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第二章
自分のことを知る誰か
しおりを挟む背中をつんと指で押され「うわっ」と声をあげた。落ちそうになるのをなんとか堪えたところに崖下から突風が吹き上がって来る。
「うわっ」
落ちる。嫌だ、死ぬのは嫌だ。
闇しか見えない崖下を目にして「ひぃ」と上擦った声をあげて目をつむる。そのとたん再び崖下から突風が吹き上がりなんとか落ちずに済んだ。
「おまえ、このままだとマズイことになるぞ。不幸の乱れ打ちになりかねないぞ」
不幸の乱れ打ちだと。確かにこの状況はまずいだろう。それとも違う意味でまずいと口にしたのか。違う意味ってなんだ。どうやら頭が混乱しているらしい。
後ろの誰かはやっぱりナイフ片手に睨み付けているのではないだろうか。それは勘弁してほしい。ダメだ、頭のおかしな奴の話など聞いてはいけない。これは幻聴だ。誰の声も聞こえてこない。そうだ、そうだろう。今見えている景色も幻覚かもしれない。これは心療内科でも行くべき事態なのかもしれない。いや夢だ、夢に違いない。この崖から飛び降りたとしても死ぬことはない。崖の下を見遣り足が竦む。崖下から吹き上げてくる冷たい風に頬が引き攣った。夢などではない。現実だとしか思えない。飛び降りたら絶対に死ぬ。
「ふん、いいのか。その魂を抱いていていいのか。そんな醜い魂など捨てちゃいなよ」
また『たま』か。だからいったいそれはなんだ。
「ぼくは知っているよ。ぼくの言う通りにすれば楽になれるさ」
ああ、うるさい。黙れ、黙れ、黙れ。
いったい何を言っている。ふざけたことを言うな。『たま』を捨てることが楽になることなのか。そうなのか。そんな簡単に楽になんかなれない。けどもしも本当に楽になれるとしたら……。そうなら教えてくれ。その『たま』とはなんだ。
「教えてやろうか」
えっ、心の声が聞こえたのか。いや、おそらく偶然だ。
「ほら、どうした。教えてやろうかと言っているんだぞ。友達じゃないか」
ゾクゾクと震えがきた。友達。自分には子供の友達なんていない。誰だ。おまえはいった誰だ。わからない。
「やっと会えたっていうのに冷たいんだから」
どういうことだ。やっと会えただなんて。益々わからなくなる。そういえば「みつけた」とか言っていなかったか。ダメだ、聞いちゃダメだ。というか聞きたくない。耳を塞ぐから思う存分勝手に話せばいいではないか。そう思う反面、話を聞きたい自分がいた。
本当に友達なのか。後ろの誰かさんは。
「忘れちまったのか。ぼくのこと。約束したじゃないか。思い出してくれればまだ間に合うよ」
約束。間に合うってなんのことだ。
「まったく口も利いてくれないのか。あのとき言ったはずだ。約束を破ったら……。ああ、あのとき全部は言わなかったか」
まったく何を話しているのかわからない。どうしたらいい。どうすればこの現状から抜け出せる。
「おい、聞えているんだろう。無視し続けるならぼくは君を呪うよ。三度目はない」
「呪う。三度目って」
「あはは、やっと口を利いてくれた」
「そう呪うさ。だってぼくのこと忘れてしまったんだから。友達なのに寂しいじゃないか。酷い人だ。またぼくから逃げるつもりなの」
話がまったく見えない。けどこのままではかなりまずい状況にあるということはわかる。なんとも言えない憎しみの感情が背中に伝わってくる。いったい後ろにいるのは誰だろう。友達っていうけどどう考えても覚えがない。
『早く逃げなきゃ。そうでないと殺される』
そんな思いが込み上げてくる。けど、けど、どうやって逃げればいい。
もう頭がどうにかなってしまいそうだ。
「どうしたの。ぼくが怖いの。言うことを利けば怖がることもないさ。大丈夫だよ」
「どういうこと」
「ふふふ。もう何を言ってもダメみたいだね。やっぱり、『その魂、捨てちゃいなよ』」
「あ、あの。そのたまって」
「ああ、そうか魂がわからないのか。それはね」
ダメだ、その先を聞いたらダメだ。けど、知りたい。
どうしよう。どうすればいい。
聞くべきか、耳を塞ぐべきか。声の主は悪人なのか。善人ではないだろう。悪人とかそういうことではなく完全なる変人かもしれない。愉快犯って奴か。
ここは覚悟を決めて後ろを確かめるべきだ。きっとそれが正解だ。というか選択肢はそれしかない。目の前は崖なのだから。
よし、行くぞ。一、二の三。
思い切って振り返ってみると、そこにいたのは男の子だった。声色は合っていたということか。ちょっと待て、そこじゃない。なぜ、こんな子がいる。いやいてもおかしくはない。でも、何か違和感がある。
可愛らしい男の子なのになんだ子は。大人びている。自分の腰くらいまでしか背丈がないのに耳元で声が聞こえたというのも変だ。台になりそうなものもない。もちろん、男の子の手には台になりそうなものを持っていない。そんなことどうだっていい。
胡乱な目つきでこっちらをじっとみつめてくる男の子。またしても背筋が凍る。
小学校低学年くらいの男の子だろうか。真後ろにいると思われたが五、六メートルも向こうに立っていた。なにもかもが、おかしい。
「蔭地駿、手遅れになる前に決断しろ。これが最後のチャンスだ。あのときおまえは選択を間違えた。今度は間違えるんじゃないぞ。そうすれば……すべて水に流す」
なんだ、この感じ。子供なのに目上の者と対峙している感覚に陥っていく。
うぅっ、どうした。身体が、身体が痺れてくる。金縛りってやつか。こいつはやはりこの世の者じゃない。霊力なのか、妖力なのか。どっちにしても普通じゃない。
すべてはこの子の成せる業なのか。
んっ⁉
気づけば、さっきの交差点に立っていた。
ここはいつもの場所ではない。無人なこともそうだがあの子は歩いていないのに近づいている。この金縛りも全部普通じゃない。
おや、何か光った。あの子と自分の周りに何かがある。
これってもしかして、結界。小説や漫画の世界でよく出て来るやつなのか。まさか、そんなことはないだろう。けど音も人の気配もないこの状況を考えればしっくりくる。
「どうする。あまり時間はないよ。早く決断しなきゃね。友達だろう。それとも違うのかい」
身体が震え出す。なんだこの威圧感は。
男の子は一瞬で目の前に来た。
いったい何者なのだろう。
「お、おぉむぁえは、どぅわぁれどぅわぁ」
な、なんだ。口が思うように動かない。
ダメだ、苦しい。『おまえは誰だ』と言いたいだけなのに言葉が喉を通らない。顔面が麻痺してしまったようだ。
この身体は完全にあの子に支配されてしまったのか。額から脂汗が垂れてきて目に沁みる。
「気にするな。ぼくは君の心の声がわかるからね。だって友達だもんね。だからぼくが誰かはわかるはずだよね。さあ、どうする。答えを聞こうか」
目の前にいる男の子がニヤリと笑みを浮かべた。その笑みに息苦しさが増していく。汗が脇の下から噴き出してくる。
こんな子と友達なのか。
「あれ、それって答えってこと。ぼくと友達じゃないってことかい」
いや、それは……。
「仕方がないね。やっぱりその魂、捨てちゃいなよ。それがいい。ぼくが責任もって拾ってあげるからさ。運命からは逃れられないさ。残念だけどこれも運命。前世の行いがよくないからこうなるんだ」
男の子の笑みに震えがきた。やっぱりこの子は人ではない。
誰か助けてくれ。
ああ、息が、息ができない。死ぬ。だ、誰か……。
「んっ、嫌な奴が来ちまったようだ」
男の子は舌打ちをして睨みつけてくる。
「残念だけど今日はこの辺でお暇するよ。少しばかりの猶予を与えてあげる。よーく思い出すといいよ。あのときみたいにならないようにね。蔭地駿」
再びニヤリと笑みを浮かべ一瞬にして消え去ってしまった。
その途端、一気に灰に空気が入り込み息を吐く。助かった。同時にあたりの音が身体全体に押し寄せてきた。鼓膜が破れるかと思うくらいの騒音だ。こんなにうるさいものをいつも聞いていたのかと気づかされた。だが、音があるということにホッとした。
人通りがあるいつも通りの交差点だ。通行人が訝しげにこっちをチラチラ見てくる。もしかしたらずっと立ち止まっていたのかもしれない。なんだか急に恥かしさが込み上げてきて目を伏せた。
それにしても今のはなんだったのだろう。白昼夢なのか。違う。それは違う。現実だ。本当にそうなのか。誰かに変な薬でも飲まされていたってことも。わからない。経験がないだけに何とも言い難い。
どうすればいい。駿は俯き眉間に皺を寄せて考え込んだ。今あったことが本当に現実だとしたら。そうだとすればどうすべきなのだろう。頭がおかしくなってしまったってことはないのか。疲れから幻を見ただけかもしれない。今日は早く帰れたけど最近仕事が忙しかったからそのせいだと思うこともできる。それでもやっぱり謎だ、謎過ぎる。相談するにしても、笑われてお仕舞いだろう。
とにかく今見たことは忘れて早く家で休もう。それがいい。きっと明日の朝にはいつも通りの日常が待っているだろう。そう願うしかない。でも忘れてしまっていいのだろうか。
ふと『逢魔が時』という言葉が浮かんだ。あの子は人を惑わす魔物だったのかもしれない。
視線を上げて交差点の向こう側の人混みの中を見遣ると白い尾らしきものがチラリと見えた。見間違いだろうか。白いシャツかなにかがそう見えたのだろうか。なぜだかわからないが無性に気になった。
「ニャ」
んっ、なんだ猫か。足元にまん丸の目をした猫がこっちをみつめていた。
おまえ、どこから来たんだ。野良猫か。
そういえばホツマはどうしているだろう。祖父の家にはずっと帰っていない。東京で働くのにも正直疲れた。嫌な上司に我慢することはない。病気ってわけじゃないとは思うがしばらく静養するのもありなのかもしれない。祖父のいる田舎へ帰ってのんびりするのも悪くはない。まだ早苗もあの田舎町にいるのだろうか。そんなことを考えていたら田舎へ帰りたくなった。そうすればもしかしたら今日みたいな変な幻を見ずに済むかもしれない。
「あっ、キツネさんだ」
狐。どこ、どこ。いない。
「もう何言っているの。こんなところに狐がいるわけがないでしょ」
「いたもん。真っ白いキツネさんがいたもん。ネコさんと話していたもん。ウソじゃないもん」
真っ白い狐がいたって。小さな女の子を見遣り再びあたりに目を向ける。
やっぱり狐はどこにもいない。言い合いをしている親子がそこにいるだけだった。気づけば足元にいた猫もいなくなっていた。
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