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第二章 妃選び
57.悪臭(1)
しおりを挟む「えっ?」
使用人寮で食事をしていたミモザは、きょとんとして同期のアリーサとジェンを見た。
バラガン伯爵との一件の後、王都の結界も修復され、今まで通りの日常が戻って来ていた。妃選びも元のようにガーディアが不在の茶会や晩餐が中心となっており、夜会などまるでなかったかのようだった。もっとも、ミモザの知らないところでは魔獣族への対応などもあったようだが。
シシー・バラガンはすっかり大人しくなっていた。同じベライドの王女であるローズが睨みをきかせているのはもちろん、夜会での彼女の言動があまりに不快だったからかイシルマリのリリアナからも冷たい視線を向けられている。更には王宮で働く魔獣族も彼女への怒りを抱えたままだ。その状況で、今まで通りの態度なんてとてもとれないのだろう――ミモザに対しては時折恨みのこもった視線を向けてくるが。
妃選びのことよりも行方不明者の話のことが気になるが、そのことはあくまでただの使用人であるミモザには情報が入っていない。たしかに関係ないことではあるけれど、どうなったか知りたかった。
シトロンから聞いた話だとベレナングレンは自分が不在の間に勝手にはじめられていたこの妃選びをできるだけ早く終わらせたいらしく動きはじめたようだ。しかしやるべきことが多いようで、すぐには終わらないだろうとも言っていた。
同じ時に使用人として採用された洗濯係で人魚のアリーサとティンクと同じ妖精で庭仕事などの担当をしているジェンは好奇心に満ちた瞳でミモザを見つめていた。ちょうど昼食を食べている時だった。二人はミモザが座っている席の目の前に座り、最近耳にしたという噂話を口にしたのだ。
まさに寝耳に水だった。
「夜会が終わった後くらいから噂になっているの、知らなかった?」
ミモザの反応にアリーサと顔を見合わせたジェンが言った。
「お妃さまに選ばれるのはミモザだって……」
「し、知らない……妃選びで誰が選ばれるかなんて、まだ話も出てないのに」
「そうなの? じゃあ、噂は噂かぁ」
言われてみれば確かに最近こうして寮で過ごしているとちらちらと視線を感じた。その噂のせいだったのか……もしかして夜会の翌日にガーディアに星宮に連れていかれたのを誰かに見られていたのだろうか? あまり広まらないようにしたい。否定しすぎるとガーディアの耳に入って彼が気にしてしまいそうだけれど。
ガーディアは噂を知っているのだろうか?
***
冷えた空気が肌を裂くようだ。建物内は魔法のおかげで温かくなっているが、外はそうもいかない。シトロンは冷気を遮断するための魔法を自身にかけることもできたがあまり好んではいなかったので使わずに、少しだけ厚着をしてベレナングレンを捜していた。
使用人たちが掃除をしたり庭の手入れをしたりしているのとすれ違いながらベレナングレンの気配とニオイを捜すがこの近くにはいないようだ。冷たくなった鼻先をこすってはぁと息を吐くと、少しだけ白く染まる。
「シトロン」
同時に声をかけられて振り返ると吐いた息と同じ白が目に入った。
「キャロック様」
肌も髪も白く、瞳も薄灰色のようでほとんど白かった。遠くからだと一つの岩か枯れ木のようにも見える。身にまとったボロのような白い衣装が風に揺れてそれがかろうじて彼が人型をしているのだと離れたところからでも理解させた。
不老不死の者の一人であるキャロックは穏やかに微笑み、シトロンに歩み寄った。「大きくなったね」と言うやさしい声にシトロンは少し困った顔をした。
「そう変わってないと思いますが……」
シトロンは不老不死の者たちの中でキャロックにだけ数回会ったことがあった。一度目はシトロンを拾ってくれた聖女――この国のかつての王妃で、ミモザの前世だ――が亡くなったすぐ後なので百年以上前だが、次はガーディアと彼女の娘であるアルティナが亡くなった時だから十年前だ。彼はアルティナが亡くなった時は何度かガーディアの様子を見に来ていたのでそのたびにシトロンも顔を合わせていた。
ガーディアを昔から知っているらしいキャロックは、シトロンのことも息子か孫のように思っていた。しかし十年くらいではシトロンもそう姿かたちが変わるわけではない。彼は魔力が多いので、この頃はもうかなり成長が遅くなっていた。魔力が多く、寿命が長い魔族はある程度の年齢まで成長すると年を取るのが遅くなっていくのだ。
「シトロンも散歩かい?」
キャロックはあまり気にせずシトロンにたずねた。彼はどうやら散歩をしていたらしい。王都の結界を修復してからも不老不死の者たちは滞在をつづけているが、基本的には暇そうにしている。
「いえ、ベレナングレン様を捜しているんです。陛下が呼んで来いって……」
「ベレナングレンならさっき見かけたよ」
「どこでですか?」
「向こうの庭園で、使用人頭の――彼は何という名前だったかな? 千里眼の……」
「パランティアさんですか?」
「そう、彼と一緒にいたよ」
キャロックの視線がすぐそばにある広葉樹に向けられた。
「クモの巣が多いのを気にしていたな……それにしても酷い臭いだ」
「臭い?」
狼の魔獣族であるシトロンは鼻がいい。しかし気になる臭いはしなかった。魔力などのニオイでもかぎわける自信はあるが、そんなに気になるものはない。首を傾げるシトロンに、キャロックは考え込むような顔をした。
「シトロンにはわからないのか……」
「何の臭いなんですか?」
「……どうだろう? それよりも、どうしてガーディアはベレナングレンを?」
「えっ? いえ、わかりません……でも機嫌が悪くて……」
「それは――噂のせいかな?」
「噂?」
「使用人の子がそこで話していたよ」と、キャロックが話した内容はシトロンもまだ耳に入っていないことだった。
***
「どういうことだ?」
ベレナングレンが帰ってきて久しぶりに使われるようになったガーディアの執務室に冷たい声が響いた。彼の機嫌は時間がたって悪化したらしい。この部屋を出る前はどうしてガーディアの機嫌が悪くなったのかシトロンにはわからなかったが、庭で出会ったキャロックとの会話でなんとなくその理由を想像できた。どうしてベレナングレンを呼び出したのかも。
ベレナングレンが帰って来てからシトロンはベレナングレンの代わりとばかりに押し付けられていた仕事から解放され、本来の仕事――ガーディアの秘書官に集中できるようになった。秘書官の仕事は主にガーディアの国王としての仕事――書類仕事から来客や視察まで――の予定を組み、管理することと、幼い頃に名目上の従者としてやっていた身の回りの世話だった。
この数年間、ベレナングレンの代理のような扱いだったのは肝心のガーディアが引きこもっていて秘書官としてはまあまあ暇だったので駆り出されたのだが、実際に押し付けられる仕事の量は空いた時間でできるような量ではなかったため必要以上に忙しい状態がつづいていた。やっと落ち着いた生活に戻ることができたのだ。
今朝はいつも通りガーディアと朝食をとり、午前中は穏やかに過ごしていた。しかし昼過ぎに――その直前、ガーディアの執務室にはザルガンドで一番の商業の街である貝殻の泉に繋がる街道のことで宰相府の文官たちが出入りしていた――ガーディアから呼び出され、ベレナングレンを呼んでくるように告げられた。
ガーディアは明らかに機嫌が悪く、シトロンは耳が下がりそうだったのをこらえてすぐに宰相を呼びに行った。ベレナングレンを恐れてはいるが、ガーディアを怒らせるわけにもいかなかった。
執務室の隅で控えながら、シトロンはガーディアとベレナングレンの様子を見守っていた。ガーディアがどれだけいら立っていてもベレナングレンは涼しい顔をしている。ガーディアの問いに「何のことです?」と白々しくも聞き返した。
「噂のことだ……! 俺が妃選びでミモザを選ぶと噂を流したのはお前だろう!?」
「流してませんよ。元々あった噂を煽っただけです。あなたが不用意にあの娘を星宮に連れて行ったのが悪かったのでは?」
反論できず、ガーディアはうなった。
「まあいいのではないですか? どうせあなたが選ぶのはあの娘なのだから噂くらい――」
「妃選びでは俺は誰も選ぶつもりはない」
「えっ」とシトロンが思わず声を上げた。
「元々ドゥーイの提案に乗っただけだ。何か動きを見せるかと思ったが……とにかく、ミモザとのことは……別の問題だ。誰にも口出しはさせない。勝手に煽ったならお前が噂をどうにかしろ」
「嫌ですよ」
ベレナングレンが眉をひそめた。
「私は忙しいんです。あなた自身がどうにかすればいいでしょう?」
「俺だって忙しい」
「あなたが私ほど忙しいかは知りませんが」
「気にするべきことがある、という話だ」
ガーディアの金色の瞳が赤く揺らめきながらシトロンに向けられた。
「お前はどう思う? シトロン、最近あちこちでしている臭いのことを」
「臭い?」
「なんだ? 気づいていないのか……」
シトロンは目を丸くした。
「たぶんクモの巣だな。ちゃんと確かめたわけじゃないが……」
「クモの巣ならひどく増えていて片づけるのに大変だとパランティアが言うので様子を見てきましたよ。確かに増えていましたが」
ザルガンドに帰って来てからベレナングレンは使用人頭のパランティアに何度か王宮内のあちこちにクモの巣が増えていて掃除に追われていると報告を受けていた。パランティアが何でもないことをそう何度も報告するとは思えないので、状況を確認してきたのだ。確かに異常に多かったが季節的にも家主である蜘蛛の姿はなく巣だけ残っている状態で、除去には手間がかかりそうだが他に問題はなかった。
「クモの巣って臭うものですか?」
「……どうだろうな」
「どうだろうなって……」
「陛下だけが気づいているなら魔力のニオイでは? 我々には感じないほど微量のものなら陛下だけが気づいているのもおかしくはありません」
「魔力のニオイとも違う気がする……」
考え込むようにガーディアは口を閉じた。
「そういえば、さっき庭でキャロック様に会ったんですが、キャロック様も何か酷い臭いがするって……何の臭いかは言ってませんでしたが、クモの巣のことだったのかも……」
「キャロックが?」
ガーディアが反応した。
「それなら……いや、だが……」
「何かあるんですか?」
「わからない。キャロックと話してくる。ベレナングレン、これ以上ミモザとのことの噂を煽るなよ」
ガーディアは立ち上がり、すぐに執務室を出て行ってしまった。釘を刺されたベレナングレンは大きくため息を吐いたのだった。
***
茶会などがない日はやることがない――もともとそうだったのだが、改めて実感した。少し前まで夜会のために従兄とその妻が滞在していたため話し相手をしてくれていたのでその反動もあり、従兄である伯爵夫妻が帰国してしまえば日々はこんなに退屈だったのかとリリアナはため息をついた。そもそも、滞在が長引きすぎているのだ。
外は冷えるので部屋にこもっていたが気が滅入ってきそうだったので、リリアナはわがままを承知で散歩に行くことにした。そういえば、自由に出入りしていいと許可を得ていた図書館にはほとんど足を運んでいないから行ってみるのもいいかもしれない。
侍女たちはリリアナをしっかりと厚着させ、せっかくだからとこの国で買ったばかりの防寒具をおろした。毛織物のケープは手触りもよく、軽くて、しっかりと温かい。飾りは特になくシンプルな作りだがやわらかな木製のボタンのデザインが凝っていて美しく、リリアナはとても気に入っていた。
他の候補者たちはこういう日、どう過ごしているのだろうか? 今までは気にもしていなかったが、リリアナはふと考えた。アンナベルは王都に実家があるらしいので帰宅しているのかもしれない。軍人であるロスソニエルやミモザという使用人の娘は本来の仕事をしているのだろう。自分と同じように他国からきたローズやマリエルはどうなのだろうか?
「あら、リリアナ王女殿下」
どこかまとわりつくような声に顔を上げると、リリアナと同じように侍女たちを連れたローズちょうど前方から歩いてきたところだった。彼女もまた防寒具を身にまとっていたが反対側から来たということは散歩でもしてきてこれから部屋に戻るところなのだろう。
当たり障りなくあいさつをし、当たり障りなく会話をした。リリアナもローズもお互いのことが好きではなかったが、一国の王女である以上いくらでも外面をとりつくろうことはできた。もっとも、ローズの方が多少は感情的な側面が強かったが。
「こうも退屈ですと寒くても外に行きたくなるものですわ」とローズは言った。国にいる時は、少しでも冷えると部屋にこもっていたくなった。それにはリリアナも同意できた。
「トロストのフォレスト公爵令嬢は図書館に通いつめているようですけれど」
マリエルは時間がある時はほとんど図書館にいるらしい。時間を持て余しているのは自分とローズだけなのだと気づき、リリアナはなんとも言えない気持ちになった。
イシルマリでは公務などもあり忙しく、自分の時間は少なかったと思う。しかしこうしていると何か少しの時間でもできるような趣味を作っておくべきだったのかもしれない。
「部屋でゆっくりしますわ」と仕方なさそうにローズが言って会話は終わった。リリアナはほとんど相槌をうっていただけだが。図書館にはマリエルがいるのだろうか? もしいたら、何かおもしろい本がないか聞いてみるのもいいかもしれない……こういう時間の過ごし方を知りたかった。
「そういえば噂はご存知?」
すれ違う時に「そうそう」と思い出したかのようにローズが言った。
「噂?」
「ザルガンドの国王陛下は妃選びであの使用人の娘を選ぶと噂になっているそうですわ。わたくしたちを差し置いて――」
夜の闇に似た美しい黒が脳裏を過った。振り返ってローズの顔を見ているはずなのに、彼女がどんな顔をしているのかリリアナの目には入らなかった。思わずこぼれた「えっ」という言葉は、今まで彼女が人前で落としたことのないような音をしていた。
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