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第二章

ホツマと早苗。そして四葉のクローバー

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「あっ、いたいた。もう、ダメじゃないホツマ。急にいなくならないでよ」

 誰か来た。あれは誰だったろう。知っているような、知らないような。同い年くらいだろうか。美人というよりは可愛いといったほうがぴったりな女性がホツマを抱きかかえようとしている。ホツマを知っているということはやっぱり自分も知っているのだろう。
 気持ちが安らぐ笑みを浮かべる人だ。駿は女性に微笑み返す。だがまったく気づく様子がなく目もくれない。なぜだ。

 駿は頬が引き攣るのを感じながら、女性とホツマを交互に見遣った。ホツマはすぐに思い出せたというのに、この女性に関しては記憶の抽斗を探し当てることが叶わない。頭の中に霞がかかってしまっている。霞の奥にこの女性に関する抽斗があるのかもしれない。

「こんなところで何をしていたの? あっ、まさかここって。例のあの場所なの。もしかしてそうなの? ここに怨霊神が」
「いや、そうじゃない。ここにいるのは駿だ。見えないのか。おい、こら何をする」

 ホツマは抱っこされまいと必死に抵抗しつつ訴えかけているが女性には届いていない。

「もう、暴れないの。いきなり連れてくるだなんて怖いじゃない。怨霊神にお願いしたって素直に聞いてくれないでしょ。きっと。けど、やってみないとわからないか。私だって駿くんのこと心配だもの。気持ちが伝わるかもしれないわよね。がんばらなきゃいけないわよね。私は駿くんのこと見捨てないって決めたんだから。呪いになんて負けない。でも、でも、でも……」

 この女性はいったい何を言っているのだろう。意味がわからない。

「それはだな。おっと」

 強引に抱き込まれてしまったホツマは口が塞がれる形になって話せなくなった。

「お願いです。駿のこと許してあげてください」

 手を合わせてしゃがみ込んだ女性の顔が急に近づき目と鼻の先に。
 駿は胸の高鳴りを感じた。心臓がないというのに胸の高鳴りを感じたというのか。なんだ、この感じは。
 変だ、おかしいじゃないか。
 胸に手を当てたがやはり心臓の鼓動はまったくない。気のせいだったのか。もしかしたら生きていたときの感覚が残っているのかもしれない。いやいや、まだ自分は死んでいない。そのはずだ。
 ああ、それにしても癒される。優しい波動がこの女性から流れ込んでくる。この包み込まれるようなぬくもりは、いったいなんだ。

 この可愛いらしい女性は誰なのだろう。
 どうしてそこまで慈しみの心があるのだろう。
 まるで女神のようだ。
 駿はこの女性のことが知りたくなった。感情が欠如しているはずなのに、少しだけ胸が弾む。この女性がもしかしたらこの状況を打開してくれるかもしれない。
 ホツマは早苗の膝の上に乗る形になり素早く早苗から飛び降りて「こいつは、『ひなたさなえ』だ。おまえの幼馴染だ。おまえも会っただろうが」と呟いた。
 そうか、そうなのか。幼馴染みか。『ひなたさなえ』というのか。正直、ピンとは来なかったが会ったことがあるのなら自分にとって大事な存在かもしれないと思った。

「いいか、まずは日蔭の神と話すことだ。さなえもきっと助けになるはずだ」
「でも、イマイチ記憶がはっきりしないんだよな」

 ホツマは眉間に皺を寄せて唸った。

「ちなみに、ひなたさなえってどんな字を書くんだ」
「それはだな。いいか集中しろ。おまえの頭に念を送ってやる」

 すると、不思議なことに文字が頭の中に浮かんできた。『日向早苗』と。

「ほら、逃げないの。じゃ、ホツマ行きましょう。ここに長居したらよくないわ。それにこんなところに来たこと知られたら心配させちゃうでしょ」

 早苗とは結局一度も目が合うこともなくホツマを再び抱き上げてさっさと帰ってしまった。
 それにしても『こんなところに来たことが知られたら心配させちゃう』とはどういうことだろう。ここはそんなにも危ない場所なのか。駿は首を捻り小さく息を吐く。
 それよりも早苗に自分が見えていないことにげんなりする。なんだか胸が苦しい。この気持ちはなんなのだろう。寂しいというのはこういうことなのか。きっとそうなのだろう。感情というものを忘れかけているのかもしれない。もしかして死に近づいているってことか。それともすでに死んでいるのか。けど、さっき早苗は変なこと口にしていなかったか。

 とにかくこの状況をどうにかしなくてはいけない。ホツマがいなくなってしまった今、どうすればいいのか。
 そうだ、あの二人について行けばいいのではないか。何かわかるかもしれない。だがそれでいいのか。うまくことが運ぶだろうか。考えている場合じゃない。このままではいけない。幽霊と変わらないじゃないか。追いかけなければ。今なら追いつけるかもしれない。

 それにしてもさっきの話がやっぱり気になる。いったいどう考えればいいのだろう。詳しく話を訊きたい。けれど無理だろう。早苗には自分は見えていない。声も聞こえないだろう。ホツマの言葉も早苗には聞こえていないようだったし、伝えるすべがない。待てよ、別に早苗に訊くまでもない。ホツマが知っているのではないのか。
 不思議なことに自分にはホツマの言葉がわかる。よし、ホツマに訊こう。それにしてもなぜ猫の言葉がわかるのだろう。やっぱり幽霊だからか。いやいや、違う。お願いだから違ってくれ。あれ、自分は何を考えているのだろう。ホツマが人の言葉を話しているのだろう。いや違う。早苗にはホツマの言葉が伝わっていなかった。やっぱり自分が猫の言葉を理解できているってことか。

 どうにもおかしい。記憶がすぐに飛んでしまうみたいだ。ここでじっとしているとダメだ。ここにいたら無になってしまいそうだ。何か暗示をかけられているのだろうか。
 そうだとしたら厄介だ。集中すればどうにか跳ね除けられるだろうか。
 そういえば日蔭の神と話せとかなんとかホツマが話していた。その日蔭の神とやらが自分に何かをしたってことか。そう言われても、そいつはどこにいるのやら。

 ふと早苗のことが頭に浮かび、何か胸の疼きを感じた。気のせいかもしれないがこの感じはいい兆候なんじゃないだろうか。
 少しずつ感情らしきものが復活しているのかもしれない。
 ならば、『魂』をいつの間にか取り返したということか。
 そう思ったがすぐに考えを改めた。きっと違う。感情の復活と『魂』はまた違うものなのではないか。きっとそうだ。駿はなんとなくだがそう認識した。

 駿はまた『その魂、捨てちゃいなよ』との言葉を思い出しブルッと身体を震わせる。
 んっ、ちょっと待てよ。

たま』ってタマシイのことだろう。今、自分はたましいだけの存在なのではないか。違うのか。身体はあるように見えるが、早苗には見えていなかった。ということは、肉体は今の自分にはないってことだ。

 んっ、自分が魂だけの存在となったとしたらどういうことだ。

『その魂、捨てちゃいなよ』だろう。自分は捨てられた『魂』なのか。けど、ホツマは『魂』を取り返せって……。

 ああ、訳がわからなくなってきた。
 あっ、しまった。二人を追いかけるつもりだったのにずっとここにいちゃダメじゃないか。仕方ないか。諦めよう。

 馬鹿か。ダメだ、諦めちゃ。やっぱり何かの暗示にかけられているのだろう。ここから離れることができないのかもしれない。
 そういえば神頼みだとか口にしていたけど。
 後ろに振り返り祠を見遣る。ここはやっぱり何かしらの神社ってことなのだろう。もしかして日蔭の神なのか。
 わからない。これといって何も感じない。神様がいる気配はない。そもそも神様を感じ取る能力などない。そうだ、自分も一応拝もう。

『どうか、良いことが起こりますように』

 何を願ったらいいのか思い浮かばなかった結果がこの願い事だった。
 あっ、『魂』を取り戻せますようにがよかったか。んっ、身体を取り戻せますようにじゃないのか。どっちだ。
 いったい『たま』とは何なのか。
 じっくり考えを巡らせてみようか。時間はあるはずだ。それとも時間はないのだろうか。急がなければいけないのだろうか。

 おいおい、また同じことを繰り返すつもりか。『たま』とは『タマシイ』のことだろう。何回も考えたじゃないか。それじゃ『タマシイ』とはなんだ。読み方が違うだけで同じ漢字だろう。『魂』とは、さてはてなんぞや。

 もういい。とにかく何か行動しろ。
 やっぱり早苗とホツマのあとを追いかけたほうがよかったのだろうか。今からでも探しに行ってみようか。立ち上がろうと手を膝に当てて力を入れた。力がいまいち入らない。ダメか。ダメなのか。
 足腰に力が入らない。腰が重くて無理だ。立ち上がれない。ここから離れられないのか。それならば考えるしかない。
 きっとホツマはまた来てくれるだろう。そう信じるしかない。

 それにしても、『ホツマ』だなんて変な名前だ。なぜこんな名前にしたのだろう。
 話せる猫か。いや話せるわけじゃない。自分だけに言葉は通じるようだから。猫と会話するなんて喜ぶべきことだが、それは今のような状態ではないときのことだ。
 死んでいないとしても今の自分がいい状況ではないのは確かだ。もしかしたらこのままだと死神がやって来てあの世に連れて行かれてしまうかもしれない。そう考えると時間はないのか。どうにか動く努力をしたほうがいい。それともこうなってしまった事実をもっと整理するべきだろうか。

 まだまだ謎だらけだ。
 駿は目を閉じて記憶を紐解いていくことにした。なんとなくだが思い出せそうな気がしていた。
 なぜこんなことに……。
 鍵はやはり『その魂、捨てちゃいなよ』の言葉だろう。頭の片隅にある言葉。思い出せ。いつどこで誰に言われた。

 そうだ、ホツマがなにか言っていただろう。えっと……。
 あれ、なんだったろう。
 駿は背後の祠に目を移す。
 そういえばこの祠に見覚えがあるような……。駿はじっと祠に目を向けた。
 ここが日蔭の神を祀る祠だとしたら……。何がどうなる。まったくわからない。

「そこにいるのか。日蔭の神とやら」

 そう声をかけてはみたものの返事はなかった。
 日蔭の神か。そんな神様なんて聞いたことがない。本当にいるのか、そんな神様。どうにも胡散臭い。実は悪魔とかがそんな名前を語って騙し討ちにしたのではないのか。
 もしもそうだとしたら、自分はどうなってしまうのだろう。
 駿はブルッと身体を振るわせて祠をじっとみつめた。

「こら、ホツマ。どうして逃げるの」

 あっ、早苗とホツマだ。あいつら何をしているのだろう。

「ちょっと、せっかく四葉のクローバーみつけたのに。なんで持っていっちゃうのよ」

 四葉のクローバー。
 ホツマが目の前に来て銜えていた四葉のクローバーをぽとりと落とす。

「何か思い出したか」

 思い出したかと唐突に言われても。

「ホツマ、もうなんでここへ来るの。ここ、怖いって言っているでしょ。帰るわよ」

 早苗は四葉のクローバーを拾いホツマを抱き上げると行ってしまった。やっぱり自分のことは見えないようだ。それはともかく四葉のクローバーがどうにも気にかかる。いや、その前に『怖い』ってなんだ。そういえばさっき早苗は『怨霊神』だとか口にしていなかっただろうか。

 いったいどういうことなのだろう。
 空を仰ぎ考える。
 青い空、流れゆく白い雲。
 ふいに何かの映像が一瞬だけ蘇った。今、見えたのは……。えっと、えっと。ああ、何かが見えたのに。今見えたのはなんだ。んーーー。
 あたり一面が緑だったような。それに白い狐の姿も見えたような。
 なんだったのだろうか。何か関係があるのかないのかわからない。わからないのなら違う側面から考えよう。
 やっぱり気になるのはあの言葉。

『その魂、捨てちゃいなよ』だ。

 駿は俯き言葉の意味を考える。

「仕方がない奴だ。ヒントをいっぱいあげたっていうのに、これでもぼくのこと思い出さないのか」

 顔を上げると目の前に自分がいた。なぜ、どうして。

「ぼくだよ、ぼく」

 口角をあげてニヤリとする自分が別の男の子の姿に変わった。この子はえっと。見覚えがある。思い出せ。

「残念、時間切れ。思い出してくれたらもとに戻してあげようかと思ったけどダメだったね。まあ、そのままってのも可哀想だからぼくが思い出させてあげる。すべてわかったほうが君は怖いだろうからね。ふふふ」

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