君もきっと悲しんでくれるはずだ。なぜかはわからないけれど、ゆうじ君は同級生のくせに僕を弟のように扱うことがある。ほぼ一人っ子だった僕にとってはそれがありがたくて、ちょっとだけうっとおしかった。そんなに気にかけてくれる彼だから、彼の代わりに僕が死んだと思ってしまうかもしれない。それは申し訳ないことだ。
他の人はどうだろう。二・三人くらいは仲がいい友達はいるけど、悲しんでくれる人は少なそうだ。たぶん二日後に忘れられている自信がある。そしてそれは両親も同じだ。お母さんは親権をはく奪されたことを怒っていて、二年がたった今でも着信拒否されていた。お父さんは昨年離婚と同時期に結婚していて、すでに新しい奥さんがいるはずだからお葬式にも来てくれないだろうな。あまり悲しくないけど、それが逆に悲しい気がする。
自分の死を悲しむ気持ちがあまり湧かないけれど、その分一番心配なのは知り合ったばかりの翔子ちゃんだった。昨夜、自ら指を切って毒を出してみせた翔子ちゃんの表情は孤独に満ちていたと思う。きっと彼女は自分の体質を呪われたものだと思っているのだろう。
「自分を受け入れてくれる人なんていない」
そんな思いに苛まれているに違いない。迷惑はかけたくないから拒絶されてもいいように、わざわざ僕たちの前で毒を出してみせたのだと思う。僕と姫子さんはそんな彼女を受け入れた。それは翔子ちゃんにとって救いになったのかもしれないけれど、ここで僕が死んでしまったら…。翔子ちゃんは絶望してしまうんじゃないかな。
それは新しい人生を歩み始めた彼女には残酷すぎた。僕はなんとしても生き抜かないといけないのだけど、残念ながら毒に抗うことはできないようだ。毒は向けられた拳とは違っていて、歯を食いしばっても肌が痛いし、鼻が入ってくる刺激がどんどん意識を奪っていく。
ドサッ。自分の倒れる音が耳に届いた。足の力が抜けたことに意識もなかったので倒れたことに驚いてしまう。力が入らないので体を起こすこともできず、全身に走る痛みが僕の意識を奪っていった。痛みに晒されたのはほんの数秒だったと思う。ようやく僕に向けられた毒の攻撃が止み、全身の力みが抜けた。安堵すると意識が一気に暗黒に染まっていく。
薄れていく意識の中で、「ヒロスケ!ヒロスケ!」と僕を呼ぶ声が聞こえた。
僕は翔子ちゃんに気丈にふるまおうと手をあげる。
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