謝漣華は誘惑する。

飴谷きなこ

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琶国大使、遠望する。

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 執務室に戻り、ネクタイを緩めながらクッションの効いた皮張りの椅子に腰かける。
ギシッと音を立てて、体重を受け止めてくれる。
はふ、と上に目線をやると天井に設置された大型のファンが緩やかに回り始めて空気をかき回していた。
先年発売されたばかりの最新式で、こういったものは故国の国力アピールの狙いもあって、大使館など外交で使われる施設には真っ先に導入されている。
窓を開けて換気はしているが、この国は故国に比べて温暖だ。
それでも北方へ行けばやはり寒いらしいが、首都である延琉えんりゅうはやはり暖かい。
寒い北国育ちの身としては、冬場はその暖かさが好ましいが、それ以外の季節だと鬱陶しくもなる。
こういった多少なりともがなければ、やってられない。
かき上げた前髪に手をやり、はぁ、とまた息をついた。

 後宮からのは先日保護した少女だと判明し、要求されたものを渡し、無事に後宮に戻れるように取り計らった。
もちろん正規の手続きで後宮の外へ出てきたわけではないから、戻るのも人目に付かないようにこっそりとだ。
無事に戻ったそうだが、後宮の壁にあんな破れ目があると聞かされた時には心底驚きもしたが、納得もした。
国の中心である大内裏、警戒も最高度に厳しいのに、ああ言う場所の手入れを放ってあると言うことは、財政が厳しくなっているだとか、もしくは管理する人員が少なくて厳しいだとか、予算を横領しているだとか。
原因はいろいろ考えられるが、どちらにしてもあの破れ目は誰にも知られないようにして置いた方が都合がいい。
後宮なかを探るにも、外廷や内廷を探るにも、あの破れ目は鍵のひとつになるだろう。
もしかするとほかにもあるかもしれないが。

 身を起こし、執務机に置いてある葉巻入れの蓋を開けて、一本取りだす。
吸い口を専用の刃物で切り取り、マッチで火をつけた。
すう、と煙を灰の奥まで吸い込み、ゆっくりと吐き出すと思考が酩酊したような覚醒したような不可思議な感覚になる。
呼び鈴を持ち上げて緩く左右に振ると、涼やかな音を立てる。
しばらくして執事が姿を見せる。

「エッカルトは?」
「先ほど厩舎に」
「少し遠乗りをします。エッカルトに伴をするように伝えておきなさい」

そう言いながら立ち上がると、緩めたネクタイを再度締め、ジャケットをはおる。
ほとんど吸ってもいない葉巻を大きなガラスの灰皿に押し付け、執事の差し出したグラスに入ったレモンを効かせた水をぐっと飲みほした。



 大使館の厩舎に小間使いをしている少年が駆け込んできて、褐色の髪をした青年に知らせる。

「大使が遠乗りをなさるそうで、エッカルトさんにお伴をするようにと仰せです」

 小間使いの少年から伝言を聞くなり、エッカルトと呼ばれた青年はチッと舌打ちをする。
そこへ悠々とジャケットのボタンを締めながら青年を伴に指名した琶国大使が現れた。

「そういうわけですので、エッカルトくん。頼みますよ」
「リード卿、今日は」

 エッカルトが呼びかけると、その長く白い髭を手に持って振って見せる。
髭は三つ編みにされ、その先は赤いリボンで結ばれていた。

「それは」
「可愛らしいでしょう?」

 にこやかに笑いかけつつ、馬番に愛馬の準備を整えさせる。
みずからの愛馬にも鞍とはみを取付け、ばさばさと飼い葉のくずを払うと、エッカルトは先に馬上の人となった。

「リード卿、お伴いたしますよ。今日はどちらまで」
「ちょっと郊外に出ましょうか」

 琶国大使館員には、延唐国政府よりある程度の外出制限が設けられている。
それは延琉の街と外とをつなぐ門の閉門時間以降は外出を禁ずると言うものであるが、そこまで厳格なものではなく、閉門時間になってから花街へ繰り出すこともある。
要は、閉門時間までに延琉のなかにもどっていないと、一晩街の外で夜明かしをする羽目になるぞ、と言う程度のものだ。
かといって街の外では盗賊であったり猛獣などもたまに出るので、一般的な安全対策ではあるのだが二人にとってはとりあえずトラブルを回避する為の手段のひとつと言う認識にすぎない。

 エッカルトはリード卿を待ってから馬を歩かせていく。
大使館の前は人通りも多く、走らせようものなら撥ねてしまいかねない。
慎重に馬を進めていくと、いろんな光景が目に入る。
軒を連ねた商店は店先に色々な品々を並べ、通りを闊歩する人々は色鮮やかな衣服を纏い活気にあふれている。
去年は義倉を開けて穀物を分配せねばならぬほどに穀物の収穫が芳しくなかったとのことで、琶国としても外地にある植民地から穀物を取り寄せ、延唐に融通したのだ。

 そういった影響は首都たる延琉にはひとすじの影も見当たらないが、ほかの地域ではやはり多少なりとあるようだ、と報告が上がっていた。
二人はそのまま街の門を抜け、近くの小高い山の方へと馬を走らせる。
しばらく遠乗りにも出ていなかったから、二人が跨る馬たちも意気揚々と山を駆け上っていく。
馬たちがひとしきり満足したのか、歩みを緩めたところでリード卿は手綱を引き絞ってその歩みを停めさせた。

 日が暮れつつある中で、リード卿の三つ編みされた白いひげと結ばれた赤いリボンが風になびく。
一部の隙もないその紳士然とした服装の中で、その三つ編みとリボンが浮いているが、二人とも特に気にする様子はない。

 そのまま馬に任せて歩みつつ、街を見下ろした。
少しずつ商店は片づけを始め、軒を下ろしていき、買い物や仕事に出ていた人々が家路に付き始める。
門の外に出ていた人々も三々五々、門の中に吸い込まれていく。
そろそろ閉門の時間だ。

「リード卿、そろそろ……」
「エッカルトくん」

 大使館への帰還を促そうか、と声を掛けたタイミングで少し重苦しさを混ぜた声で名を呼ばれる。

「この国を、どう思います?」
「どうとは」

 エッカルトはその言葉の意図が図りかねた。
故国は正直、発展を遂げているとは言い難い。
それなりの発明があり、産業も栄えている。
けれど、金を持ち、モノを手に入れているのはそれなりに金を持っている一部の層だ。
王侯貴族であり、そのほかの一部の上流階級。
中流階級はそこそこだけれど、国民の大半を占めていると言われる下層階級。
彼らは教育はおろか、その日食べるパンにも事欠くありさまだ。
だが、国民であることに間違いはない。
税金を支払いできるわけでもなく、職に付いても長続きしないその日暮らしの生活を送る人々。

 それはもちろん延唐にも居るし、けして少ない人数ではない。
むしろ、社会のかなりの割合を占めるのだ。
けれど、故国で見る彼らと延唐で見る彼らとでは雲泥の差である、とこの国に来たばかりの頃、エッカルトは思った。

「豊かだとは思いませんか」
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