謝漣華は誘惑する。

飴谷きなこ

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女、奸計を巡らせる。

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 瑪瑙を小さな珠にしてそれを貫いたものを繋げ、さらにそれを垂れ幕のようにして幾つも天井からつるしてある。
その向こうにほっそりとした見るからに美しい女は座っていた。
ほう、と息を付いて憂う姿はまさしく傾城と言っても過言ではない。
ただ、ここは皇帝の後宮のうちにあり、女程度であればそこここに存在する。
外では傾城とも傾国とも持てはやされ、絶世の美女として君臨したであろうけれどもこの後宮に於いては月並みだ。

 女が小首を傾げると、その結い上げられた艶やかな髪に大量に刺さった簪がしゃらりと澄んだ音を立てる。
目の前に膝を突くのは、同じく女。
但し、その女を見下ろしている者ほど美しくはない。
それに着ているものやその身を飾るものも、そこまで派手派手しくも仰々しくもない。

 この二人の他に人の姿はなく、人払いがされているらしい。
室内に漂う空気は重々しく、今にも触れれば切れそうな緊張感をどこか孕んでいる。
贅沢に漆と虹色に輝く貝の薄片と細く切った金箔や銀箔で紋様を施された椅子に座る女は、また溜息を付いた。

「ようやくあの邪魔な東宮を始末したと言うのに、皇上は何としたことなのかしら?」

 女は憂う。

「わたくしの子が産まれたのだから、先の東宮がお隠れになってしばらくの間はどなたもご指名あそばされないという事であれば、覚悟していたわ。けれど、息を引き取ってすぐに次の東宮をもうお決めあそばされるだなんて。ねぇ?」

 紅に彩られた女の唇が弧を描く。

「それとも、次の東宮にわたくしの子をとのご深慮なのかしら」

 その言葉に、膝を突いた女は深く叩頭した。

「恐れながら、申し上げます」

 女の声に、優雅に爪飾りを嵌めた手を煌めかせながら、茶の入った碗を取る。

 「許すわ」

 その声に一層深く叩頭して頭を上げる。

 「娘々のご賢察通りかと存じ奉ります。皇上に於かれましては、取りあえずの人事で東宮位をお埋め遊ばされましたのは、ただ国外へのそのご威光を示さんが為かと」

 その言葉に、娘々と呼ばれた女は器用にも軽く片眉を上げて続きを促す。
平伏する女は、背に冷や汗を流しながら言葉をつづける。

「先年ございました不作により、外国から食糧を買い付けましたこと、覚えておいででしょうか」

「覚えているわ」

 女はうっとりとした表情をして答える。
あれはとても儲かった。

「あの一件で、皇上は我が国の威光が外国に鳴り響かなくなったとお考えあそばされてるかと」

 女は自らの首に掛けた珠の連なりをもてあそぶ。
爪飾りが午後の日差しを反射してその金の色を煌めかせた。

「それで?」

 話の行く方向が面白くなさそうだ。
平伏をしながらも奏上を続ける女は床の上にぽたり、と汗を落とした。
季節は秋。
そろそろ寒くなり始め、朝夕は火鉢の出番もあるだろう。

「皇上は図らずとも、国内外から食糧をかき集め、民にお配りあそばしました。その際に国外からの食糧の買い付けに、その国の言い値で買い取りをするようお下知あそばされたのだとか」

女はぴくり、とその柳眉を動かした。

「その際、外国には恐れ多くも皇上と我が国の威光が及ばず、買い取りする穀物の値を下げることが敵わなかったそうにございます」

 女はそれを聞いて傍の小卓に置いてあった扇を手に持つ。
それは最近西方の国からもたらされた、極細の糸を紋様を浮かせたり透かせたりして編み上げたあちらでの高貴な女性の持ち物のひとつであるらしい。
それを、畳まれた骨をひとつひとつずらすようにしながら、透かし模様が見えるように広げていく。
骨は象牙でできていて、とろりとした柔らかな乳白色に細かな細工を施された逸品だ。
その扇をもてあそぶようにしながら、女は広げていく。

「皇上は」

 女の硬い声に平伏した女は機嫌を損ねでもしたかとその細い身体をびくつかせた。

「皇上はどうお考えあそばされておいでなのかしら」

 女は平伏した身体を縮こませるようにしながら、改めて言葉を紡ぐ。
できるだけ、女の機嫌を損ねないように。
いま後宮は飛ぶ鳥を落とす勢いでこの女に権力が集中していて、些細な理由で冷宮れいぐうに送り込まれ、幽閉もしくはそこで死を賜ったと言う妃嬪もいるのだと聞く。

 現に先だって皇帝の寵を賜った若い妃嬪が些細なことで目の前の女の機嫌を損ね、背中を杖で叩かれる杖罪に処せられた。
ただ散策に出た先の庭園で鯉に餌をやっていただけである。
それのどこが女の機嫌を損ねたのか、床に這いつくばる女にはさっぱり理解ができない。

「皇上に於かれましては」

 平伏した視線の先の床がまた、ひとつ汗が落ちて色が変わる。
咽喉が渇いて、ひりつき女は声を出すのに難渋した。
こくり、とむりやりに唾をのみ込んで舌が動くように湿らせる。

「恐れ多くも、皇上に於かれましては今しばらくは先だってお定めあそばされました東宮に、今しばらく国内外の秩序の安定をお任せになり、しかるのちに娘々がお産みあそばされました和子さまを東宮位にお迎えあそばされるご所存かと」

 女は広げていた扇をぱちり、と閉じた。

「嫌いではないわ、そういうモノの見方」

 すっと立ち上がり、平伏した女のおとがいに扇を当てて顔を上げさせる。
また、女の額から汗が垂れ落ちた。

「では」

 女の視線の先には真っ赤に塗られた唇が動くのが見えた。

「それを速やかに明らかにさせねばね」

 女の目が、ひたりと自らが頤を上げさせて視線を無理矢理に合わさせた女を覗き見る。

「おまえ」

 ふんわりと、虫すらもその命を慈しむような柔らかな笑みを浮かべる女。

「わかっているね?」

 ようやく石造りの床に指先が届くか届かないか、と言う微妙な位置で背筋を保持させられ、女はそのせいもあってか汗がしたたり落ちた。

「仰せのままに」

 それ以外の言葉は許されない。
もはやこの娘々と呼ばれた女とは運命を共にするしかないのだ。
女の手は、既に穢されている。
いくら洗い流しても、あの時に手にしたものは。
女は内心、恐ろしくてたまらない。
後宮に納められた時、わずかに15を数えたばかり。
その頃に公布があって、それに従って選定を受けたらたまたま秀女として受かってしまった。
それに従って後宮に入っても皇帝のお渡りはなく、いつまでも放置されたまま。
ここ数年のうちはもう皇帝の寵愛を受けることなど考えもせず日々のんびりと暮らしていたのだ。
実家の身分が高かったので、後宮に入ってからも貴人と言う位に付けられ、悠々自適に暮らしていたのだ。
後宮はいま、二つの派閥に分かれている。
ひとつは皇太后を筆頭とする派閥。
これには皇后も含まれている。
もうひとつは目の前の女が率いる派閥だ。
たった一度の寵愛で男皇子を得たからと、皇帝が寵愛している女。
それにおもねる妃嬪は多い。
いま、女の前で床に頭を擦り付けんばかりに平伏していた女もそうだ。
決して逆らってはならない。
目の前で蛇のように獲物を逃がすまいと見据える女は、とても恐ろしい。

 女は、その答えに満足そうに笑うと頤から扇を外し、椅子に座り直す。
全身から冷や汗が止まらない。
ここからさっさと退出しなければ。
心臓がさっきから嫌な音を立てている。

 女の返答に満足したのか、退出を許された。
礼を失しない程度の速度で、女の住む宮を辞する。
女は貴人なので、自宮までは徒歩で戻らなければならない。
部屋の外で待っていた自らに仕える侍女と落ちあい、自らの宮までの道のりを歩んでいく。
外は既に陽が傾き始め、空には白く月が浮いている。
それを見ながら、女は自らの運命を呪った。
ただひたすら穏やかに過ごせれば、女に不満はなかった。
栄耀栄華なぞ望んだわけでも願ったわけでもない。
けれど、なんの因果か後宮に納められ、好きでもない人間の為に自らの手を穢した。
これからどうしたら良いのか、女にはわからない。
わかっているのはこれから進む先には地獄しかないということ。
既に引き返すことはできない。

 その夜、夜陰に紛れて後宮の人気のない場所にできた塀の破れ目を人目を憚るように外に出る女の姿があった。
勿論、貴人の位を頂く女でもその女に命を下した者でもない。
貴人の位を占める女に言い含められた者だ。
夜陰に紛れ、衛士の巡回をやり過ごしてひたすら街へと走る。
闇に紛れてしまえばあとは何とかなる。
まだ成人を迎えるには早い程度の少女だ。
足元には布で作った沓。
裏には羊の毛を叩いて作った厚手の布を貼ってある。
これは音を吸収してしまう性質があり、夜陰に紛れる少女の助け手となるはずだ。
少女はひた走り、やがて闇に紛れて行った。
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