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拾陸、謝漣華は告白される。
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ここのところ、漣華は多忙を極めている。
あれほどに難物だと思っていた近衛府の発注はあっさりと片が付き、次回の発注以降の事を考えて砲を作る為の合金の割合などの冶金技術や火薬の合成などに研究費を大きく割くことになった。
その代わり、しばらくは後宮で使われる諸々のものはどうせ喪中なので自粛されるから、そこに予算を割く必要はない。
日々の暮らしの中で使う予算も、後宮で使われる贅沢品に割かせるつもりは毛頭なかった。
そしてそれは瑯炎が退職する前にそのように手配を済ませていた為、特に混乱もなく受け入れられている。
その部分については非常に助かったと漣華は今では行方不明となった元師匠に心の中で手を合わせた。
「漣華どの」
漣華を訪ねて、礼記が今日も工房へ顔を出す。
ここのところ毎日のように訪ねてくるが、どうも先だっての発注の件ではないらしい。
日々にこやかに応対して、時にはお茶を飲みながら雑談し、時には碁などを打っている。
今日は何だろうか。
「礼記さま。ようこそ」
漣華は礼記に椅子を勧め、自らもその前に座る。
この応接用の家具は非常に便利で、低めの卓を囲うように長椅子と一人掛け用の椅子がある。
部屋の隅に控えていた技官見習いにである弟子が既にお茶の支度をして茶菓子も持ってきていた。
礼を言って下がるように言うと、わずかに逡巡しながらも部屋を下がる。
それに若干疑問を抱きながらも、漣華は礼記と相対した。
「お久しぶりですね」
礼記はどこか眩しそうに漣華を見る。
「そうですね。でも十日ほど前にお目に掛かったばかりのような気も致しますが」
漣華が笑いながら返すと、礼記ははにかむようにして笑う。
どうかしたのだろうかと思いながらも、毒見の為にひと口含んでから茶を勧める。
今日は白毫産の茶葉だろうか。
発酵はそれほどではないが、発酵の浅い茶葉特有の爽やかな香気が鼻を抜けた。
茶菓子は最近流行の、豆を甘く煮て濾してから牛乳を加えて更に煮詰めたものを餡にして、小麦で作った皮に詰めて焼き上げたものだ。
甘さの中に牛乳由来のまろやかさがあり、漣華は最近はもっぱらこればかりだ。
他に乳酪をたっぷりと使って焼いた焼き菓子も並んでいる。
漣華は元々が遊牧民の出だという事で、乳製品であったり肉であったりはなじみが深い。
延琉に来てからは野菜や果物を食べるようになったが、魚を見た時はびっくりしたものだ。
泉には、魚は居なかったから。
延琉を流れる蘆河の流れには海豚の姿も見える。
時には鰐が中州で腹ばいになって寝そべっているのも見かけたりもする。
蘆河は大きな河川で延琉の傍を流れているが、時たま河川敷で土や砂が流れに呑みこまれるため、そこまで街と接近しているわけではない。
街に水路を掘り、水を引き込んで運搬の手段として使っている。
その為の大型の貨物船であったり手漕ぎの小舟があちこちに行き交い、また小舟の上で売り買いをしている姿も良く見受けられる光景だ。
「漣華どの」
意識が散歩に行っていたのがばれたのか、何度か呼びかけられたらしい。
気まずさに視線を彷徨わせながら、礼記に応えを返す。
「なんでしょう? 」
礼記といつもここでお茶を楽しんだり、時には囲碁を打ったりするのだが、今日はそんな雰囲気ではない。
何となくだが、何かを決意したような。
「漣華どの」
「はい?」
礼記が再び名を呼ぶのを不審に思いながら返事を返す。
一体何事なのか。
「今度のお休みは何時でしょう? 」
漣華は面食らった。
休み?
頭の中で、先日組んだばかりの勤務表を頭に思い浮かべる。
ちょうど三日後がその休みに当たる。
その辺りに、謝家の家内で行われる内々の行事があるので呼ばれているのだ。
ちょうど休みを取らねばならないほどに有休も溜まっているから、その日と合わせて数日間の休暇を申請している。
現在の瑯炎の私邸から暫く行ったところに謝家の本家があり、そこの家刀自が誕生日なのだと言う。
一応当主の養子として名を連ねてもらっているから、挨拶ぐらいはしておかねばなるまいと休みを取ったのだ。
「その日、私も休みなのです。良ければどこかに出かけませんか」
礼記はにこやかに、だがどこか強張ったような笑顔を向けてくる。
内心首を傾げながら、漣華は頭の中でざっと予定を確認して頷く。
「この日は、謝家の祝い事があるので行かなくてはならないのですけれど、この日であれば」
あの口うるさいおばば様の誕生日などでなければ、いやいや赴くこともないのだろうけれどもあの謝家も実際にはああだこうだ言いながらも漣華をそれなりに可愛がってくれている。
一族の末席とは言え、受け入れてくれたわけだし。
その日はどうせ朝からみなでどんちゃん騒ぎになるだろうから、翌日は二日酔いで多分動けない。
それならば前日に取った休みの日に礼記と出かけた方がいいだろう。
「失礼ですが、この日は?」
礼記は不思議そうに問う。
「家刀自さまのお誕生日なのです。一応、謝家の末席に居るものですから、年に一度くらいは顔を出さないと申し訳が立たなくて」
もし何らかの理由で欠席なぞすればなんやかや理由を付けて向こうの義兄や義弟などがやってきて連れていかれてしまうにちがいない。
漣華はむかしそれを一度やらかしてもう二度と欠席なぞするものか! と強く心に誓ったのだ。
あれは本当に地獄だった。
若干目から光を失いながらも答えた漣華を礼記は不思議そうに見やる。
お出かけなら日帰りがいいな。
そう思って漣華は礼記に尋ねた。
「翌日に祝い事があるので、できれば日帰りの方がいいのですけれど」
そう切り出すと、礼記の顔が赤くなる。
「ひ、日帰り……! 」
いきなり片手で鼻の辺りを覆ったかと思うと、手の隙間から赤いものがぽたぽたと流れ落ち始める。
「うわっ!? 大丈夫ですか!? 」
漣華は驚いて技官見習いの少年を呼んで、手当の為の布などの準備を命じる。
普段から懐に忍ばせてある懐紙を揉んだものを裂いて、鼻に詰められるように渡すと、礼記はもごもごと礼を言いつつも鼻に詰め始めた。
しばらく詰め物を取り換えつつ、若干前かがみになって貰い、流れる血液が咽喉に行かないように姿勢を保持してもらう。
血液が咽喉へ流れると誤飲をしたり気分が悪くなったりと言うのがあるからだ。
それならば、さっさと体外へ排出しつつ出血を止めた方がいい。
その間にささっと血液で汚れた卓の上のものを取り換えてしまう。
幸いにして礼記が身に着けているものは黒だから、そう汚れも目立たないだろう。
繊維が吸収してしまう前に、懐紙で吸い取れたのは幸いだった。
改めてお茶を用意しなおしてもらい、礼記の様子を見る。
ようやく出血も止まったのか、まだ鼻に詰め物をしている姿は間抜けそのものだが、顔色が良くないという事もない。
濡れた布を手に近寄り、血で汚れた顔や手を拭くといきなりがっしりと両手を握られた。
その拍子に布を取り落としてしまうが、見習いの少年がさっと拾って持って行ってしまう。
最近入ってきたばかりの少年は色々と気が回る子らしく、わざわざ命じなくても先回りして仕事をこなしてしまうことが多い。
中々にいい拾い物をしたかもしれないな。
後で褒美でもやっておこう。
菓子がいいだろうか。
そう思ってするりと廊下へ抜け出ていく姿を何とはなしに見送ると、漣華の視線の先を追っていた礼記がハッとした表情を見せてさらにがっしりと両手を掴んできた。
「まさか……! あの少年と!? 」
その眼が何やら血走り始めて怖い。
漣華は思わず眉をひそめた。
「あ、すみません……! でも、私は」
何かを逡巡するように詫びながらも視線を扉と漣華を行ったり来たりさせる礼記。
一体何なのか、非常に不審である。
それよりも、段々と血の気を無くしていくほどに握りしめられている手を離してほしい。
地味に痛かった。
「礼記さま? 」
軽く首を傾げながら、見上げるようにするとまた顔が赤くなって鼻に詰めた懐紙がじわじわと赤く染まる。
慌てて先ほど揉んで裂いた懐紙を取り出すと、礼記の膝の上に乗り上げるようにしながら懐紙を鼻に詰めなおし、詰め直す隙に垂れた血を拭う。
そのまま様子を伺うようにしているといきなりぎゅっと抱きしめられた。
そのまま肩に顔を埋められる。
今は鼻で呼吸できないから当然なのだが、口で呼吸をしている為か何かはぁはぁ言っている。
呼びかけても答えてくれないし、話してくれないし。
漣華は途方に暮れた。
ゆっくりと礼記の背中に腕を回し、あやすように慎重にとんとん、と背中を軽く叩く。
しばらくそうしているとようやく礼記の気が済んだのか、抱きしめられた腕が緩められた。
それにほっとして、見上げると情けないようなどうしたらいいのかと言ったような迷いが礼記の顔に現れていた。
「漣華どの」
呼びかけられれば素直に答える。
元より礼記の方が身分は高い。
身分も職位も低い漣華では、そういった細々したことにいちいち逆らおうとは思わない。
それも処世術というヤツである。
「はい? 」
相手に警戒心を抱かせないためにも、笑顔を忘れない。
これも謝家に養子に入って瑯炎の私邸に引き取られてから怜景に教えられたもの。
敵は少なければ少ないほどいい。
味方にできるものは味方にしておいた方がなにかと都合がいい。
元々貴族の子弟仕えていたという家政婦長と執事は貴族の風習に明るく、色々と教えてくれた。
それは内裏で仕事をするようになってからも漣華の役に立っている。
漣華は、単にその教え通りの行動をとったに過ぎない。
「漣華どの。次の休みですが」
「あ、はい」
ようやく本題か、と漣華は思った。
いつまでも膝の上に乗っているのもアレだなと思って、漣華はもぞもぞと尻を動かして礼記の上からどこうとすると、今度は腰に腕を回されてがっしりと抱えられた。
びっくりして礼記の顔を見ると何やらキラキラとしたイイ笑顔をしている。
そして鼻血は止まったと思っていたのに止まっていない。
ささっと処置を施す。
何となくだが、この短い時間の間に慣れた感のある自分の動き。
それを光り輝くような笑顔できらきらしく見ている礼記。
なんだかいたたまれない。
「あの、礼記さま。降りたいのですけれども」
遠慮がちに膝から下ろしてほしい、と伝えるとますますがっちりと抱え込まれた。
解せぬ。
第一、漣華は男でもうすぐ成人だ。
まだ身長が伸びているせいか、筋肉はそれほどに付いてはいないが、定期的に執事である藍が剣を教えてくれている。
毎日柔軟も欠かしていないから贅肉はないとはいえ、男の身体だ。
抱きかかえても特に柔らかい所はなく、女性に比べて凹凸も乏しい。
妓楼で会った莱玲や蘭秀の見事な肉体を思い出して、漣華はちらりと思った。
さっさと降りたい。
礼記を見上げるとなんだか笑顔がさらに光り輝いているように思えてならない。
そしてさらに身体をがっちりと抱えられ、また密着してしまう。
「あなたは、なぜそんなに無防備で居られるのか不思議でなりません」
礼記の吐息が耳に掛かる。
次いで、耳たぶをはむっと食まれ、すぐに離されはしたが漣華は非常に驚いた。
耳!? 耳をどうするんですか!
心中落ち着かず大混乱である。
頭の中がぐるぐると色々何かが巡るが、礼記からようやく休みの日の予定を話してもらい、色々擦り合わせて膝から下りて長椅子に座らせてもらった頃には疲労困憊であった。
結局その日は、翌日に控えた予定もある為、礼記とそこまで遠出はせず庶民にも開放されている花園に行くことになった。
秋から段々と寒くなっていく頃に咲く花は少ないが、紅葉がきれいなのだと言う。
それは楽しみだと返し、礼記は工房を辞していった。
去り際にまた抱きしめられて耳元でささやかれたのだが、それは漣華の耳には届いていなかったことだけ明記しておく。
あれほどに難物だと思っていた近衛府の発注はあっさりと片が付き、次回の発注以降の事を考えて砲を作る為の合金の割合などの冶金技術や火薬の合成などに研究費を大きく割くことになった。
その代わり、しばらくは後宮で使われる諸々のものはどうせ喪中なので自粛されるから、そこに予算を割く必要はない。
日々の暮らしの中で使う予算も、後宮で使われる贅沢品に割かせるつもりは毛頭なかった。
そしてそれは瑯炎が退職する前にそのように手配を済ませていた為、特に混乱もなく受け入れられている。
その部分については非常に助かったと漣華は今では行方不明となった元師匠に心の中で手を合わせた。
「漣華どの」
漣華を訪ねて、礼記が今日も工房へ顔を出す。
ここのところ毎日のように訪ねてくるが、どうも先だっての発注の件ではないらしい。
日々にこやかに応対して、時にはお茶を飲みながら雑談し、時には碁などを打っている。
今日は何だろうか。
「礼記さま。ようこそ」
漣華は礼記に椅子を勧め、自らもその前に座る。
この応接用の家具は非常に便利で、低めの卓を囲うように長椅子と一人掛け用の椅子がある。
部屋の隅に控えていた技官見習いにである弟子が既にお茶の支度をして茶菓子も持ってきていた。
礼を言って下がるように言うと、わずかに逡巡しながらも部屋を下がる。
それに若干疑問を抱きながらも、漣華は礼記と相対した。
「お久しぶりですね」
礼記はどこか眩しそうに漣華を見る。
「そうですね。でも十日ほど前にお目に掛かったばかりのような気も致しますが」
漣華が笑いながら返すと、礼記ははにかむようにして笑う。
どうかしたのだろうかと思いながらも、毒見の為にひと口含んでから茶を勧める。
今日は白毫産の茶葉だろうか。
発酵はそれほどではないが、発酵の浅い茶葉特有の爽やかな香気が鼻を抜けた。
茶菓子は最近流行の、豆を甘く煮て濾してから牛乳を加えて更に煮詰めたものを餡にして、小麦で作った皮に詰めて焼き上げたものだ。
甘さの中に牛乳由来のまろやかさがあり、漣華は最近はもっぱらこればかりだ。
他に乳酪をたっぷりと使って焼いた焼き菓子も並んでいる。
漣華は元々が遊牧民の出だという事で、乳製品であったり肉であったりはなじみが深い。
延琉に来てからは野菜や果物を食べるようになったが、魚を見た時はびっくりしたものだ。
泉には、魚は居なかったから。
延琉を流れる蘆河の流れには海豚の姿も見える。
時には鰐が中州で腹ばいになって寝そべっているのも見かけたりもする。
蘆河は大きな河川で延琉の傍を流れているが、時たま河川敷で土や砂が流れに呑みこまれるため、そこまで街と接近しているわけではない。
街に水路を掘り、水を引き込んで運搬の手段として使っている。
その為の大型の貨物船であったり手漕ぎの小舟があちこちに行き交い、また小舟の上で売り買いをしている姿も良く見受けられる光景だ。
「漣華どの」
意識が散歩に行っていたのがばれたのか、何度か呼びかけられたらしい。
気まずさに視線を彷徨わせながら、礼記に応えを返す。
「なんでしょう? 」
礼記といつもここでお茶を楽しんだり、時には囲碁を打ったりするのだが、今日はそんな雰囲気ではない。
何となくだが、何かを決意したような。
「漣華どの」
「はい?」
礼記が再び名を呼ぶのを不審に思いながら返事を返す。
一体何事なのか。
「今度のお休みは何時でしょう? 」
漣華は面食らった。
休み?
頭の中で、先日組んだばかりの勤務表を頭に思い浮かべる。
ちょうど三日後がその休みに当たる。
その辺りに、謝家の家内で行われる内々の行事があるので呼ばれているのだ。
ちょうど休みを取らねばならないほどに有休も溜まっているから、その日と合わせて数日間の休暇を申請している。
現在の瑯炎の私邸から暫く行ったところに謝家の本家があり、そこの家刀自が誕生日なのだと言う。
一応当主の養子として名を連ねてもらっているから、挨拶ぐらいはしておかねばなるまいと休みを取ったのだ。
「その日、私も休みなのです。良ければどこかに出かけませんか」
礼記はにこやかに、だがどこか強張ったような笑顔を向けてくる。
内心首を傾げながら、漣華は頭の中でざっと予定を確認して頷く。
「この日は、謝家の祝い事があるので行かなくてはならないのですけれど、この日であれば」
あの口うるさいおばば様の誕生日などでなければ、いやいや赴くこともないのだろうけれどもあの謝家も実際にはああだこうだ言いながらも漣華をそれなりに可愛がってくれている。
一族の末席とは言え、受け入れてくれたわけだし。
その日はどうせ朝からみなでどんちゃん騒ぎになるだろうから、翌日は二日酔いで多分動けない。
それならば前日に取った休みの日に礼記と出かけた方がいいだろう。
「失礼ですが、この日は?」
礼記は不思議そうに問う。
「家刀自さまのお誕生日なのです。一応、謝家の末席に居るものですから、年に一度くらいは顔を出さないと申し訳が立たなくて」
もし何らかの理由で欠席なぞすればなんやかや理由を付けて向こうの義兄や義弟などがやってきて連れていかれてしまうにちがいない。
漣華はむかしそれを一度やらかしてもう二度と欠席なぞするものか! と強く心に誓ったのだ。
あれは本当に地獄だった。
若干目から光を失いながらも答えた漣華を礼記は不思議そうに見やる。
お出かけなら日帰りがいいな。
そう思って漣華は礼記に尋ねた。
「翌日に祝い事があるので、できれば日帰りの方がいいのですけれど」
そう切り出すと、礼記の顔が赤くなる。
「ひ、日帰り……! 」
いきなり片手で鼻の辺りを覆ったかと思うと、手の隙間から赤いものがぽたぽたと流れ落ち始める。
「うわっ!? 大丈夫ですか!? 」
漣華は驚いて技官見習いの少年を呼んで、手当の為の布などの準備を命じる。
普段から懐に忍ばせてある懐紙を揉んだものを裂いて、鼻に詰められるように渡すと、礼記はもごもごと礼を言いつつも鼻に詰め始めた。
しばらく詰め物を取り換えつつ、若干前かがみになって貰い、流れる血液が咽喉に行かないように姿勢を保持してもらう。
血液が咽喉へ流れると誤飲をしたり気分が悪くなったりと言うのがあるからだ。
それならば、さっさと体外へ排出しつつ出血を止めた方がいい。
その間にささっと血液で汚れた卓の上のものを取り換えてしまう。
幸いにして礼記が身に着けているものは黒だから、そう汚れも目立たないだろう。
繊維が吸収してしまう前に、懐紙で吸い取れたのは幸いだった。
改めてお茶を用意しなおしてもらい、礼記の様子を見る。
ようやく出血も止まったのか、まだ鼻に詰め物をしている姿は間抜けそのものだが、顔色が良くないという事もない。
濡れた布を手に近寄り、血で汚れた顔や手を拭くといきなりがっしりと両手を握られた。
その拍子に布を取り落としてしまうが、見習いの少年がさっと拾って持って行ってしまう。
最近入ってきたばかりの少年は色々と気が回る子らしく、わざわざ命じなくても先回りして仕事をこなしてしまうことが多い。
中々にいい拾い物をしたかもしれないな。
後で褒美でもやっておこう。
菓子がいいだろうか。
そう思ってするりと廊下へ抜け出ていく姿を何とはなしに見送ると、漣華の視線の先を追っていた礼記がハッとした表情を見せてさらにがっしりと両手を掴んできた。
「まさか……! あの少年と!? 」
その眼が何やら血走り始めて怖い。
漣華は思わず眉をひそめた。
「あ、すみません……! でも、私は」
何かを逡巡するように詫びながらも視線を扉と漣華を行ったり来たりさせる礼記。
一体何なのか、非常に不審である。
それよりも、段々と血の気を無くしていくほどに握りしめられている手を離してほしい。
地味に痛かった。
「礼記さま? 」
軽く首を傾げながら、見上げるようにするとまた顔が赤くなって鼻に詰めた懐紙がじわじわと赤く染まる。
慌てて先ほど揉んで裂いた懐紙を取り出すと、礼記の膝の上に乗り上げるようにしながら懐紙を鼻に詰めなおし、詰め直す隙に垂れた血を拭う。
そのまま様子を伺うようにしているといきなりぎゅっと抱きしめられた。
そのまま肩に顔を埋められる。
今は鼻で呼吸できないから当然なのだが、口で呼吸をしている為か何かはぁはぁ言っている。
呼びかけても答えてくれないし、話してくれないし。
漣華は途方に暮れた。
ゆっくりと礼記の背中に腕を回し、あやすように慎重にとんとん、と背中を軽く叩く。
しばらくそうしているとようやく礼記の気が済んだのか、抱きしめられた腕が緩められた。
それにほっとして、見上げると情けないようなどうしたらいいのかと言ったような迷いが礼記の顔に現れていた。
「漣華どの」
呼びかけられれば素直に答える。
元より礼記の方が身分は高い。
身分も職位も低い漣華では、そういった細々したことにいちいち逆らおうとは思わない。
それも処世術というヤツである。
「はい? 」
相手に警戒心を抱かせないためにも、笑顔を忘れない。
これも謝家に養子に入って瑯炎の私邸に引き取られてから怜景に教えられたもの。
敵は少なければ少ないほどいい。
味方にできるものは味方にしておいた方がなにかと都合がいい。
元々貴族の子弟仕えていたという家政婦長と執事は貴族の風習に明るく、色々と教えてくれた。
それは内裏で仕事をするようになってからも漣華の役に立っている。
漣華は、単にその教え通りの行動をとったに過ぎない。
「漣華どの。次の休みですが」
「あ、はい」
ようやく本題か、と漣華は思った。
いつまでも膝の上に乗っているのもアレだなと思って、漣華はもぞもぞと尻を動かして礼記の上からどこうとすると、今度は腰に腕を回されてがっしりと抱えられた。
びっくりして礼記の顔を見ると何やらキラキラとしたイイ笑顔をしている。
そして鼻血は止まったと思っていたのに止まっていない。
ささっと処置を施す。
何となくだが、この短い時間の間に慣れた感のある自分の動き。
それを光り輝くような笑顔できらきらしく見ている礼記。
なんだかいたたまれない。
「あの、礼記さま。降りたいのですけれども」
遠慮がちに膝から下ろしてほしい、と伝えるとますますがっちりと抱え込まれた。
解せぬ。
第一、漣華は男でもうすぐ成人だ。
まだ身長が伸びているせいか、筋肉はそれほどに付いてはいないが、定期的に執事である藍が剣を教えてくれている。
毎日柔軟も欠かしていないから贅肉はないとはいえ、男の身体だ。
抱きかかえても特に柔らかい所はなく、女性に比べて凹凸も乏しい。
妓楼で会った莱玲や蘭秀の見事な肉体を思い出して、漣華はちらりと思った。
さっさと降りたい。
礼記を見上げるとなんだか笑顔がさらに光り輝いているように思えてならない。
そしてさらに身体をがっちりと抱えられ、また密着してしまう。
「あなたは、なぜそんなに無防備で居られるのか不思議でなりません」
礼記の吐息が耳に掛かる。
次いで、耳たぶをはむっと食まれ、すぐに離されはしたが漣華は非常に驚いた。
耳!? 耳をどうするんですか!
心中落ち着かず大混乱である。
頭の中がぐるぐると色々何かが巡るが、礼記からようやく休みの日の予定を話してもらい、色々擦り合わせて膝から下りて長椅子に座らせてもらった頃には疲労困憊であった。
結局その日は、翌日に控えた予定もある為、礼記とそこまで遠出はせず庶民にも開放されている花園に行くことになった。
秋から段々と寒くなっていく頃に咲く花は少ないが、紅葉がきれいなのだと言う。
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おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
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